「幕末人物を何人キャラデザ出来るか?」という自己課題で書いたラフの加筆修正版。 今のところ読んだ資料とフィクション作品を参考にした独断と偏見による設定集です。
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こんどう いさみ まさよし
言わずと知れた新選組局長。多摩の豪農・宮川家の次男。本名は勝五郎。天然理心流師範・近藤周斎の養子になり名を改めた。幼なじみの歳三や親を亡くした総司はもとより、他流派の食客(※住込の客分)まで迎え入れるほど面倒見が良い。人を引き付ける天性の人柄の持ち主。道場の師範としても教え上手で、門下生たちは短気な塾頭の総司よりも勇に習いたがったという。剣の腕はもちろん、戦場での気迫には誰もが圧倒される。周斎が勇を養子に選んだのも、若くして強盗を撃退した度胸をかっての事だった。個人的には本番に強いタイプと見ており、必要なら池田屋事件のような独断も厭わない現場指揮官に相応しい人物である。ただ悲しいかな。武士という身分や理想像にこだわるあまり、現代で言う「学歴コンプレックス」がそこかしこに感じられる。憧れの裏返しなのか権威に弱く、身分や名刀などブランドを身に付けると浮かれやすい一面も。京時代の勇は学問をもてはやし、歳三はこれを毛嫌いした。正式な武士ではない事を強みに出来ず、不足とみなしていたのが残念。そもそも彼らが雇われる時点で、譜代や代々の直参では支えきれないほど武士階級は形骸化していた訳だが…。逆に、京都時代に幕府絡みの捕物で新選組に同行した渋沢栄一(※豪農出身の士分)は、同じ武州の尊王攘夷論者から方針転換(※遊学後に実業界へ)を選択している。せっかく個性的な人材を率いながら、惜しい気がしてならない。趣味は名刀の収集。屯所の大家だった源之丞さんと刀剣談義(八木為三郎・談)に興じたり、上洛祝いに兄・音五郎から贈られたと云う長曾根虎徹の贋作を愛刀にしていた。大仏次郎の小説『鞍馬天狗』にも「今宵の虎徹は血に飢えておる」の科白で登場する。虎徹は紛い物が多い事で有名だったが、この贋作は池田屋事件でも壊れなかった(近藤勇・書簡)と云うから出来の良い『当たり』(※虎徹では無いが刀工・四谷正宗の作)を引いたようだ。
ひじかた としぞう よしとよ
副長。日野の豪農・土方家の六人兄弟の末っ子。「役者のような」「ざっと言えば(略)美男子」(安部井磐根・談)と評された二枚目な外見とは裏腹に、素はシャイで意地っ張り。軟派の皮を被った硬派。沢庵をバリバリいわせて食べるのが好きだったらしい残念なイケメン。子供の頃に呉服屋へ無理矢理丁稚奉公に出されたものの、聞かん坊な性格と女性問題(w)で二度も首になったとか。のちに京でもらった恋文の数々を故郷の家族に自慢(小島守政・談)するようになるだけあり、女性への手の早さは天性のもののようだ。恋愛脳。エロゾー。もといロマンチ。(笑)地元では「バラガキ(※多摩の方言で「茨のような餓鬼」の意)」と呼ばれるほどの暴れん坊で、石田散薬なる薬効も怪しげな(笑)薬売りをしながら道場巡りと喧嘩に明け暮れた。趣味は発句で、"あの"『豊玉発句集』を詠んでいたのはこの頃である。上洛後は勇を盛り立てて隊を取り仕切るも、ちょっとやり方が厳しすぎたようで「鬼副長」と恐れられる。山南さんとは性格上・政治信条上の対立が絶えないが、時々意見が合う時もある様子。個人的には、鳥羽伏見以降に近代の軍人として急成長していく歳三が格好良い。函館では「赤子が母を慕う」(中島登・談)ように、兵士たちから信頼されていた。小説『燃えよ剣』では総司と兄弟のように書かれてるが、ここでは勇や源さんを交えた家族のようなイメージ。姉・おのぶの嫁ぎ先だった庄屋・佐藤家と仲が良く、里帰りの度に土産を持って来たり、甥っ子たちと遊んだりした微笑ましい逸話が残っている。また、彼が佐藤家や井上家(※源さんの実家)とやりとりした書簡は、新選組の組織や隊士の変遷を辿る手がかりとして今や貴重な資料。
おきた そうじ かねよし
一番組長。撃剣師範。白河藩士(※江戸)の子。実家は足軽小頭。長男。姉二人がいる。彼が物心つく前に、母親は沖田家から離縁されていたと云う。五歳で父親を亡くし、姉・みつの婿・林太郎が家督を継いだ為に九歳で奉公に出された先が試衛館だった。十九歳で天然理心流免許皆伝。若き塾頭。夭折の天才剣士。従来の美形というイメージは無く、「いつも笑って冗談ばかり言う」(稗田利八・談)陽気な性格で、近所の子供たちとよく遊ぶ(八木為三郎・談)ようなやんちゃっ子と捉えている。何を言っても嫌味にならない憎めない末っ子タイプ。ヒラメ顔でも浅黒くても全然OK。(何がw)…その天真爛漫さ故に、どうしても彼が平助や一さんより年上に見えない。(笑)剣の腕は言わずもがな。一度勝負が始まれば陽気な人格は一転、鬼のように確実に相手を打ち倒す。「本気で立ち会ったら師匠の勇もやられただろうと(道場で)皆言っていた」「(総司と)立ち会っていると身の毛がよだつ」(永倉新八・談)と仲間内からも評される抜群の使い手。家庭環境に恵まれなかった影響か、人の生死にどこか淡白。無邪気の皮を被ったサイコパス。貧しさ故に実家に居場所がない幼い自分に剣の道を教えてくれた師匠の勇は生涯の恩人。源さんは親切で頼れる近所のおじさんのような人。歳三はからかい甲斐のある兄弟の感覚。(笑)そんな総司像のせいか、これまた労咳による喀血や病弱のイメージはほとんど無し。池田屋で昏倒した直接の原因も熱中症だったらしい。病で戦線離脱した後もその明るさで自分自身を支え、仲間たちに付いて行けなかった悔しさを紛らわそうとしたのかもしれない…と、勝手に想像している。試衛館では源さんに次ぐ最古参の一人で、歳三の兄弟子にあたる。歳三が年下の総司に強く出られない理由は、このあたりにありそうである。
やまなみ けいすけ とものぶ
