我が家の歴史

「母上…」 (つとむ)。どうしたのですか?」 割烹着姿で台所に立ちながらも、母は生活を感じさせない身綺麗さだった。それはやはり、母が武家の娘であるからなのか。勉にはそう思えた。
そんな誇り高い母に、こんな事を言っていいものだろうか。勉は今日まで迷い続けた。
しかし、彼が抱えた感情は、子供の胸にしまっておくには重過ぎるものだった。 「…父上は、“人斬り”だったのですか?」 母の表情がさっと曇るのがわかった。
父を(そし)られた自分がこれほど不安になったのだ。夫が謗られたと知った母が不安にならないはずがない。今更になって、勉は罪悪感に似た後悔に襲われた。
「…どこでそれを?」 当然のように、母に問われる。
「偶然、聞いてしまいました。父上の事を『人斬り風情が』と言う人を…」 どこの誰とは言えない。言ったところで、抗議する事も出来ない。
今は——明治の世は、即ち薩摩と長州の世も同然なのだ。彼らのような——“賊軍”の烙印を押された会津の者が、勝者に物申す権利すらないのが現実だった。
母は神妙な面持ちでしばし考えを巡らすと、静かにこう言った。
「…勉。夕餉が済んだら、(わたくし)の部屋へいらっしゃい。(つよし)も連れて…。良いですね?」 「はい」 勉が素直に答えると、母は何事もなかったかのように再びまな板に向かった。
やがて、帰宅した父を玄関で迎えた時も、家族揃って夕食を共にした時も、母は笑みをたたえた美しい顔を崩す事はなかった。
夕食後、勉は弟の強と連れ立って母の部屋を訪ねた。
「母上。勉です。強も一緒です」 勉が襖越しに声をかけると、中に居る母から返事が返ってきた。
「お入りなさい。…静かにね」 言われた通り、勉はそっと襖を開けて中に入った。弟の強がそれに続くと、襖を元の通りにそっと閉めた。
母はいつものように、華奢な背筋をピンと伸ばして正座していた。その腕の中では、今年生まれたばかりの末の弟の龍雄がすやすやと寝息を立てている。 「母上。父上は…?」 「いつもの通り、お部屋でお酒を召し上がっていらっしゃいます」 夕食後の父は、いつも決まって一人で晩酌をする。勉が知る限り、一日も欠かした事がない習慣だった。
「その間に、この母が少しお話ししましょう。貴方たちの父上の事を」 勉と強は、思わず身を乗り出した。もちろん、行儀良く正座はしたままで。
「はい。お話しを聞かせてください。母上」 「父上は滅多にお話ししてくれません。お願いします。母上」 二人は母——藤田時尾から初めて聞く父の話に、じっと耳を傾けた。
時尾は抱いていた龍雄を傍の(しとね)にそっと下ろすと、松葉小紋の着物の襟元を整えながら、ゆっくりと語り出した。
「貴方たちの父上…藤田五郎様は、知っての通り、警視庁の警部。この東京府下の治安を守る為に、日夜働いておられます。
先頃の西南の役でも、警視庁抜刀隊の二番小隊半隊長として御出征され、あの西郷軍から大砲を奪い取るお手柄をあげられました」
「はい!新聞に父上のお名前とお顔を見つけた時は、とても誇らしかったです!そうだな?強」 「はい!勉兄さん」 西南戦争が勃発したのは明治十年。新政府に不満を持つ士族たちが西郷隆盛を担ぎ上げて鹿児島で叛乱を起こし、八ヶ月に及ぶ激戦の末に鎮圧された。
勉は明治九年の生まれ、強は明治十二年の生まれだから、当然直接知る立場には無い。
二人は大切に保管してあった当時の新聞の切り抜きや、従軍した会津所縁の客人たちから父の武功を知り、それを誇らしく思っていた。
「その父上には、今とは別の名前がありました。
以前の名は…斎藤一。
先の会津藩主にして京都守護職であらせられた松平容保様御預の許、新選組の三番組長として京の治安を守る為に働いておられたそうです」
それを聞いた勉は、どこかほっとしていた。
「父上は、今は東京を守っているように、以前は京都を守っていたのですか?」 今も昔も父が同じ仕事をしているという話は、勉に安心感をもたらした。
一方の強は、疑問を口にした。
「皆は新選組を人斬りと言っていますが、違うのですか?」 “新選組”と云えば、“維新志士を阻む悪者”という役回りが専らだ。世間の語る虚像と母の語る実像とが、すぐには結び付かなかった。
