此処まで来た〜土方歳三〜

蝦夷の冬は寒い。
そんな当たり前を改めて噛み締めた。
皮膚に突き刺さるような冷気が、息をも凍てつかせる勢いで吹きつけてくる。
眼の前には、雪に閉ざされた大地がどこまでも広がるばかりだ。
びゅうびゅうと風が哭き声を上げる中、俺は一人で五稜郭の一角に立っていた。
(いつの間にか、随分と遠くまで来たもんだな…) 江戸からここまでは、二百里以上も離れてるらしい。
船に揺られて来たせいで、距離の感覚はあまりない。
それでも、本州とはまるで違う荒々しい海原や広大な原野は、ここが北の果てである事を教えてくれた。
この雪が融ければ、遅い春がやって来る。
一瞬、満開の桜が視界一杯に広がったような気がした。
昔、多摩川の堤で見た景色だ。
俺が居て、勝っちゃんが居て、総司が居て、源さんが居た。
そして、あいつらも…
「土方さん」 突然かけられた声に、その景色はかき消された。
目線をやると、小姓の市村鉄之助が立っていた。
(白昼夢…?俺らしくもねぇ) 俺は振り切るように思考を切り替えた。
「市村か…」 「外に、何かあるんですか?」 「何かあるように見えるか?」 「え、えーと…ゆ、雪があります!」 「見ればわかる」 俺は、ぶっきらぼうに答えてみせた。
どこまで生真面目なんだ、お前は。
お前だけじゃない。
田村にも玉置にも、何度『帰れ』と言ったことか。
それを『覚悟は出来ています!』からと聞きやしない。
まだ十五歳前だぞ。
戦うにも、死ぬにも早すぎる。
「あの…」 俺の不機嫌を察したのか、市村は怖々と口を開いた。
「それで…何が見えるんですか?」 まだ聞くか。
本当に生真面目な奴だな。
俺は半ば観念して、教えてやった。
「見えるんじゃない。見ていたんだ」 「何を…?」 「箱館山だ」 市村は一歩前に乗り出し、遠くを見るように目を細めた。
「僕には…なんにも…」 「この吹雪だからな」 「土方さんには、見えるんですか?」 「まあな」 「す、すごいですね…!」 素直に驚く市村から、俺は再び箱館山の方角を見やった。
稜線は、この吹雪に遮られてぼんやりとしか捉えられない。
だが、俺が見ていたのは山そのものじゃない。
これから起こるだろう箱館攻防の要所としての山だ。
厳寒期の間に、出来るだけ地形や方向感覚をつかんでおく。
そうだ。
雪が融ければ、薩長軍がやって来る。
五稜郭は、堀の石垣も土塁も低くすぎる。
周囲に柵壁を作り、土嚢を積んで塁を補強しなければ。
それに、箱館山の要塞化を榎本さんに具申すべきだな。
あそこを敵に取られては、湾の艦隊を守る弁天台場が孤立する。
高台からの砲撃にさらされたら、いくらも持たないだろう。
この見知らぬ土地が、今の俺が守るべき場所だ。
(本当に、随分と遠くまで来たもんだな…) 多摩、江戸、京、大阪、甲府、宇都宮、会津、そして箱館。
ここに来るまでの月日は、ひどく長かったように感じる。
一介の百姓から武士になり、幕臣として召抱えられ、今では陸軍奉行並の地位にまで登り詰めた。
(ついに俺は、ここまで来た…ここまで来たぜ!) だが、共に武士になろうと誓い合った勝っちゃんは、もうここにはいない。
俺は一体、誰とこの悦びを分かち合えばいい?
『歳…』 吹き荒れる風の中に、懐かしい声を見つけた気がした。
『かつての俺がそうだったように…
お前もたくさんの仲間に支えられて、そこに立っているはずだ』
俺の問いに答える為に、来てくれたのか。
だが、もう返事は返ってこない。
(…あぁ、そうだ。そうだったな) 島田、尾関、相馬、野村、安富、中島をはじめとする新選組隊士たち。
榎本さん、大鳥さん、松平さん、星さん、人見さん、伊庭さんたち、蝦夷共和国の同志。
そして、玉置、田村、市村といった小姓たち。
全員の顔が、駆け抜けるように浮かんでは消えた。
そうだった。
俺は一人でここに立っているんじゃない。
ふと微かな笑みを浮かべると、俺は鈍色の空を挑むように見上げた。
(“一所懸命”の言葉どおり、俺は武士としてこの地を死守してみせる!
そして、皆の思いに応えるために必ず勝ってみせる!
薩長軍め、来るなら来いっ!)
そこまで思考を疾走させると、俺の焦点は過去から今に戻っていた。
そして、後ろでずっと寒さに耐えながら待っていた市村の事を思い出した。
眉毛やまつ毛に霜をつくり、頬が引きつるほど凍えさせてしまったらしい。
「戻るぞ」 市村は、俺の言葉に一瞬固まっていたが、すぐいつものように後を追って来た。
「はい!」 安堵したようにそう答えた市村を伴い、俺は箱館奉行所に向かって歩き始めた。