副長。のちに総長。仙台藩脱藩。実家は剣術者指南役。次男。小野派一刀流免許皆伝。北辰一刀流も修めていた(永倉新八・談)らしい。どうも「さん」付けで呼ばずにいられない。(笑)「色白で愛嬌のある顔」で「親切者は山南と松原」(八木為三郎・談)「少しく事理のわきまえある者」(西村兼文・談)と評されるなど、文武両道で温厚な人柄がうかがえる。一方で、上洛の道中にて隊士の村上俊五郎と言い争いになり、相手が謝るまで一歩も引かなかった(永倉新八・談)頑固さもあり、理不尽には毅然と反対する熱い心の持ち主。やられたらやり返す倍返しの人。(違)歳三が「鬼の副長」なら、山南さんは「仏の副長」といったところ。だが、知識が多い人は悩みも多いとはよく言ったもので、水戸学に造詣が深い尊王(=朝廷第一)論者の山南さんは、尊王佐幕(=公武合体)論者の勇や歳三との溝に随分苦悩したものと思われる。歳三と並ぶ副長だったが、後に総長という何の権限もない窓際に追いやられてしまう。原因の一つは、池田屋事件で出動出来なかった事。大阪の岩木升屋で強盗を撃退した際の手傷の所為とも、体調不良の所為とも云われている。この時折れた愛刀・赤心沖光なる刀工は記録上存在せず、当時大阪で出回っていた「見かけが美しいだけの量産品」…通称・大阪刀をつかまされたとみられる。その上、平助がスカウトして来た伊東甲子太郎に頭脳労働担当の役どころまで取られる格好になり、隊内での発言力がさらに低下。特に平助が同門の甲子太郎を新選組の変革の為に引き入れた結果、これまた同門の山南さんが居場所を失ってしまったのは皮肉である。実は彼の切腹の理由ははっきりとした記録も証言もなく、明里との別れの場面(八木為三郎・談)も子母澤寛の創作との説があり、真相は謎に包まれている。さらに仙台藩の藩士名簿に「ヤマナミ」あるいは「サンナン」という家は見当たらず、通称か偽名を名乗っていた可能性も。
ながくら しんぱち のりゆき
二番組長。撃剣師範。松前藩(※江戸)脱藩。実家は定府取次役と云う役方(※文官)の中級藩士。次男。妹と夭折した兄がいる。母方の実家が将軍家剣術指南役を務める柳生藩の家老・柳生家(※柳生本家の親戚)で、剣術オタクの理由はこの血筋にありそうである。神道無念流免許皆伝。実は総司と並ぶ使い手(阿部十郎・談)で、総司の労咳が悪化してからは一番組も任されて(稗田利八・談)いた。大河では八木為三郎の証言(実年齢より五歳年上に見られたw)よろしく大柄で老け顔な頼もしい風貌だが、ここでは小柄で童顔。晩年を取材した新聞記者の「眩しげな目つきをした、親しみ深い童顔を」(佐々木鉄太郎・談)と云う評がある事と、左之助や島田魁と変化をつける為にこっちを採用。いずれにしても年相応に見られない傾向にあるようだ。(笑)自分の役目はきっちり勤めつつも、マイペースに好きなことをしているイメージ。常識人の皮を被った自由人。身分や名刀などブランドに興味は無かったらしく、池田屋事件でも刀が折れると敵の刀を奪って戦い続けた。晩年まで稽古用に所有していたのも無銘刀で、家族が捨てた筆を鋏で整えてまで使う(杉村逸郎・談)など、消耗品は徹底して使い倒す倹約家な一面も。浅草育ちの江戸っ子(八木為三郎・談)らしく大の歌舞伎好き・寄席好きで、晩年に地元・小樽の素人演芸大会で声色芸(※物真似)を披露する(杉村逸郎・談)など意外な特技を持つ。最初は、隊内のポジションがニュートラルすぎて性格がイマイチつかみづらかった。案外、派閥がどうとか誰が正しいとかにこだわらず、その時その時のベストを尽くすシンプルな性格だったのかもしれない。喜怒哀楽がはっきりしていて、若気の至りで馬鹿もやるし失敗もする。けれど人情味を失わない真っ当さがあったからこそ、晩年は孫煩悩の好好爺として余生を過ごせたように思う。最初は、彼が新選組の語り部となれた事に意外性を感じた。…が、消去法で残るのはやはり新八さんだけだったというさらなる意外性に驚いた。(笑)後世に創作された「新選組もの」の多くは、彼の手記『浪士文久報国記事』と晩年の連載インタビュー『新選組顛末記』が元ネタである。故に一番書きやすい人物である。(笑)余談ながら「新八」という名前は武士から町人に至るまでわりとよくある平凡なもので、いわば「普通の人」の代名詞とも云える。
さいとう はじめ
三番組長。撃剣師範。自称・明石藩(※江戸)脱藩。本姓は山口。次男。兄と姉がいる。無外流免許皆伝…とされるが諸説あり。謎多き隊士で、クールを絵に描いたような人物。とにかく無口な所為で、新八さんがうっかり流派を聞きそびれた程。(笑)喋るとしても一言二言だったのではと想像する。「殺戮の癖あり」(西村兼文・談)との噂もささやかれる、酒豪の剣豪。出自も曖昧で、実は会津藩の密偵だったとか、明石藩の足軽だった父親の山口裕助が御家人株を買ったと云う子孫・藤田實氏の証言もある。会津戦争で歳三率いる新選組本隊は会津への残留を会津藩に拒否されたのに、彼が率いる別働隊は城外とはいえそれを許されている事から信憑性は高いと思われる。試衛館に出入りはしていた(永倉新八・談)が、本格的な合流は上洛後。彼が監察方だった記録はないが、隊内の暗殺や離反者の監視役を引き受けていたともとれる節があり、歳三からの密命を命じられるほど密偵向きの人物だったのではと個人的には見ている。歳が近い総司や平助と同じ年少メンバーにはとても見えない人である。(笑)特技は刀の目利き。無銘刀の中から切れ味も強度も良い一振りを見つけて勇に贈った事もあると、のちの警備員時代に新聞記者に語っている。自身も備中の名刀・国重が愛刀だったが、池田屋事件で破損ののち廃棄の憂き目に遭う。刀・愛が止まらない隠れ刀剣オタク。いつもは何事にも動じない彼が、名刀には目の色を変えて蘊蓄を垂れていたりすると面白いと思う。(爆)大阪力士乱闘事件直前に「腹痛」を理由に屋形船への乗船を拒否したり、富士山丸で大阪から江戸に引き揚げた直後にほぼ負傷していないにもかかわらず医学所を尋ねたり、会津に残って箱館に渡らなかったりしている為、ここでは船酔い体質を隠していると云う設定になっている。明治後は、佐川官兵衛の伝手で警視庁の公安に勤務。西南戦争にも警視庁抜刀隊の一員として出征し、新聞にも西郷軍から大砲を奪った戦果が掲載された。退職後は、奥さんの時尾さんが舎監(※管理人)を務める女子師範学校の警備員に嘱託。何度も名を改めており、長年実像が掴み辛い隊士の一人だったとか。特に「斎藤一」と「藤田五郎」が同一人物だと突き止めた赤間倭子女史の功績は大きい。生涯を通して見ると、与する組織は違えども職種は一貫してるように思う。朴念仁の皮を被った仕事人。生活態度は几帳面そのもので、自分の下着は自分で洗い、服装や姿勢を崩すことはなかったそうな。最後は家族に看取られながら、正座したまま臨終されたらしい…凄過ぎる!