子供たちの尤もな反応に、時尾は母として胸を張って答えた。
「そうですよ。その頃の京は、天誅などと云う賊徒による刃傷沙汰が絶えない、まさに魔の都でした。
父上は新選組でも一、二を争うと云われたその剣を以て、京に巣食う多くの賊徒に縄を掛けたとか。
その中には、父上の手で討ち取られた者も多くいた事でしょう。ですが、父上が刃を振るったのは、御法や規律に背いた者のみと聞いています。
その渦中で、父上は再び『山口二郎』と名を変えていますが、それも隊の規律に反した者を炙り出す故あっての事。
…母は、父上のご言い分を信じると決めています」
西南戦争とはまた違う父の武勇伝に、勉は子供らしく目を輝かせた。
「父上は、ずっと前からお強かったのですね!」 「…ですが、母上。そんなにお強い父上が、なぜ“負け”てしまったのですか?」 強の疑問に、時尾は思わず表情を硬くした。
会津藩士の娘である彼女にとって、それは自らの運命が暗転するきっかけともいえる理由だった。
「…討幕の密勅。薩摩と長州に共謀したお公家衆の画策で、全てが狂いました。
それまで都と御所をお守りしていたはずの我が会津藩が、朝敵と決め付けられてしまったのです。
公方様も(こうべ)を垂れられたと云うのに、彼らは戦を仕掛けて来ました。
それが戊辰の役。
…この母が篭城戦を経験した、日の本を二分する戦の始まりでした。
その戦で何があったのかは…ご親類ご縁者の皆様から、何度となく聞いていますね?」
そう語る時尾の声は、どこか震えていた。
会津藩主・松平容保の姉・照姫の祐筆まで務めた才ある母が、血と泥と硝煙にまみれた城内で働く事になろうとは思いもしなかっただろう。
勉と強は母の心に深く刻まれた傷痕を見るような思いで、ただ「はい…」と返す事しか出来なかった。
時尾は一度息を吐いて声の調子を整えると、再びゆっくりと語り出した。
「京都守護職を解かれ、御所から追われた松平容保様は、帝への恭順を訴えつつ自ら国許に蟄居。新選組は幕府軍の一員として、鳥羽伏見から東へ東へと敗走を重ねてゆきました。
そして、会津の戦況がいよいよ進退極まった時。新選組は新政府軍に抵抗を続ける幕府軍と共に、仙台そして箱館へと転戦していきました。
…ですが、父上はわずかな手勢と共に会津に残って戦われたのです」
「父上は、新選組を抜けてしまったのですか?」 「なぜ、父上はそこまでして会津に残ったのですか?」 「浪人に過ぎない自分らを拾ってお使いくだされた松平容保様の御恩に報いる為…と、母は聞いています」 あの律儀な父が働く先を変えるなど、余程の事のように勉には思えた。しかし、母はそれ以上の事は本当に知らないのだと察して、あえて聞かなかった。
“御恩に報いる”や“忠義”と云った“理由付け”が武家にとってこの上なく便利な代物であったと彼が知るのは、ずっと先の事になる。
「武運拙く戦に破れた我が会津藩は罪人とされ、藩ごと下北は斗南に配流となりました。…篭城戦も悲惨なものでしたが、斗南の暮らしはさらに悲惨なものでした。飢えと寒さ、我が藩へ向けられる世間の嘲笑、そして下賤な者共の甘言に晒される日々…。
この母の実家である高木家も、当主を亡くし、男子と云えば十六になったばかりの弟の盛之輔…貴方たちの叔父上だけ。満足な働き手もおらず、窮困していくばかりでした。
父上と出会ったのは、ちょうどその頃です。父上は『一戸伝八』と名乗っておられました」
「父上は、また違う名前になったのですか?」 「父上は、なぜそう何度も名前を変えるのですか?」 「…以前、酷く酔ってしまわれた時に一度だけ『“山口二郎”は会津で死んだ』と呟いていました。
あの地獄のような会津戦争を戦い抜いた父上なりに、思うところがあったのでしょう。
いずれにしても、父上が我が会津藩と命運を共にすると決められたのはその時だったのではと、この母は思っています」
そう言われれば…と勉は思い出した。
父は酒が入ると、戊辰の役の話で悲憤慷慨する事が度々あった。特に叔父の盛之輔や元・会津藩家老の山川大蔵と云った旧会津藩士の客人と飲み交わすときは、子供の立ち入りを拒むような気配を放っていた。
重苦しくなりかけた空気を紛らわせようと、勉は話しを先に進めるべく口を開いた。
