『なぁ。今日も稽古に付き合ってくれねぇか』 『今からか?』 『おう』 『近頃、妙に張り切っているな』 『ここは、揃いも揃って剣豪ばかりだろ?そん中に居るからにゃ、剣術も磨いときてぇんだわ』 『そうか』 『ほい、竹刀。そんじゃ、一本頼むぜ』 『相わかった。始めようか』 覚えのない声。覚えのない会話。覚えようもないはずの遠い昔のような空気。
しかし、いつかどこかであった出来事なのだと感じる。ただ、そこに自分が居たのかはわからない。
これは夢かと思った瞬間、その情景は闇の奥深くに溶けた。
白い天井が眩しい。
栄治は重いまぶたをゆっくりと押し開けると、寝起きで焦点が定まらない目で周りを見回した。
自分が横たわっている場所がわかった途端、栄治は一気に目が覚めた。
(ちょっと待て!なんで病院に寝てるんだ!?) 布団をはねのけて勢いよく起き上がると、ここに至るまでの顛末を栄治は必死に思い出そうとした。
(えーと、たしか…学校帰りにボロいハチマキを拾って…そしたら忍者みたいなヤツが襲ってきて、 なんとなくハチマキをつけたら俺がサムライに変身して、刀でそいつをやっつけてて、それから…えーと、それから…) 「よ!大将。起きたかー?」 唐突に、威勢のいい声が耳に入った。
思考を外に向け、栄治は声の主を追う。
見ると、ベッド傍で一人の少年が白壁に寄りかかっていた。 くたくたになった派手なオレンジ色のブルゾンを肘までまくり上げ、どう見てもサイズが合っていないダボダボのカーゴパンツをはいている。 ピンと遊んだ癖毛の茶髪と日に焼けた肌が、いかにも健康優良児といった印象だ。背格好からして、自分より少し年上だろうと栄治は見立てた。
(誰…?) 明らかに初対面だ。
いぶかしむ栄治をよそに、少年は話し続ける。
「『過労からくる貧血』?らしいぜ。目ぇ覚めたら、帰っても大丈夫だってよ」 医者から説明されたらしい診断を伝えられ、また一つ頭の整理がついた。
あの黒衣を倒した後、急に体が重くなったのは極度の負担がかかったからだ。
そうだろうな、と栄治は納得した。あんな重い刀を片手に、あんな慣れない動きをして、疲れない方がおかしい。
「しっかし、ビビったぜ?あんなトコで中坊が行き倒れてんだからよ。 ほっとくわけにもいかねぇってんで、ここまで担いできたってわけよ」 親切を傘にきるでもなく、少年はあっさりと言った。
無遠慮でなれなれしいが、自分と他人の境界線を感じさせない親しみがわいた。
(この人が…わざわざ助けてくれたのか) 今時、見ず知らずの自分を気にかけてくれた事が心なしかうれしかった。
「どうも、ありがとう…ございました」 「んな改まんなよ!テレんじゃねーか!」 ぎこちない言葉を遮るように、少年が栄治の背中をバンバンと叩く。 その腕力に一瞬だけ目を白黒させたが、栄治の顔には素直な笑みが浮かんでいた。
「それに、助けたの俺だけじゃねーから」 「えっ?」 目の前の少年の他にも、栄治を助けてくれた誰かがいたらしい。
「道のまん中でぶっ倒れてるお前を見つけた時にゃ、もうその人がいてよ。俺が『救急車呼んだ方がいーんじゃね?』っつたら——」 『ただの貧血どす。緊急性はあらしまへん。せやかて、病院まで手ぇをお貸ししていただけます?』 「——って言うからよ。俺とその人で、病院(ここ)まで運んでやったっつーわけ」 「そのもう一人の人は?」 「ハタチくれーのすっげー美人!ジミめだけど、かしこい系清純派ってカンジの——」 そう説明しながら病室を見回すうちに、少年の話しが徐々に途切れていく。
「…って、ありゃ?さっきまでいたんだぜ?もう帰っちまったか?」 「はぁ…」 どうやら、もう一人の恩人は少年も知らぬ間に立ち去ってしまっていたようだ。