はらだ さのすけ ただかず
十番組長。小荷駄(※補給部隊)隊長。伊予松山藩脱藩。実家は中間と云う武家奉公人。種田流槍術の使い手。小説『燃えよ剣』では太っちょだが、「漆のような髪を振り乱す」(八木為三郎・談)「容貌万端」(内藤素行・談)な美男だったそうな。左之助の豪胆な性格を考えると、ワイルドな格好良さだったのではと想像している。彼の持ちネタの切腹未遂事件や「短気で二言目には斬れ斬れと怒鳴った」(八木為三郎・談)と云う逸話から、見た目はいいが中身は単純というイメージがインプットされてしまった。(笑)実際の左之助は「怜悧なり」(内藤素行・談)とも言われていたらしいので、地頭は良かった模様。新八さんとは「暴れ者」同士、気が合うようだ。薩長の密偵と間違えてうっかり斬りかかった幕臣・天野八郎から、新八さんとの連携プレーを褒められていたりする。そして素直に謝って、三人で呑みに行っている。(笑)のちに左之助が彰義隊に加われたのは、副頭取の天野とここで知己を得たからと思われる。幹部で唯一正式に祝言を上げた愛妻家で、意外とマメなマイホームパパタイプ。上野戦争で戦死というのが定説だが、大陸に渡って馬賊の頭領になったという俗説もある。さらに明治四十年頃、日本の家族のもとに顔を出したと故郷・松山の甥一家が多摩新聞の記者に語っている。左之助ならそれぐらいの事をやっても全く違和感がない為、個人的には信じている説だったりする。
とうどう へいすけ のぶとら
八番組長。御府内(※江戸)浪人。北辰一刀流本目録。試衛館以前は伊東道場の内弟子(※秦林親・談)だった。伊勢津藩主・藤堂高猷の御落胤を自称するほど、育ちのよさそうな風貌。あざと可愛い。(爆)「小兵」(阿部十郎・談)と評されるほど、小柄で非力に見えたらしい。さらに、藤堂家お抱えの刀工・上総介兼重の打刀を所持していたという…が、やはり池田屋事件で刃こぼれ(近藤勇・書簡)して破損。自身も眉間を斬られて出血で前が見えねェ…(違)負傷ののち戦線離脱する。曲者揃いの面子に振り回される最年少で、何かとワタワタしており、頼りなく見られがちなイメージ。否、「先駆け先生」の異名をとる果敢な剣客の一面も。総司と同様、剣を握ると人格が変わる性格なのだろうか。同年代の総司とは、人柄への親しみと剣の腕への劣等感を同時に感じる複雑な仲。左之助とは、その性格と年が四歳離れている分だけ却って気楽につるめる間柄。新八さんには、池田屋で助けられてから頭が上がらない。同い年なのに何を考えているか分からない一さんは苦手。山南さんを兄弟子、伊東甲子太郎を文字通り恩師と仰ぐ。同門である以上に、無駄な争いを好まず、対話(の皮を被った策謀)で事を解決するスマートさに共感したのかもしれない。個人的には、彼の最期はあまりに悲運だと思う。近藤派から伊東派に戻り、時流に乗ろうとしたその矢先、油小路事件で近藤派に暗殺される。享年二十四歳。だが、信憑性は薄いものの、彼には生存説があるらしい。気になるところである。
いのうえ げんざぶろう かずたけ
六番組長。日野宿は八王子千人同心の組頭・井上家の三男。平助と共に、雑用や使いっ走りにされても嫌な顔ひとつしない「良い人」のイメージ。控えめで目立ちたがらない好々爺…いや、失礼。好人物である。だが剣の腕は天然理心流免許皆伝であり、その実力は決して侮れない。池田屋事件で得物を壊さず戦い抜いたのは、源さんと勇くらいだったと云われている。多摩時代から、農作業が遅れるほど稽古に励んでいた(井上家・書簡)という努力家。地元の私塾にも通っていたなど学もある。その上、「一度決め込んだらテコでも動かない」頑固さもあったと云う。彼を語るエピソードからは年長者の余裕からくる気遣いと、年少者への責任感がうかがえる。十代後半に周斎に弟子入り(※道場は日野で師範代は佐藤彦五郎)して以来、試衛館の縁の下の力持ち。勇や歳三に直言出来る数少ない人物で、新選組の真の要は源さんだったのではと思っている。彼の実家である井上家は佐藤家(※歳三の姉の嫁ぎ先)や小島家と並ぶ多摩の有力者で、新選組と地元の後援者とを繋ぐ重要な役目もあったと思われる。どうも「おじさん」を通り越して「(初老の)おじいさん」のように描かれがちな源さんだが、享年は四十歳。いくら当時の平均寿命が短いとはいえ、もうちょっと若くてもいいと思うのだが…やっぱり、ここでもこれくらいの見た目に落ち着いてしまった。(ゴメンよ源さん…)
せりざわ かも
筆頭局長。水戸藩脱藩。実家は芹沢城主を祖とする郷士。本名は下村継次。尊王攘夷派の雄・武田耕雲斎の門下で天狗党の元幹部。神道無念流免許皆伝。勇達にとって「強敵」と書いて「とも」と読むべき人物である。(爆)新選組をひっかきまわすトラブルメーカー。しかし、彼の金策のおかげで、隊が金欠病にならずに済んだ側面も。新選組がヤクザやチンピラのイメージを持たれがちなのは、初期の彼の振る舞いに寄る所も大きいと思われる。(※武士が商家から御用金をせびるのは当時ありふれた事)ここでは大河の鴨像に酔狂で粋な部分を加味した雰囲気。相撲取りのようなおっさん鴨も良いが、お梅さんとのバランスを考えると、ある程度のルックスは欲しいところだったりする。(笑)酒癖が悪く、会津藩から苦情が来るような粗暴行為の数々のせいで「悪者」に描かれる事の多い彼だが、悪ぶる事で内に抱え込んだ悔いを紛らわしていたのでは…と想像している。屯所があった八木家が葬儀を出した時はその受付を引き受けたり、その時の暇つぶしに子供たちに落書きを描いてやったり、八木家から借りた槍をうっかり壊してすごすごと逃げる(八木為三郎・談)など、茶目っ気がある一面も。