「…で、では。斗南で母上は父上と出会い、結婚して東京に来られたのですね?」 「いいえ。そう容易く事が運んだ訳ではないのですよ。
父上が高木家に出入りされるようになったのも、御家老の佐川官兵衛様のお言い付けで、男手の足りない我が家の用心棒のようなお仕事をされる為でしたから。
その頃の父上は、斗南で出会われた“西條やそ”様なる最初の奥方と離縁されたばかりだったとか。
やそ様がどのようなお方だったのか…この母には“関係のない事”と父上は言うばかりで、何一つ教えてはくれませんでした。ただ、会津藩最後の若年寄をされた倉沢平治右衛門様の家に身を寄せられてそれきり…とだけ」
勉と強は、どきりとした。
二人は、母だけを見ている父と、父だけを見ている母しか知らない。だから、父が母以外の女性と過ごしていた事があったなど想像もつかなかった。
「そう…なのですか?」 「えぇ。倉沢様には我が高木家も大変お世話になりましたから、あまり詮索するのも失礼かと思い、それ以上は聞けませんでした」 勉は、急に母が哀れに思えてならなかった。夫婦の間の隠し事に納得するには、彼はまだ幼過ぎた。
「母上は、それでよかったのですか?…そう思わないか?強」 「勉兄さんの言う通りです。何もお話しして下さらない父上に、母上は怒らなかったのですか?」 自分たちが粗相をすれば「きちんと理由を話しなさい」と筋道を立てさせる母が、何故父にはそうしなかったのか。勉と強には理解出来なかった。
「…そうですね。“怒らなかった”と云えば嘘になりますね。
でも、父上はこの母に嘘をついた事がないのです。言えない事は沢山あったでしょう。
けれど、嘘だけは決してつかないお方でした。ですから、母は父上を信じる事に決めたのですよ」
時尾は少しだけ困ったような、それでいてはにかんだような笑みで、さらりと返した。
勉と強は、ますます煙に撒かれような気分になった。
「父上が嘘をつかない人だと、なぜ母上はわかったのですか?」 「強も気になります。どうしてですか?」 なおも食い下がる子供たちに、時尾は自身にとって“最も辛く、最も大切な出来事”の蓋を開ける事にした。
「それは、やはり斗南での事でした…。
この母の母上…貴方たちのお祖母様が、私に奉公の仕事を探してきてくれたのです。
さる豪商への住み込み働きで、支度金は前払い。
とても破格の条件で、これを逃してはならないと、私は仲介人が待つ宿へ出掛けて行きました。
…ところが、そのお話しは最初から嘘でした。奉公と云うのは建前で、その仲介人は女衒——人買いと通じていたのです。事を悟った私は、転がるように宿から逃げ出しました。
明らかなヤクザ者に執拗に追い掛けられ、もう懐剣で自害するしかない…と云う時でした。
あの人が…貴方たちの父上が現れたのは」
雪の中とは思えない俊敏さで、あの人は私と男共の間に割って入りました。そして刀を抜くまでも無く鞘のまま、屈強な男共をあっという間に打ち据えてしまわれました。
私があの人の剣技を目の当たりにしたのは、後にも先にもこれきりです。
私はそのままあの人が逗留されていた別の宿に身を寄せ、雪が止むのを待つ事にしました。
『あのような無茶をするな。一人で如何にも為らぬとなったら助けを呼べ』 私は先程の出来事から心乱れるばかりで、何も返す事が出来ませんでした。
あろう事か、赤貧に耐えかねた母がとうとう私を売ったのではないかとの考えまでよぎる有様でした。
『母御を…克子殿を恨んでやるな。きっと、口入れ屋の話しを真に受けてしまったのだ。
決して、其方を…大切な娘御を売ろうなどとするはずがない』
私の浅ましい考えを打ち消すように、あの人はそう言ってくれました。
『奉公の口も金もたち消えになったとは云え、其方が無事で何よりだ。
帰っても、誰も其方を責めはしない』
それでも、やっと家族を食べさせていける働き口が見つかったと云う希望を失った私の心は、動揺を抑え切れませんでした。
『…“無事で何より”ですか?私は長女として、母や妹や弟に暮らしの糧をもたらさねばなりませぬのに…。たとえ、この身をもってしても…』 『そのような事を言うものではない』 『では、どうしろと仰るのです!?
