第一幕

弥生三月を控え、東京に春の足音が近付いていた。
江戸・明治以来、日本の首都として多くの人々が集い活動する大都市は、夕闇の下でギラギラと輝いている。
乱立するビル群の中でもひときわ高く天を突く摩天楼のヘリポートに、二つの人影があった。
「…まだですかね」 丸みを帯びた赤ら顔に眠そうな目付きをした男が、じれったそうにつぶやいた。
誰かを待っているらしく、男は胴の紋も擦り減った黒金の(こうがい)で自分の頬をポリポリと掻きながら、しきりに周りを見回している。
着崩した袴姿で頭には髷を結ったその出立ちは、時代劇の撮影所から素浪人役が抜け出してきたような場違いさだった。
(じき)に来るだろ。一刻、二刻遅れたって、どうってことねぇよ」 猫背になってあぐらをかき、紺の着流しに錆朱色の首巻をまとう大男が答えた。
右手に持つ鉄扇を時々自分の肩でパシパシと弾ませながら、視線は柵の向こうに注がれている。 眼下の道路で行き交う無数のヘッドライトの光の河を、さも面白そうに眺めていた。
「あの天狗野郎、毎度毎度勿体ぶって何様のつもりでしょうね…。来るんなら、さっさと来やがればいいってのに何やって…」 赤ら顔の男がブツブツ言うと、大男は手にしていた鉄扇を柵にバシンと叩きつけた。
「人一人ぐれぇ、静かに待てねぇのか?」 全身をビクつかせて赤ら顔の男は押し黙った。
そこへもう一人、暗闇から沸いて出たように新たな人影が躍り出た。 端正な顔立ちの年若い青年の姿が、街明かりに浮かび上がった。彼もまた、袴姿で刀を携えている。
「よぉ!来たか」 大男が待ちわびた調子で話しかける。
「今度は、先生に何の御用です?」 青年からは、折り目正しいがどこか慇懃な言葉が返ってきた。
赤ら顔の男は面白くない。
(なぬー!あれだけ待たせて本人が来ないーっ!?焦らしに焦らして結局これかーいっ!) だが大男の手前もあって、口には出すまいと我慢した。
「何だ?先生さんは御欠席か?つれねぇな。折角、ここからの眺めを見せてやろうと思ったんだがな」 「大した用でもないのに、呼び出されるのは控えていただけませんか?不用意な密会は『計画』が露見する危険性が増すと先生が…」 「祭りの前だ。そう堅ぇこと言うなよ」 大男の口元が不適に笑う。
青年は気圧されぬように、顔を引き締めつつ聞き返した。
「祭り…ですか?」 「おうよ」 座り込んでいた大男は、ゆっくりと立ち上がった。 東京の夜景を見渡しながら、柵に片足を乗せて両腕を前で組む。
「今、この国で攘夷を実行するには民の目を覚まさせなきゃならねぇ。 その為には、一丁派手な祭り騒ぎをやらかすのが一番なのさ」 腹の底に響く声で淡々と言ってのけた言葉には、微塵の迷いも気後れも感じさせない。
動じないその後姿に、青年は小さくため息をついた。
「まだ、そんな事を…」 「相変わらず、乗りが悪ぃな。お前ぇは」 青年の溜息を一蹴するように、大男の高笑いが夜の闇にこだまする。
しかし、それを聞きとがめる者は誰も居なかった。
「…という訳で。黒船来航以来、日本の治安は混乱を極め、討幕派による反幕府活動が全国で頻発していた。『桜田門外の変』の井伊直弼や、『天誅』の名の下に行われた佐久間象山を始めとした数々の暗殺劇はその代表格と云えるだろう。まぁ、今で言うところの赤色テロだな」 剣崎(つるぎさき)高校二年生の一クラスでは、日本史の授業の最中だった。
その中の一人——松永 栄治(まつなが えいじ)は、窓の外をぼんやりと眺めていた。 視線の先には、窓に張り出した芽吹き始めた桜の枝が揺れている。
短い黒髪に、体格は小柄で細身。学生服の着こなしも無難そのもので、これといって目立つ生徒ではなさそうだ。そんな地味な容姿にはまだあどけなさが残るものの、その眼にはどこか勝気な性格が表われている。
「…そんな中で幕府は、職にあぶれた浪人を不満の矛先を向けられる前に味方に取り込み、各藩との全面対決を避けられる方法として一挙了得と考えたんだろう。彼らに募集をかけ、京の都で維新過激派を取り締まる、いわば非正規の警備隊として『浪士組』——つまり、のちの『新選組』を結成させた訳だ。その局長で有名な近藤勇だが、多摩の百姓だった彼は八王子千人同心と云う半農の旗本が多い土地で育ち、その影響から佐幕思想の影響を強く受け——」 授業の内容は全く耳に入らないまま、右から左へと流れていく。 無理に集中しようとすればするほど、ますます気が散ってしまうだけだった。
(…ったく。どうせ昔の事じゃないか。誰がどこで何してたなんて、今の俺たちに関係ない事なんか覚えて意味あるのか?) テストの出題範囲とはいえ、社会科が苦手な栄治にとってはさして興味もない情報だった。