にいみ にしき
一時は局長だったにも関わらず、出生から本名から記録が殆どない人物。屯所の大家だった八木家からも「新見と粕谷といういうのはまるきり覚えがありません」(八木為三郎・談)と言われるほど影が薄かったらしい。どこぞの隠密説が囁かれるのも、さもありなんである。個人的には、芹沢に付いて回るただの腰巾着ではなく、公私共にナンバー2として芹沢派を支えるというイメージ。影が薄いという事は容姿も平凡だったのだろうが、ここではなぜか怪しさ炸裂の顔になっている。(汗)ちなみに、今にも公家言葉を話しそうな大河の彼はある意味素敵だと思う。(笑)
ひらやま ごろう
副長助勤。芹沢派唯一の姫路出身。「隻眼の剣客」というのが何となく絵になる。癇癪持ちなイメージがある。花火の事故で左目を失明していたが、見えない分だけ神経を張っていたのか、どんな立会いでも左側面からは絶対に打ち込ませなかったらしい。その代わり見えている右側からは結構打たれたそうな…。一見、怖そうな芹沢派だが、どこか抜けていて憎めない人達である。
ひらま じゅうすけ
副長助勤。地元の水戸では平間家と芹沢家はお向かいさんだったとか。芹沢・平山と同日に暗殺されかけた所を辛くも脱出。しかし脱走者となった彼は実家に帰るわけにもいかず、流泉小史『新選組剣豪秘話』によれば「諏訪部」と名を変えて岩手で逃亡生活を続けたらしい。やがて臨終の際に家族が江刺へ駆けつけるが、その時の生活は裕福だったそうな。
のぐち けんじ
副長助勤。強面だが性格は良く、近藤派をさほど敵視してはいないイメージ。江戸にいた一時期は、新八さんと同じ百合元道場だったからか?ちなみに、同道場には芹沢派も稽古に来ていた。同郷・同門の芹沢には相当世話になっているはずなので立場上逆らえない。芹沢と平山が暗殺され、平間が逃走した結果、芹沢派最後の一人となった。その数ヵ月後に安藤早太郎の介錯で切腹させられている。その理由を尋ねた源之丞さんに安藤は「さぁ…」とだけ答えたという。その安藤も池田屋事件で死亡し、真相は謎のままである。しかし、彼には脱走説もあり、個人的にはこちらを信じたくなってしまう。
いとう かしたろう たけあき
参謀。本名は鈴木大蔵。実家は常陸国の旗本・本堂家の家臣。父親が上役と対立して浪人になり、水戸で勤皇思想と神道無念流を学ぶ。のちに江戸に出て、深川は伊東精一の道場を継ぎ伊東姓を名乗る。一部で「策士」と呼ばれるほど頭がきれ、北辰一刀流免許皆伝と云う文武両道の人物。同門で性格や思想も似ている為か、一時期は山南さんとも交流があったらしい。以前の内弟子だった平助の伝手で、途中入隊ながらいきなり参謀職に就く。慶応三年に朝廷から御陵衛士を拝命し、新選組から分離。同年には大政奉還が成り、幕府と距離を置いた彼の方針は正しかったのだが、その矢先に油小路で惨殺されてしまう。和歌をたしなむ風流人な一面もあり、個人的には某小説のような悪賢いイメージは無い。夫恋しさに嘘の手紙で彼を江戸に呼び戻してしまった奥さんを離縁してしまうなど、厳しくも公私混同を嫌うフェアな一面がうかがえる。仲間には「同志」として接し、自分を「先生」と呼ばせなかった、という逸話が興味を引く。そのせいか妙に親しみが沸いて、呼び方も「伊東参謀」から「甲子太郎」を経て、とうとう「かっしー」になってしまった時もあったが(爆)、今は「甲子太郎」で落ち着いている。(笑)
すずき みきさぶろう ただよし
九番組長。甲子太郎の実弟。つい「みっきー」と呼んでしまう。(爆)若い頃は酒による失策で養子先から離縁されたりとやんちゃしたが、後年の彼はとても謙虚で兄思いな一面が伺える。油小路では虎口を脱し、薩摩屋敷に庇護されて官軍に加わる。翌年、油小路で討死した仲間たちを改葬。赤報隊の偽官軍事件を経て会津に出陣するも、終戦のため帰京する。明治元年、両国橋上で偶然遭った新八さんと一触即発状態になった事も。警察署長を歴任したのち、故郷の茨城で余生をおくる。晩酌を欠かす事はなく、酒豪振りは健在だったようだ。
もうない ありのすけ よしたね
弘前藩浪人。文学師範。中途入隊にして就いた役職から、彼を含めた伊東派のほぼ全員が文武両道の切れ者というイメージ。「馬にも乗れば槍も使う」ことから「百人芸の毛内」と評された多趣味多芸な人。彼の継母が考えたという「槍の穂先のような」変わった脇差を差していたらしい。新井さんとは兄弟のように仲が良く、二人で毎日のように建白書を綴っていたとか。油小路事件では平助や服部さんと共に奮戦して討死する。同志を逃がす為に、一歩も退かずに闘い続けたという。
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はっとり たけお よしあき
播州赤穂または御内府浪人。監察方兼撃剣師範。「三郎兵衛」「中西小六」とも称す。剣の腕は隊随一とも評価される凄腕。油小路事件では、軽装を選ぶ同志たちの中で唯一人だけ鎖帷子を装備するなど、実戦本位で現実的な性格が見て取れる。斬り合いで同志が次々と離脱・討死する中で孤軍奮戦。多数の敵に手傷を負わせ、両手に刀を握ったまま息絶えると言う壮絶な最期を遂げる。質実剛健で無口な剣客のイメージがあり、ここでは伊東派の"ポスト斎藤一"と云うポジションに収まっている。(笑)