一戸様は“助けを呼べ”などと仰いましたけれど、助けを乞うたところで一体誰が聞いてくれると云うのですか!?私の…会津(私たち)の声など、誰も聞いてはくれなかったではありませんか!
誰も…!誰も…!!誰も…!!!』
この時の私は、完全に取り乱していました。
ただただ、悔しかったのです。我が身に降りかかるありとあらゆる不幸が、それを振り払えない我が身の無力さが、悔しくて悔しくて堪らなかった。それを目の前にいるあの人にぶつけていたのです。私の心は、既に限界でした。
それなのに、あの人は事もな気にこう言ったのです。
『俺が聞く』 最初は、あの人が何を言っているのか、すぐには腑に落ちませんでした。
『俺が、其方の助けを呼ぶ声を聞く。他の誰が耳を貸さずとも、俺だけはその声を聞く』 『…それはそれは、心強いお言葉ですこと。
でも、いずれご仕官先が見つかれば、我が家とのご縁もそれまででございましょう?
そうなれば、遠くにいる私の声などもう届きませぬ』
『必ず駆け付ける。今日のように』 『無理でございましょう。そのような…』 『無理ではない。俺は其方の傍にいるからだ』 やはり、あの人が何を言っているのか、すぐには腑に落ちませんでした。
『俺は生涯、其方の…時尾殿の傍にいる。
それならば、時尾殿はいつ如何なる時でも俺を呼ぶ事が出来よう』
嗚呼、これは夢なのだ…と思いました。私は疲れと寒さのあまり、幻を見ているのだと。
『…真で、ございますか?』 『真だ』 『…お約束していただけますか?』 『約束しよう』 そこまでお話ししたところで、私はようやく自覚したのです。
自分が、怒りに任せて泣き腫らしていた事を。そして今度は、安堵の涙が止まらない事を。
『嬉しい…。こんなにも嬉しいお話しなのに…不躾な事をお聞きして、お恥ずかしいのですけれど…
どうやって食べていかれるおつもりなのですか?』
『御家老の佐川様から、東京で邏卒にならないかとお誘いをいただいた。俺はこれを受けようと思う。
…其方の返事で決心が付いた』
『それは結構なご出仕先ですけれど…
新政府のお役所は薩摩や長州が仕切る、私たちにとっては伏魔殿のような(ところ)なのでは…?』
『其方と暮らす為ならば、その程度の事、いくらでも耐えてみせる。
…行こう。其方と高木家の皆とで、東京へ』
いつも寡黙なあの人が、自らの思いをあれほど沢山の言葉にしてくれたのです。
それだけで、私にはもう何も怖いものなど無くなりました。
故に、私の答えはただ一つでした。
『…はい!』 「…その言葉通り、父上はこうしてこの母と夫婦(めおと)になりました。
そして、今でも約束を守り続けてくれています」
勉と強は、これと云った言葉を発する事が出来ずにいた。
世の冷たさと両親の温かさとが綯い交ぜになった複雑な感情は、とても子供心には手に余るものだった。
それでも、父が母を守った事、母が父を信じた事は伝わってきた。
やがて、勉がおずおずと水を向けた。
「…あの、母上?」 「何です?勉」 「母上と結婚するまでの父上の事はわかりました。
…では、新選組に入る前の父上は何をしていたのですか?」
「強も知りたいです。母上」 二人の問いに促されて、父の人生が少し巻き戻る。
「父上からは、江戸で浪人をしていた…とだけ。
でも、きっと新選組幹部の方々と知り合われたのは、剣術修行もされていた江戸での事ではないかと思いますよ。今でもどなたかとは、便りを通じているのではないかしら…。
その頃の名は『山口一』と云ったそうです。この母が知る限り、これが父上の最初の名前ですね」
「では、父上の本当のお名前は『山口』なのですか?」 「えぇ。父上の父上様…勉と強のお祖父様は、幕臣の山口祐助様。
元々は明石藩の足軽の身分でしたが、御家人株を買われて江戸に出て来られたそうです。
奥方のます様との間には、父上の兄の廣明様と姉のひさ様のご兄姉がおられました。
廣明様は大蔵省に出仕。ひさ様は相馬敏明様に嫁がれています」
父にも実家があり家族がいたと云う当たり前の事実よりも、子供たちには信じられない事があった。
御一新以前の身分とは、生まれながらに与えられるもの。御家断絶やお取り潰しがない限り、決して覆らないもの。
