ある冬の日に

研師に預けていた刀を受け取った帰り道。気紛れに寄り道をしたのが運の尽きだった。
寒空に白い息を吐きながら、永倉は生まれ育った懐かしい浅草界隈を歩いていた。
「兄上!」 正月明けの雑踏の中で、不意に懐かしい声に呼び止められた。鈴のように凛とした少女の声だった。
「お前…、“まち”か…?」 そこには、しばらく見ないうちにすっかり娘らしくなった妹の“まち”がいた。
しかし、再会を喜ぶ雰囲気はない。どころか、まちは明かに気色(けしき)ばんでいた。
思わず後退りそうになった永倉だったが、まちは兄の袂をぎゅっと掴んで離さない。
「とうとう見つけました。三年間もどこへ行っていたのですか?
一体、今はどちらのご厄介になられているのです?
まさか、どこぞの如何わしい悪所ではないでしょうね?」
「さすがに、そんな所へ転がり込むほど落ちぶれちゃいない」 「ならば、道場ですね?
えぇ。飽きもせず剣術に(うつつ)を抜かす兄上の行き先など、道場くらいなものでしょう。
どちらの道場ですか?百合元道場ですか?それとも、坪内道場ですか?白状なさいませ!」
「どの道場でもない。残念だったな」 あながち嘘ではなかった。
今、世話になっているのは試衛館。まちが挙げたいずれの道場でもない。
「では、またあの浪人気取りの所ですね!父上様が言っていた、兄上に悪さばかり吹き込む『市川の不良息子』!」 そう名指しされた市川宇八郎は永倉と同じ松前藩士で、百合元道場で知り合い意気投合した仲だ。 市川も次男坊で、実家は彼の兄が継いでいたから、養子先が決まるまではと気ままにぶらぶらしていた。
六尺の長身に着流しが似合ういなせな男で、永倉は酒も女も遊びと云う遊びは市川に教わったようなものだった。
そんな彼がある時 「新さんよ。下野(しもつけ)辺りで武者修行をやらかそうぜ」 と言い出した。
家督を継ぐよりも剣術を続けたかった永倉は二つ返事で市川の案に乗り、そのまま家を飛び出して今日に至ると云う訳である。
「う、宇八郎さんは関係ねぇだろう…!」 「ほら、またその口調です!武家が町方の真似などして、恥ずかしくないのですか!?」 「お前こそ。武家に生まれたってだけで、町方を見下すのは恥ずかしくないのか?」 常に畏った振る舞いを求められる藩邸が堅苦しかった永倉にとって、市川の伝法な口調と振る舞いは不思議と解放感があった。
江戸の“いい男”とは、気っ風のいい火消しや職人のような町方の振る舞いが手本とされる。
何より、永倉自身は国許を知らない江戸生まれの江戸育ち。傾倒するのは無理もなかった。
「では、言い方を変えます。…似合いもしない人真似をして、恥ずかしくないのですか!?」 「真似しているわけじゃねぇ。性に合っているだけだ」 売り言葉に買い言葉を返してそっぽを向いた永倉だったが、急に静かになったまちを不審に思って目線を戻した。
すると、まちは目に涙を一杯に溜めて、こちらをじっと睨み付けていた。
「…兄上の剣術莫迦っ!甲斐性なしっ!」 「甲斐性は今、関係ないだろう!?それより、泣くな…!往来の真ん中で泣くな…!」 思わずまた言い返してしまったが、七つも年下の妹が涙を零す姿を見過ごせるほど永倉は人で無しではなかった。
「妹君を泣かせるとは、酷い兄上様で御座いますね。若旦那様」 まちの傍に控えていた奉公人の伊兵衛が、呆れ顔で言った。
「伊兵衛…。居るんなら止めてくれ」 「はて?何を、で御座いますか?若旦那様がこの場から逃げ出されるのを、で御座いましょうか?」 あからさまに素っとぼけた伊兵衛の態度に、永倉は観念するしかないと悟った。
「あー…わかった。話しなら聞く。ここからだと、浅草寺が近い。そこの水茶屋にでも入ろう。