あらい りくのすけ ただお
磐城平脱藩。監察方兼撃剣師範。三条制札事件で土佐浪士に止めを刺そうとする隊士を止めたり、会計方の河合耆三郎が隊費私消(※横領・使い込み)を疑われた時は歳三の意に反して調査を続けたりと、公平な人柄を伝える逸話が多数ある。油小路事件の際は江戸に遊説中で不在。奥さんの小静さんが、京に戻るのは危険だと知らせるために変装して一人で探しに来てくれたりと、夫婦の絆の強さが伝わる。また、偽官軍事件で投獄された際には、出された食事に手をつけなかった(※ハンガーストライキ)という頑固一徹な一面も。明治後は司法省に出仕して退官まで勤め上げた。
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かのう みちのすけ わしお
相模・伊豆の加納家嫡男。伍長。油小路事件後は通じていた薩摩藩に保護され、阿部や篠原と共に墨染での勇の狙撃に参加。戊辰戦争では、流山にて投降してきた幕臣「大久保大和」を「近藤勇」と見破ったのも彼である。明治後は開拓使、農務省、民間会社を勤め上げて引退。厳格で雷を落とす性格だったらしく、晩年は孫たちから恐がられていたと云う。
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しのはら たいのしん
筑後・生葉郡の百姓・篠原家嫡男。監察方兼柔術師範。「泰助」「篠塚友平」「秦河内」とも称す。のちに有馬家に仕え、御供として江戸入りする。彼を含めた伊東派の多くは文久三年の横浜で出会い、同志の盟約を結んで伊東道場に入門したと云う。油小路事件では辛くも逃げ延び、阿部や加納と共に墨染で勇を狙撃。戊辰戦争では偽官軍事件で投獄されるも釈放され、弾正台に出仕。晩年はクリスチャンの洗礼を受ける。明治後は名を「秦 林親(はた しげちか)」と改め、史談会で数多くの証言や推察を語り残している。奥さんのチマこと和泉屋傳吉の娘"おみの"は髪結親子として長州・土佐浪士たちを客に取り、彼らから得た情報を新選組に流していた情報屋。のちに事が発覚して父親の傳吉は浪士に殺害され、逃げ延びた彼女は篠原の妻となる事で保護された。その後も、二人は晩年まで夫婦として添い遂げる。
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あべ じゅうろう たかあき
出羽・由利郡の百姓・阿部家次男。伍長。砲術師範。二度も脱走しながら二度とも生き残り、遂には勇に復讐の銃弾まで撃ち込んだというツワモノ砲術士。池田屋事件前の最初の脱走後は、大阪にあった谷万太郎の槍術道場にこっそり寄宿。ぜんざい屋事件にちゃっかり参加して浪士を討ち取り、その功績と監察方・浅野薫の仲介で復帰すると云う肝が太い性格。戊辰戦争では、偽官軍事件で入牢させられた新井さんたちを独断で助けに行こうとするなど、直情だが仲間思いな一面をうかがえる。池田屋以前から隊に不満を持ち、近藤派と敵対していた彼の証言は客観的なものとして、新選組を知る上で結構重要視されている。明治後期の史談会で「新選組で一番の剣客は?」との問いに「永倉、沖田、斎藤」と挙げたのも彼である。
やまざき すすむ
諸士取調役兼監察といえばこの人。本姓は林。大阪の針医者の息子で香取流棒術や長巻が得意。入隊時は三十代半ばの妻帯者で、奥さんの琴尾さんは明治四十三年まで大阪で存命だったらしい。素直で大人しい人だった、とは良順先生の言。とにかく任務に忠実で勇や歳三がもっとも信頼をおいた一人でもあったが、歳三にアゴで使われているように見えなくもない。(汗)医者の息子である出自を活かし、薬売りに化けて諜報活動に奔走したいう逸話も。池田屋事件の報奨金授与記録に彼の名がないのは、機密の為にあくまで「裏方」に徹したから…とも解釈したい。器用で気が利いて機転も利く、腰が低くも芯がある大阪商人タイプなイメージ。
しまだ かい よしあき
山崎烝と同じく京での一次募集で入隊し、やはり監察方に就く。美濃大垣藩出身で、力士のような体格だったと伝わる。実際、大男だった彼の怪力を物語る逸話は数知れない。その一方で酒はあまり飲まず、「飴みたく糸をひく」ぜんざいが好物の甘党という一面もある。奥さんの西村サトは正反対の小柄な人で、彼女の背では届かない洗濯竿を持ってあげたりするなど、「気は優しくて力持ち」を地でいく性格。新八さんとは江戸の坪内道場で知り合っていたらしく、「お人好し」同士、気が合うようだ。二番組伍長として彼の補佐役を務めていた時期もあり、鳥羽伏見でも武装が重くて塀を登れないでいる所をゲベール銃につかまらせて引き上げるなど怪力を遺憾なく発揮している。戊辰戦争では周りが次々と隊を離脱していく中、箱館戦争まで戦い抜いた。降伏後の拘留生活中に書き残した記録はのちに『島田魁日記』として発掘され、元・監察方らしい信憑性の高い一次資料として後世の研究者に評価されている。釈放されてからは奥さんの実家がある京へ身を寄せ、商売を始めるが上手くいかなかったらしい。それでも榎本武揚からの新政府出仕の誘いや爵位も辞退し続けた。晩年はかつての屯所でもあった西本願寺の守衛を務めた。
よしむら かんいちろう