学校でそう教わっていた勉と強は、驚きを隠せなかった。
「お祖父様は、お金で身分を買ったのですか?」 「そんな事ができるのですか?」 子供たちの予想通りの反応に、時尾は思わずクスリと笑いながら答えた。
「あの頃はよくあった事なのですよ。
『御家人株を買う』とは、しかるべき御家の養子になり、しかるべきお方から幕府への推薦がなければ成らない事でした。その中で、多少の金子(きんす)を包む事もありましょうが、それは身の上をお世話してくださった方々への謝礼なのです。決して、後ろ暗いものではありません。
お祖父様も、貧しい足軽の暮らしから抜けだそうと商家でご奉公に励み、その為の金子を懸命に貯めてこられたそうですよ」
「お世話になったお礼のお金なら仕方ないですね。そうだな?強」 「はい。お礼なら仕方ないです。勉兄さん」 子供たちの初々しい反応に、時尾はなおも笑みをこぼしながら続けた。
「それに、御家人株を売りに出す御家にも、様々な事情があったものです。
もちろん、暮らし向きの苦しさから、大店(おおだな)の親類を養子に迎えてその財力に頼らざるを得なかった御家もあった事でしょう。でも大抵は、何らかの巡り合わせで相応しい年齢のお子や丈夫なお子がおらず、跡取りを広く募った…とも云えるでしょう。
ただただ、家名を残す為に」
「家名を…」 「残す…」 勉と強は、順に小首を傾げた。
明治になっても、“当主”や“跡取り”などと云った言葉は、未だ当たり前に飛び交ってはいる。それでも、子供の立場ではやはり実感が湧かないのも無理からぬ事だった。
「御家を繋げる事は武家の務めであり、それまで御家を繋いできてくださったご先祖様への御恩返しでもあるのです。とても大切な御役目なのですよ」 武家の娘である時尾は、至極当たり前のように言った。
しかし、そこには不思議と頑迷さや押し付けがましさはなく、家を心から大切に思う気持ちが勉と強には感じられた。
——唐突に、床板がギシと軋む音がした。
足音を立てずに廊下を歩くのは、藤田家の嗜みであり躾だった。
「…あ、あれは父上では!?」 「母上…!」 急に現れた父の気配に、勉と強は思わずうろたえる。
そんな子供たちに、時尾は母としていつものように言いつけた。
「今宵はここまでにしておきましょう。二人とも、部屋へ戻ってお休みなさい」 「はい。母上。おやすみなさい」 「おやすみなさい。母上」 二人はいつものように三つ指ついてお辞儀をすると、揃ってそそくさと廊下へ出て行った。
それと入れ替わるように、時尾の夫——藤田五郎が黒い鱗小紋の着流姿で現れた。
筋張った長身はかなり威圧的で、ふさふさとした眉に炯々と光る鋭い目付きもどこか近寄り難さを感じさせる。
時尾はすっくと立ち上がると、夫のもとへしずしずと歩み寄った。
「あら。お酒はもうよろしいのですか?でしたら、すぐに片付けましょう。寝床の支度は少しお待ちくださいませ」 「今、俺の話をしていただろう?」 神通力でも使えるような鋭さだった。この洞察力。いつもの五郎である。
「はい。しておりました」 時尾は悪びれるでもなく、笑顔で返した。
能面を被ったような夫の仏頂面が、ぴくりと苛立ったように思えた。
「子供たちには、まだ早い」 「いいえ。一度、きちんと伝えておくべきですわ。貴方と私の事。そして、貴方ご自身の事も」 『知らぬが仏』と云うように知らずにいる事は幸いでもあるが、同時にいたずらな不安に襲われやすくもある。
勉は、知らない事の危うさを知った。知って、母に助けを求めてきた。
だから、時尾は母として子供たちの不安に正面から応えてみせた。
「まだ早い」 「あら。良いではありませんか。いずれは、お話しするお心算なのでしょう?でしたら、今からでも…」 「『いずれ』だ。まだ早い」 それでも、子供のうちから知らなくてもいい話しが、この夫婦の過去にはどうしても付き纏う。
だから、五郎は話さなかった。時尾とは逆の、五郎なりの子供たちへの配慮だった。
「善は急げと云うではありませんか。薩摩・長州が幅を利かせるご時世とは云え、私たちの家に何もやましい事などないのですから」 「時尾」 まるで怯まない妻を前に、五郎はごく小さくため息をついた。