直接お礼を言えなかった事を栄治は少し残念に思った。
だが、少年の方はすぐに「ま、いっか」と、あっさり興味を栄治に移した。
「…っと。こーゆーのもなんかの縁だ。いちおー、自己紹介しとくぜ」 少年のゴツゴツした右手が、栄治に向かって差し出される。
「俺、雪原 忠一(ゆきはら ただかず)ってんだ。よろしくな!」 「松永栄治。よろしく」 栄治は忠一の手を力強く握り返した。
「もしもし。母さん?…今、検査終わって病院出るところ… え?『どうしたの』って…病院から連絡いってるんだろ?…なら、そういうことだよ。とりあえず今から帰る…うん…じゃあ。」 栄治は、入院病棟の一角に設けられた連絡スペースから携帯電話で親への連絡を済ませていた。
下の待合室まで降りて来ると、そこは午前の診療を待つ患者やその付き添いで混雑していた。
天井の角に置かれたテレビからは、最近頻発しているという郷土資料館や個人の古い蔵からの窃盗事件のニュースが流れている。
それらを横目に通り過ぎると、受付で諸々の手続きを済ませて栄治は病院を出た。
バッグのポケットには、あの鉢金が入っている。
貸病衣から制服に着替えていた最中、それに気付いた時は昨夜のことを
(夢じゃなかった…) と実感せざるをえなかった。
(でも、だからって…あんな、どう考えてもヘンテコ時代劇みたいな事、ありえるわけが…) 「おーい?なに、ボーッとしてんだよ?」 「…あ、あぁ。ちょっと考え事しててさ」 帰り道、栄治の隣には忠一がいた。 駅前まで同じ道順だと言うので、そこまで一緒に歩くことにしたのだ。
「考えごと?ははーん?学生らしく、進路とかー?」 からかうような口調で忠一は言った。
栄治は咄嗟に、忠一の当てずっぽうにこれ幸いと乗る事にした。
「あー…まぁ、そんなところ。ついこないだ高校入ったと思ったら、もう来年は受験だし。志望校とか就活とか、どうしようかなって…」 「え゛ぇっ!?」 「な、何だよ?」 「お前、中坊じゃなかったのかよ!?」 「誰が中学生だよ!?俺は、これでも十七だ!」 いつもの事だったが、栄治は大声で主張した。
童顔な上に背も平均より低いせいで、いつも年相応に見られない。その事に栄治は、ちょっとした劣等感を抱いていた。
「…っつーことは、俺より年上じゃん!」 忠一は、飛び上がる勢いで驚いていた。
「年上って…そう言う雪原は、いくつなんだよ?」 「…十六」 「ウソだろ…?俺、てっきりニ、三歳は上だと思ってたんだけど…」 しばらく微妙な空気が流れたが、二人はすぐに気を取り直した。
「…でも、ま。おたがい、いくつだろうと関係ねぇやな」 「そ、そうだな…」 「ところで、きのうのことだけどよ?お前、なんだってあんなトコでぶったおれてたんだ?」 「え…!?何で、って…」 栄治は答えに詰まった。
(まずい…。昨日のこと、そのまま話すわけにはいかないし…。だからって、ウソ言ったところですぐバレるかもだし…) 自分でも全く整理がつかない不可解な出来事だけに、栄治はどう説明したものかと大いに迷った。
言葉をにごす栄治に、返事を待ち兼ねた忠一がせかす。
「どーなんだよ?」 「あ、だから…それはだな…」 とうとう、言い逃れ出来なくなった栄治は腹を決めた。 ありのままを話した結果、変な奴だと思われたらそれはそれで仕方がないだろうと。
栄治は思い切って口を開いた。
「ワ・タ・セ…」 が、耳に入ったのは彼の声ではない。
機械のように無機質な、それでいて背筋が凍るような嫌悪感を煽る声だった。
二人が同時に振り向くと、そこには夕べ栄治が倒したはずの黒衣が立っていた。