浅田次郎原作の映画『壬生義士伝』ですっかり有名人になった彼。しかし、貧しい家を支える出稼ぎ隊士像は子母澤寛の創作という説もある。個人的には好きな話なのだが…。本名を嘉村 権太郎(かむら ごんたろう)といい、天保十一年に南部盛岡藩士の次男に生まれる。江戸に遊学中に北辰一刀流を修め、のちに脱藩。上洛し、入隊の運びとなる。撃剣師範や監察方などを勤めるなど、古参隊士と同等の地位にいた事から彼の優秀さがうかがえる。鳥羽伏見で戦死と記録されているものの、遺体は不明。当時まだ佐幕派だった旧藩を始め、逃走先は少なくなかったと思われ、彼が生き延びた可能性も残る。あくまで推測だが…。
おがた しゅんたろう
肥後熊本出身。京での一次募集で入隊した古参隊士。文学師範で、監察方や副長助勤も勤めた人なのだが…なぜだか影が薄い。江戸での隊士募集や勇の出張にも同行している事から、それなりに重宝されていたはずである。しかし、彼に関する逸話などは全くと言っていい程残っていない。個人的にかえって気になる人物である。鳥羽伏見の戦い以降は隊に従い、甲州勝沼、会津と転戦。母成峠の戦いで離隊したのちは消息不明となる。会津で死亡した隊士の墓と並んで、「尾形」という人物が葬られているという話しもあるが、同一人物かは不明。また、明治後の藤田五郎(※斎藤一)の警視庁での同僚「古閑膽次」(※熊本出身)と同一人物ではないかと云う赤間倭子女史の私説が興味深い。
まつばら ちゅうじ のぶただ
播磨出身。関口流柔術の達人で、柔術師範と四番組長も勤めた。「青々とした坊主頭に鉢巻をつけ今弁慶と呼ばれた」とか。屯所を構えた壬生村でも「親切人は山南と松原」(八木為三郎・談)と言われていたと云うから、愛想も面倒見も良かったらしい。隊士にも慕われていたようだ。子母澤寛の『壬生心中』では、手違いで斬ってしまった浪人の未亡人の面倒を看た事で、歳三にあらぬ疑いをかけられて隊務まで放棄した挙句に自害したと描かれている。彼の切腹の真相は未だ謎だが、やはり表沙汰に出来ないような理由だったのだろうと推測する。
たけだ かんりゅうさい とくひろ
五番組長。文学師範。出雲で医学を学んでいたが長沼甲州流軍学を修め、いわば文官として入隊した変り種隊士。とは云え、池田屋事件では上から降ってきた浪士を斬るなど剣術の心得はある模様。かなりの口八丁で、目下の者には威張るが目上の勇には度々おべっかを使っていた(永倉新八・談)との評判。どの組織にも一人は居るゴマスリ太鼓持ちか、はたまた立ち回りの上手さが鼻について嫌われてしまったか…。後に、倒幕派に傾く薩摩と通じようとした事が発覚して暗殺された。現場は竹田街道で、実行犯は歳三の意を受けた斎藤一と篠原泰之進だったとも伝わるが、暗殺劇は伊東派分離後の出来事なので真の実行犯は他にいる模様。
たに さんじゅうろう ともくに
七番組長。槍術師範。実家は備中高梁藩士だったが御家断絶で浪人になり、大阪で種田流槍術の道場を開く。伊予から出て来た左之助や、名古屋から出てきた島田魁はここで槍術を学んでいる。弟の万太郎、昌武と共に入隊。弟の万太郎が池田屋事件で突入組として活躍を評価されたり、もう一人の弟の昌武が勇の養子になり「周平」を名乗るなど縁故を結び、隊内で存在感を増していく。のちに祇園石段下で頓死しているのが発見されるが、事故なのか暗殺なのか粛清なのか真相は不明である。明治後期の史談会で、秦林親(※篠原泰之進)は「下手人は左利き」である見立てを根拠に斎藤一が犯人と証言している。
たに まんたろう
たに まさたけ
なかむら きんご
二番組隊士。なぜだか描いてしまった。(笑)京での第一次募集に応じて入隊。尾関雅次郎と並ぶ旗役。長州の間者狩りでは幹部間の伝令役を務めたり、池田屋事件では土方隊に属して屋外の守備を務めたり、四条堀川西の米屋に入った押し込み強盗を一さん達と共に撃退したりと、地味に優秀なサポート役。慶応三年に離隊。
かのう そうざぶろう
映画『御法度』(原作は司馬遼太郎『前髪の惣三郎』)で有名になった彼。実は島原通いが癖になり、遊ぶ金欲しさに辻斬り(※強盗殺人)を仕出かしたかどで歳三に粛清されたとか。美形だったのは本当らしく、京には彼の顔を一目見ようとする追っかけまでいたという話。心形刀流の達人という説あり。性格は一見すると物静かだが、思い込みが激しい…というのが個人的イメージ。
やまの やそはち
子母澤寛『新選組始末記』では、イケメンユニット・美男子五人衆の一人。(爆)誰からも好かれる人柄で生き延びたという逸話が個人的に興味深い。純朴で出世を望まない野心とは無縁の人というイメージがある。剣の腕に関しては皆が苦手だった平山五郎への側面からの打ち込みを難なくやってのけたとか、池田屋に出動記録がないから実は大した事がなかったとか諸説あるものの、最後まで新選組に在籍し続けながら生き残った一人であることに変わりはない。明治には下京区の菊浜小学校の小使いさんにしっかり就職し、晩年まで静かに暮らした。たくましい人である。
そうま かずえ
函館新選組最後の隊長…と言えば聞こえは良いが、歳三が戦死した為に隊の責任をとる役目を引き受けるはめになったように見えなくもない。しかし、「弁天台に相馬あり」と彼の指揮を称える逸話もあるという。弁天台場で降伏した後、榎本武揚らと共に東京送りになり、案の定島流しにされる。終身刑を免除され、新島で出会った女性と結婚してやっと東京に帰ってくるが、後に謎の割腹自殺を遂げてしまう。殺されたという説もあり、何だかアンラッキーな人である…。文学に明るく、新島では島民に読み書きを教え「先生」と呼ばれた学のある一面も。