「お前は、肝の据わった女だ」 「あら。何を仰います。篭城戦の砲撃、不発弾処理、よく見知ったお人のご遺体のお浄め…今更、怖いものなどそうそうありません」 極めて明るく、自分で自分の傷を乗り越えようとするかのように、時尾は微笑んで見せた。
そんな妻の気丈な姿は、いじらしくもあり、愛おしくもあった。
「とは云え…俺のような得体の知れぬ男と、よく一緒になろうと思ったな」 無口は生来の気質だった。その上、家族にすら明かせない事案に自分は関わり過ぎている。それだけに—— 「御家老の佐川様と山川様どころか、先の会津候・容保様までがお仲人になってくださったのですよ?これほどに名誉なお話、お断りする理由などありませんでしたわ」 「…それだけか?」 それだけに、妻が自分においてくれる全幅の信頼がありがたくもあり、どこか申し訳なくもあった。
「貴方の『得体が知れぬ』など、些細な事ですわ」 「ん…?」 妻がぽつりと呟いた一言が、すぐには腑に落ちなかった。
「貴方は、私をもらってくださいました。
斗南では、頼みの父を亡くした私たち高木家を守ってくださいました。
まだ若かった盛之輔の義兄(あに)になってくださいました。
会津では、容保様の御為に藩士の皆様と共に最後まで戦ってくださいました。
京でも、貴方はその剣を以て容保様に尽くされてきたのでしょう。
そして…今日までずっと、貴方は私と苦楽を共にしてくださいました」
そして、妻は事もな気にこう言った。
「今の貴方は、私たちの家族…。
今の貴方は、私の夫…藤田五郎様です。私には、それが全てですわ」
自分のつまらない後ろめたさを打ち消されたようで、五郎は照れ隠しに頭を掻きたいような気分になった。
「…お前には敵わんな」 「それに…私は、楽しみなのです」 妻が呟いた一言が、やはりすぐには腑に落ちなかった。
「いつか、あの子たちもしかるべき伴侶を見つけて、孫をもうける事でしょう。
その子はきっと、私たちの誰かの面影をたたえている事でしょう。
そうして、私たちがいない世になっても、家を繋いだ存在として私たちは息づく事が出来ましょう」
遠い日に思いを馳せるような眼で話していた時尾は、ふと傍に立つ五郎を見上げて微笑んだ。
「私は、私の中にある亡き父や貴方をあの子たちの中に残せたと…そう思っておりますのよ」 口数も喜怒哀楽も足りない自分に、こうして人間らしさを吹き込んでくれる存在。それが在る限り、この先もどれほど危険な任務であろうと必ず生きて帰って来よう。
五郎は気持ちを新たにした。そして、乏しい語彙の中から妻への感謝を紡ぎ出した。
「…本当に、お前には敵わんな」 その日。部屋の襖越しに覗き見た光景を、勉と強は忘れなかった。
あの眉一つ動かさない父が、母と共に微笑んでいるように見えた事を——。
東京府は本郷区真砂町の一角にある藤田家にて。
明治十九年頃のある夜の出来事——。
「…俺も老いたな。もう息が出来ん。声も出ん。
…勉には、藤田の家は『あまり表に出られぬ家』だと言っておいたが。思えば、俺も俺の父もそのまた父も延々とその“使命”を受け継いで来たのだろう。
だが、俺は父を…山口の血を恨んだ事は無い。
物心ついた時から、どこか空虚で為したい事もなかった俺に、この“使命”は生きる目的を与えてくれた。俺はそれに従って生きればよかった。そうして今、家族に囲まれた最期を迎える事が出来ている。悔いは無い。
…時尾。泣いているのか?俺はお前の笑い顔が見たい。
西南の役に出征する日もそうだった。俺はお前の笑った顔に見送られたい。
だから、今一度見せてくれ。
いつものように、何があろうと動じない、お前の…
不調法な俺の分も笑うと言ったお前の…笑った…顔を…」
大正四年九月二十八日 斎藤一こと藤田五郎 没 享年七十二歳
名を変え、立場を変えて戦い続けた男は、自らの言葉で多くを語らぬままその生涯を閉じた。
その為人(ひととなり)は、長男の勉が晩年に妻に聞き書きをさせた『藤田家の歴史』からわずかに窺い知る事が出来る。

参考:『新選組斎藤一の謎』赤間倭子『藤田五郎の謎』伊東成郎『新選組をめぐる女性たち』菊池明