…ほら、まち。もう泣くな。そこの団子、好物だったろう?」
しゃくり上げる妹を宥めにかかる永倉に、伊兵衛が容赦無く畳み掛ける。
「そう云ったお気遣いはお出来になるのに、何故跡取りらしいお気遣いはお出来にならないので御座いますか?」 以前はもっと腰が低かった伊兵衛だったが、永倉が家を飛びしてからこの調子である。跡取りの立場を放り出した自業自得とは云え、耳が痛くて仕方なかった。
しかし、このまま押し問答をしていても埒が明かない。
「…行くぞ。往来の邪魔になる」 永倉は反論を一旦飲み込むと、まちと伊兵衛を先導するようにその場から歩き出した。
「お?あれ、新八じゃん」 通りの向こうに見知った姿を見つけた原田が立ち止まる。連れ立っていた藤堂、沖田、土方もつられて立ち止まった。
両国で見世物見物をした帰りに、浅草辺りで一杯ひっかけようと云うところだった。
「本当だ。永倉さん、あんな所で何やってるんでしょうね?」 言ったのは藤堂だ。
彼らの視線の先で、永倉は十五、六歳頃の娘と何やら立ち話をしていた。
その様子を見ていた土方が 「…逢引だな」 と呟くと 「えぇっ!?」 と一斉に驚きの声が上がった。
土方は煙管を燻らせながら、件の二人の方向を顎でしゃくった。
「見ろよ。ありゃ、どっかの武家のお嬢様だ。奉公人まで連れてるぜ」 土方の言う通り、振袖を纏い、揚げ帽子を被った娘の装いは良家の子女のそれである。その後ろには、六尺半被に梵天帯を締めた中年の男が風呂敷包を持って控えている。
「それよかよ。何か言い合いになってねぇ?」 雑踏と距離で会話の内容はわからないが、永倉と娘が何やら押し問答になっているのは原田の言う通りのようだった。
やがて娘の方が 「——剣術莫迦っ!甲斐性なしっ!」 と大声をあげるのが聞こえた。
娘が堪えきれずに泣き出したらしいのも、それに永倉がうろたえているらしいのも、遠目にわかる。
「あっ!泣かせた」 「あーぁ。駄目ですねー」 聞こえはしないが、藤堂と沖田が冷やかす。
やがて、懐紙で涙を拭っていた娘がだんだんと落ち着きを取り戻してきた。それを見た永倉が通りを歩き出し、娘と奉公人もそれに従った。
「…あ。歩き出しましたよ。どこに行くんでしょう?」 「なぁなぁ!尾行(つけ)てみっか?」 野次馬根性のままに動き出そうとする藤堂と原田の首根っこを土方が引っ掴んだ。
「やめとけ。そりゃ野暮ってもんだ。逢引ぐらい放っといてやれ」 その役者ばりの顔立ちで数々の浮名を流してきた土方である。都々逸ではないが、『人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえ』が信条だった。
「ちぇー…」と愚痴りながら土方の後を付いて行く原田に、藤堂と沖田も渋々続いた。
「でも意外でしたねー。永倉さんに、あんな可愛らしいお相手(ひと)がいたなんてー」 くすりと笑いながら言った沖田に、土方が煙管を吹かしながら同意する。
「…だな。あいつ、商売女としか付き合わないんじゃなかったか?」 「えっ?そうなんですか?」 意外そうな反応を見せた藤堂に、原田がふと思い出したように言った。
「そういや前に『素人女は家が付いてくるから面倒臭い』とか何とか…」 その発言に、沖田はぴんと来るものがあった。
「あー。何かわかりますねー。土方さん見てると」 「何で、そこで俺が出て来んだよ!?」 土方の苛ついた態度にも構わず、沖田は得意げに続けた。
「だってこの間も、許嫁さんとその家の人から逃げ回ってたじゃないですかー。
近藤先生が収めてくれなかったら、どうするつもりだったんですー?」
土方は、お琴と云う戸塚村の三味線屋の娘と付き合っていた。土方にしてみれば、お琴とはあくまでも恋仲であって所帯を持つ気はさらさらなかった。