のむら りざぶろう よしとき
つい「りざぶー」と呼んでしまう。(爆)勇が流山で投降した時に同行していたので捕らえられるが、のちに釈放。奥州を転戦して函館まで戦い抜いたが、宮古湾海戦で討死する。酒好きで無鉄砲でそうと決めたら一直線に突っ走る…つまりは熱血漢なイメージ。ここでは「勇猛で短気な野村、知的で寛大な相馬」というというコンビが出来上がりつつある。(笑)
いちむら てつのすけ
鉄っちゃんといえば、歳三の小姓として函館まで付いて行き、その遺品を実家まで届けたというエピソードで有名。ここでは、当時の価値観(江戸時代の武家の常識とか)を疑わない、純粋過ぎて危なっかしい少年というイメージがある。戊辰戦争後は歳三の姉の嫁ぎ先だった佐藤家に匿われたのち、一旦は大垣に帰郷。そして西南戦争に西郷軍として参加して戦死したともいう。だが、個人的には幸せな余生、もしくは納得した最後を迎えてくれている事を密かに願う。
まつだいら かたもり
会津藩主。京都守護職。
さがわ かんべえ
会津藩家老。
まつもと りょうじゅん
幕府御典医。西洋医学所頭取。蘭方医。勇と国事を論じてから親しくなり、屯所での生活や衛生環境を指導。その相手は、医者の息子だった山崎とも云われている。戊辰戦争では幕府軍の負傷兵治療に当たり、軍資金の一部までカンパし、労咳が悪化した総司を千駄ヶ谷の自宅に匿い療養させるなど新選組を支援した一人。
いちかわ うはちろう
松前藩士・市川家の次男。幕臣・芳賀家の養子になり芳賀宜道を名乗る。六尺(※約181m)の長身で柔術の達人。新八さんの百合元道場での門人仲間で、武者修行の旅も共にした。小説『幕末新撰組』では頼れる幼馴染みだったのが、大河では完全に立場逆転。ここでは、伝法で粋でいなせな江戸っ子タイプ。遊び人に見えて、根は頑固なイメージ。新選組を離隊した新八さんと左之助と共に靖共隊を結成して戊辰戦争を戦うが、米沢敗戦後は自暴自棄になり、酒に酔っての喧嘩の挙句に昔の部下に殺されてしまう。板橋の慰霊碑には隊士では無い彼の名前があえて刻まれており、左之助とはまた違った「親友」だったのではと思う。
しぶさわ えいいち
日本資本主義の父ともいえる起業家・実業家。深谷の豪農・渋沢家(※通称・中ん家)の長男。仕事にも女性関係にも精力的な人。(笑)ちゃっかりしていて要領が良い愛されキャラ。実は一橋家の家臣として、京都での捕物に新選組を警護役として同行させている。抵抗して斬りかかってくるかもしれない犯人に怯まず、役人として令状をきちんと出した上で捕縛。それを見届けた歳三に「若いのに知恵も勇気もある」と褒められた事が、晩年まで自慢だったそうな。(雨夜譚・談)ちなみに、栄一がパリ留学中に戊辰戦争を戦った従兄弟の渋沢喜作は、幕臣・天野八郎と共に頭取として彰義隊を結成(※分裂ののち飯能戦争で潰走)し、さらに箱館戦争では坂本竜馬暗殺犯をのちに自称する見廻組の今井信郎と共に陸軍奉行添役として歳三配下の部隊に所属していた。さらに、一橋時代に栄一がやらかした女性問題が原因で、怒った新選組隊士が栄一とルームシェアしていた長屋に押しかけて来た事も。(笑)…全くの余談ながら、一番贔屓の幕末人は渋沢栄一と中濱万次郎だったりする。革命家気取りの"壊し屋"が多い幕末において、"創造る"役目を担った栄一や、"繋ぐ"役目を担った万次郎のような人材こそが近代日本の真の立役者だと思う。
さかもと りょうま
土佐藩脱藩。下士。才谷屋という質屋の豪商が親類で、実家は身分は低いが裕福だった。千葉周作の道場・玄武館門下で北辰一刀流免許皆伝。最初は流行りの攘夷論者として土佐勤王党に加わったり、幕臣・勝海舟の許に押しかけて幕府海軍操練所に入り陸奥宗光と知り合ったり、アヘン戦争で暗躍したジャーディン・マセソン社(中国名:怡和洋行/マンダリンオリエンタルホテルの親会社)の長崎代理店であるグラバー商会のダミー会社・亀山社中を設立して幕府と対立する長州藩に武器を密輸したり、同郷の中岡慎太郎が画策する薩長同盟実現の為に共に会談の席を用意したりと、幕末の裏舞台のそこかしこに関わっている人物。どうも小説『竜馬がゆく』と同郷の香川敬三(※流山で勇の処刑を命じた人物)による“夢枕キャンペーン”などで色々と持ち上げられ過ぎな印象もあるが、趨勢によっては変節を厭わない柔軟さと八面六臂の行動力は常人離れしたものがある。柔軟過ぎて敵味方もコロコロ変える為、人同士が抱える遺恨に疎く、それが思わぬ禍根になりがち。ポジティブ思考で鋼メンタル。ひたすら前進して振り返らないイメージ。
かつら こごろう
長州・萩藩士。のちに木戸孝允と名を改める。池田屋事件や藩の内部粛清など数々の難をことごとく逃れており、「逃げの小五郎」と呼ばれるほど危機察知能力が高い。頼りない上司と暴走気味な後輩たちに挟まれながらも、腐らず目的を見失わない気の長い性格と云うイメージ。周囲と折衝しながら、「火吹き達磨(※大村益次郎)」や「周旋屋(※伊藤俊輔)」や「雷鳴伯(※井上聞多)」やら曲者揃いの人材たちを適材適所に就かせる名マネージャー。さぞかし胃が痛い立場だったと思われ、明治後に体を壊して早死にしてしまうのは無理もない。
たかすぎ しんさく