他の生徒たちも似たようなもので、そのほとんどが無表情のまま、ただじっと机に向かっている。
その列に向かって、教師は腐る事なく話し続けた。
たまに生徒から質問変わりに茶々を入れられながらも、いつも通りに授業は進んでいった。
放課後を告げるチャイムが鳴る中、生徒たちはそれぞれの部活動に向かっていった。
明日は学年末テストなのだが、教育の一環として部活動に力を入れている剣崎高校では、テスト前日まで活動する『伝統』と云うか『ならわし』があった。
栄治はと云うと、教科書を押し込んだ学校指定のボストンバッグを提げて、さっさと帰ってしまった。
「…ありゃ?」 いつまでたっても部活に姿を見せない栄治を、教室まで探しに来た仲間の部員がいた。 栄治と同じ二年生で、隣のクラスの竹市だった。
「なぁ。松永のヤツ、知らないかい?」 竹市は、最後まで居残って黒板を掃除していた日直の女子生徒に聞いた。
「松永なら、ホームルーム終わってすぐとっくに帰ったわよ?」 それを聞いた竹市の顔が、むっと不快気に歪んだ。
「あいつ!また…!」 「サボリか」 後ろから突然台詞を取られて肝を潰した竹市が振り向けば、所属する陸上部の顧問が立っていた。
「せ、先生!?」 「帰ったものは仕方ない。行くぞ、竹市」 「えっ!?ちょっ…先生!」 栄治の事は諦め、二人は練習場所である校庭へ向かうべく、夕焼けに燃え上がる廊下を歩き出した。 その道すがら、顧問はふと溜息をついた。
「それにしても、松永には困ったもんだ」 「そうなんスよ!あいつ、一年の時から基礎練とかサボってばっかで、マジメにヤル気が全っ然伝わって来ないんスよねぇ…!」 顧問の愚痴に同調した竹市も、ここぞとばかりに栄治への不満を漏らした。
「そのくせ、たまにいいタイム出すんスよ?ま、ホントにたまーにッスけど。だったら、いつでも出せるように練習しとけってっんスよ!」 竹市はやや語気を荒げながら、ズンズンと乱暴な足取りで歩みを進める。
「素質があっても、やる気がなくてはな…」 「えっ?」 顧問の呟きを聞き逃した竹市が、思わず立ち止まって聞き返す。
それには答えずに、顧問は竹市を振り返って
「いや…。いいから、練習に戻るぞ」 と促した。
「はいッス」 少し引っかかりを覚えながらも、竹市は先を急ぐ顧問の背中を追いかけた。
「『黒船が来航したのは何年か?』『1865年』」 温かな南風が心地よく吹く中、家路を急ぐ栄治の姿があった。 日本史の教科書を手に、ぶつぶつと暗記に勤しんでいる。
「『井伊直弼が暗殺された事件を何と言うか?』『桜田門外の変』…と」 暗記に一区切り付いたのか、教科書はパタンと閉じられた。
「あー…。明日テストだっていうのに、全っ然終わらねぇ…」 教科書をカバンにしまい直しながら、栄治は独りぼやいていた。
昔から勉強は好きではなかった。かと言って、部活もさほど楽しいと感じた事はない。
何に夢中になるでも無く、どこか宙ぶらりんな気持ちで今日まで過ごして来た。
(受験、進学、就職…自分の人生が勝手に決められていくみたいだ) 歩いているうちに、未だ木造家屋が立ち並ぶ旧市街に差し掛かった。表通りを大回りするより、この路地を行った方が駅に近い。
ここを通ると、なぜか考え事をしてしまう。
駅からもそう遠くないこの辺りは、再開発される予定で地上げにあった。 しかし、開発に漕ぎ着ける前にバブル経済が終息。計画は資金もろとも消し飛び、ここ一帯は手付かずのまま取り残された。そのために空家が多く、静かそのものだ。 その静けさは都会の喧騒に呑み込まれるどころか、むしろそれをかき消すほどだった。
ここに来ると、栄治の関心は自分の外側から内側に向く。
(今世の中がいろいろと騒がしいのは、なんとなくわかる。けど…何をどうしたらいいのかは、さっぱりわからない) 古びた街灯の明かりだけが頼りの薄暗い路地。その先に広がる暗闇がぽっかりと口を開けている。
そこに自分の、あるいはこの世の行く末を見たような気がして、ますます栄治は気が滅入ってきた。
(俺に出来ることって、一体何なんだろうな…?) 不意に栄治の足元でコツンと音がした。気になって、足元に目線を落とす。
「何だこれ?ハチマキ、か?」 拾い上げたのは、一つの鉢金だった。
額当て部分は傷や凹みがひどく、布の部分に至っては染みと擦り切れて出来た穴だらけである。
普通なら博物館にでも置いてあるような代物だが、栄治にそれを思いつくだけの知識はなかった。
(落し物…か?ずいぶん、ボロボロだな) その時、栄治は背後からふっと何者かの影がかぶさって来るのに気付いた。
振り向いた瞬間。その影が、自分に向かって拳を振り下ろすのが見えた。