当然、納得出来ないお琴とその親は土方の許に押しかけて来た。そんな幼馴染みを見かねた近藤が両者の間に入り、ようやく事なきを得たのだった。
「うるせぇ。手前ぇも好いた女の一人や二人、口説いてから言いやがれ」 「あははっ!知りませんよー」 土方の悪態を沖田は軽やかに受け流す。いつもの二人のやりとりだった。
「あと、あれだわ。最近、馴染みだった芸者にふられたってんで痛飲に付き合ったんだけどよ。
俺が『いっそ、強引にものにしちまえよ』っつたら、『誰でも、惚れた相手と添い遂げる権利くらいある。その相手が俺じゃなかったんだから仕方ないだろう』だってよ。へたれてねぇ?」
原田は原田で、親友の私事を全く無自覚に暴露していた。本人の不在をいい事に、言いたい放題である。
「原田さん…。せめて、『お人好し』って言ってあげないと…くくくっ!」 原田の物言いに、藤堂は笑いを堪えながらもちゃっかり面白がっていた。
「ほらほら、二人ともー?またあんまりからかうと、稽古で滅多打ちにされちゃいますよー?」 沖田の一言で、原田と藤堂がさっと青ざめた。
「…前にも原田さん、壁まで吹っ飛ばされてましたよね」 「…そう言う平助も、でっけぇタン瘤こさえてたじゃん」 一見そうとは見えないが、永倉は神道無念流の免許皆伝。ついそれを忘れて悪ふざけが過ぎると、次の稽古で痛い目に遭わされるのは確実だった。
藤堂は正眼から打ち下ろした面を、木刀の表鎬(おもてしのぎ)にすり上げられて太刀筋を逸らされ、気付いた時には強烈な面を脳天に喰らっていた。
原田に至っては得意の木槍で挑んだにもかかわらず、足払いした柄を足で思い切り踏み付けられたと同時に胸突きを喰らい、そのまま稽古場の壁に派手にぶつかった。
道場主である近藤はと云えば、そんな永倉の荒れようを目の前にしなから 「今日は随分と元気がいいな!いや、結構結構!」 と能天気に笑っていた。
「まぁ、私は楽しみですけどねー。本気の永倉さんと打ち合うの、ぞくぞくするんですよー」 さも愉快そうに沖田は言ってのけた。
確かに、今の試衛館で沖田から三本勝負で一本でも取れるのは、永倉と斎藤くらいだった。
当の永倉も沖田と全力で試合うと色々と気が済むのか、勝とうが負けようがけろりと機嫌が良くなるのだ。
「さすが総司。余裕だわ…」 原田が感心する横で、ふと何かを思い出した藤堂が土方に駆け寄った。
「…あっ!そう云う時に限って、土方さん居ませんよね?ひょっとして、逃げてません?」 疑いの眼差しで口を尖らせる藤堂に、土方は「何の事だ?」と云う顔でしれっと答えた。
「多摩に薬売りに行ってたんだよ。たまたまな」 「『多摩』だけに…ってか?」 「あはは!原田さん、上手ーい!」 原田の駄洒落に沖田が腹を抱えて笑い、つられて藤堂も笑い出した。
それを尻目に、土方は晴れ渡った冬の空に煙管の煙をふうと吐いた。
(『家』が面倒臭ぇ…か。まぁ、わからなくもねぇな…) お琴との一悶着は元より——。実家であるはずの土方家より、姉“おのぶ”が嫁いだ佐藤家を居心地よく感じている土方は、どこか共感を覚えていた。
——翌日。
永倉が奉公人を連れた武家の娘に「剣術莫迦」「甲斐性なし」と言われて痴話喧嘩をしていたと試衛館で噂になり、それは七つ下の妹であると釈明するのに苦労したとかしなかったとか…。
彼らがその剣を(もっ)て、『新選組』の名を轟かせるのは今少し先の話になる。

【長倉まち】弘化三年生まれ。蠣崎家の親戚・直江熊吉に嫁ぎ直江マチ子と改める。大正五年没。家系図に載る実在の人物。
参考:『新選組をめぐる女性たち』結禧しはや、伊東成郎『明治史談速記会』阿部十郎証言