長州・萩藩士。上級武士の家に生まれながら、身分不問の奇兵隊を結成したり、下関戦争の敗戦処理で外国使節をハッタリで煙に巻いて賠償責任を幕府に転嫁したり、第二次長州征伐で西瓜売りに化けて小倉藩を奇襲したりと、とにかくやる事なす事が型破り。酔狂で派手な遊び人のようでいて根は熱血漢なイメージ。一度キレると誰にも止められないタイプ。彼が詠んだと云う「おもしろき こともなき世に おもしろく」の句を地で行く人。労咳で短い生涯を燃え尽きるように駆け抜けた。
かわじ よしとし
薩摩藩士。警視庁の初代大警視。警官になった藤田五郎(※斎藤一)の上司に当たる。
おおくぼ としみち
薩摩藩士。西郷とはご近所同士の幼馴染みで、「知恵の大久保・武の西郷」とも言える名コンビ。島津斉彬の薫陶を受け、のちに国父・久光を上手く操縦マネジメントしながら薩摩藩の数々の政治工作に関わる。上司の家老・小松帯刀が早死にしてしまった為、内務卿として新政府の組織作りに辣腕を振るった。外遊や出張(※主に久光の説得で鹿児島行き)の留守中に貨幣制度や新暦などが改正された事に立腹して大隈重信と対立したりと、何でも自分でやらないと気が済まない癖があるようだ。
さいごう たかもり
薩摩藩士。泰平の世にありながら薩摩独特の戦国マインドを体現したような人物。政争に敗れる度に二度も島流しに遭いながら尽く復権を果たしているあたり、その胆力が窺い知れる。戊辰戦争では、禁門の変で共に戦った会津藩(※新選組を御預)を徹底的に潰したかと思えば、薩摩藩邸焼き討ち(※薩摩に売られた喧嘩を買った件)を実行した庄内藩(※新徴組を御預)には寛大な戦後処理を施したりと、ただの軍人気質には収まらないかなりの策謀家。大久保とは幼馴染みで盟友だが、農本主義の西郷と資本主義の大久保とでは新政府に求める価値観が違い過ぎたのかのちに決裂。陸軍大将の地位を捨てて信望者と共に下野。西南戦争で死亡した後も「南洲翁」「大西郷」など数々の呼び名で人々から人気を博した。
まつい つね
勇の奥さん。御三卿・清水家家臣松井八十五郎の娘。某小説の田舎女房のイメージから一転、大河の可愛い常さんのイメージが刷り込まれてしまった。(笑)一説には、疱瘡(※天然痘)の後遺症で器量は決して良くなかったが「美女よりも醜女の方が真心を持って夫に仕える」からと勇は彼女を妻に迎える。…褒めてるのか貶してるのかわからない理屈である。(汗)結婚から三年ほどで勇は上洛し、戊辰戦争に敗れて処刑。勇の甥・勇五郎を一人娘の瓊の婿養子に迎えるが、瓊は跡取りを産んで間もなく病死。夫と娘に先立たれ、それでも再婚を断り続けたという健気な人である。
お うめ
芹沢の恋人。島原のお茶屋から四条堀川の糸問屋・菱屋太兵衛に身請けされた。「別嬪で、目元のいい口元のしまったキリリとした色の白い」(八木為三郎・談)人だったらしい。芹沢との組み合わせを考えると、やはり妖艶な感じが似合いそうである。一見すると蓮っ葉な悪女風(スマン…)だが、人の嫌な所ばかり見てきた故に捻くれてしまい、芹沢に似たもの同士のシンパシーを感じている…というイメージ。芹沢派が暗殺された時に道連れとなった。最後の最後まで彼の傍に居てあげたのだと思いたい。
あけ さと
山南さんの恋人。島原の天神。「美しいというより上品な女性」(八木為三郎・談)というのが何となく山南さんとお似合い。難しい仕事の話しもプライベートな悩み事も黙って聞いてくれるような人だったのではと想像している。島原の天神をしていたが身請けされ、山南さんが切腹した後の消息は不明。山南さんが葬られた壬生光縁寺にある「沖田家縁者」とだけ書かれている墓が彼女のものではないかという説もあるとか。
こ つね
新八さんの奥さん。島原『亀屋』の芸妓。『顛末記』に彼女の記述は少なく、初めはこれといったイメージがなかったが、なぜだか不器用で可愛いキャラが定着してしまった。(笑)自分に惚れこんだ新八さんを振り回してるつもりが、彼の素っ気ない言動に振り回されているという設定。(謎)娘の磯子を出産した後、鳥羽伏見の戦いの頃に病死。その後、関西で尾上小亀の芸名で役者になった磯子は、明治の京都で父親と二十年越しの再会を果たす。
たかぎ ときお
一さんの奥さん。本名は貞。会津藩士・高木小十郎の長女。会津藩主・松平容保の姉・照姫の祐筆(※秘書)を務めた才女。会津戦争では負傷兵の手当てをしたり討死にした藩士達を葬ったりしたというから、武家の娘らしい利発で芯の強そうな一面がうかがえる。鶴ヶ城籠城中に山本八重子(※のちの新島襄夫人)嬢に頼まれて彼女の髪を切った「ときをさん」と同一人物と思われる。小説『新選組副長助務・斎藤一』でも、随分と気が強い人だなぁという印象があったりする。明治後は女子高等師範学校の舎監を勤め、生徒たちを自宅に住まわせて面倒を見たりしていたらしい。
すがわら まさ
左之助の奥さん。仏光寺通の商家・菅原長兵衛の次女。お茶目で翔んだカップルというイメージがある。屯所が西本願寺に移転した頃に結婚。長男の茂をもうける。左之助とは鳥羽伏見の戦いで永別。後に再婚し、八十歳の長寿を全うした。茂は彼女の従兄弟の養子入り、のちに実業家になったとか。
八十八の恋人。ここでは内気でお淑やかな性格になっている。隊士たちの間でも評判の美女だったが、八十八と相愛になり一女をもうける。戊辰戦争後に八十八との再会は果たせないまま行方不明となるが、京都に残って祇園の芸妓になっていた実の娘が八十八を探し出したという。八十八は娘に引き取られ、同志の供養をしながら静かな晩年を過ごした。