訣別、前兆

『裏方が戦働きに劣っている事などない。
互いが力を合わせて、御主君をお支えする事こそが家臣の務めである』
常々そう語る父を、妹は心から尊敬していたようだ。
自分は…どうだっただろうか?
元治元年八月 京——。
「裏方が戦働きに劣っている事などない。互いが力を合わせて、局長を支える事は隊士全員の務めだ」 口をついて出た言葉が、背を向けた筈の父のものであったと気付いたのは、しばらく経ってからの事だった。
この年の六月五日。
祇園祭の夜に、三条大橋近くの宿『池田屋』で肥後の宮部鼎蔵や長州の吉田稔麿を始めとする倒幕派の浪士たちが秘密裏に会合を開いていた。
『京の町に火をかけ、その混乱に乗じて京都守護職・松平容保を暗殺。御所から帝を長州の手中に納める』——
そんな危険な計画を練る浪士と、加賀藩や鳥取藩の援軍を頼むべきと主張する宮部らが議論紛糾する所へ、かねてより探索を進めていた新選組が強行突入。二時間に及ぶ激闘の末にこれを鎮圧・捕縛した。
これは新選組始まって以来の大捕物となり、雇われ浪人の集団に過ぎなかった彼らの名声を一気に高めた。
しかし、命懸けで未然に防いだ筈の長州による大火は、翌七月の禁門の変という形で結局は京の町を灰燼に帰してしまった。
そんな苦い思いを誰もが抱える中。池田屋事件の働きに対して、彼らを預かる会津藩から褒美の金銭が与えられる事になった。
「会津藩からの報償金だがな。池田屋の働きに応じて、出動した者全員に配る事にする」 そう言い出したのは土方だった。
「私は構わんが…山南さんはどう思う?」 近藤は向いに座る山南の意見を仰いだ。
読書を嗜み、一世を風靡した水戸学にも造詣が深い山南は、土方に並ぶ新選組の頭脳だった。
「隊を大きくするつもりなら、これから益々物入りとなるでしょう。
かつて芹沢さんが働いた狼藉の中には、資金不足に苦しむ隊の金策の為のものもあった…。
今後の為に蓄えておくべきではないだろうか?」
そこへ土方が横から口を挟んだ。
「いいや。逆だ。
新選組がやっと目立った手柄を上げられたんだ。ここでわかりやすい報酬を与えてやれば、隊士の士気がより高まるし、次もより一層励むってもんだ。
…だから、屯所に残った者は外させてもらう。文句ないよな?山南さん」
土方にそう言われて、山南は半ば気圧されるように目を伏せた。
「…出動しなかった私からは、これ以上何も言えません」 近頃、何かにつけて土方と山南の意見は真っ向から対立する。
別に喧嘩を売っているつもりはないのだが、良かれと思って出した案が尽くぶつかってしまうのだ。
不穏な流れを断ち切るように、近藤がその場を収めにかかる。
「ま、まぁ、山南さんなら今後いくらでも手柄を上げる機会はあるだろう。
今回は、歳の案に乗ろう」
「そうこなくちゃな」 土方は我が意を得たりといったふうに、にやりと笑った。
しかし、これが一波乱を呼んだ。
「これで、“全員”…?」 主だった幹部が集められ、報償金の分配表が公開されると、その場が一時騒然となった。
藤堂だけが江戸に出かけていて不在だった。
分配の内容を見て、ある事に気付いた井上がぽろりとこぼした。
「歳さん。山南さんや屯所に控えていた者の名が無いようですが…?」 「これは出動して戦った者への報償金なんだ。何もしてない裏方は除外した。当たり前だろ?」 土方の言い分に井上は 「成程…」 と半ば納得した様子だったが、入れ替わりに異を唱えたのが永倉だった。
「裏方が戦働きに劣っている事などない。互いが力を合わせて、局長を支える事は隊士全員の務めだ」 さも面白くなさそうに土方が反論する。
戦場(いくさば)に出なかった奴が、命を張った奴と同じ額を受け取れる訳ねぇだろうが」 「山南さんは、長州の手の者が古高を奪い返しに来る事態に備えて屯所に残った。
本陣を守る後詰も、立派な役割ではないですか」
突入組として近藤に次ぐ獅子奮迅の働きをし、それを評価された筈の永倉がそう言い出した事に誰もが意表を突かれた。
「そりゃ、お前さんの屁理屈だ。そういうのを悪平等って云うんだよ」 「では一歩譲って、働きや危険に応じて差を付けるのは結構としよう。しかし、これはどう説明される?
土方さんの分が、共に増援に駆けつけた斎藤や原田それに源さんより六両も多い。
さらに近藤さん一人が、共に突入した総司や平助より二十両も多い。
これは明らかに役職で付けられた差と見えるが、これ如何に?」
そう言いながら分配表を突き出す永倉の左手には、池田屋で負った手傷の痕が未だはっきりと残っている。親指を切断される寸前の深傷だった。
土方は鼻白んだ。
「自分で言ってんじゃねぇか。俺が副長で、近藤さんが局長だからだよ」 「“局長だから”何をしたと?」 「だから!“局長”である事自体が、他の隊士連中とは違うって言ってんだよ!」 「歳!少し落ち着け」 思わず声を荒げた土方を、近藤が慌てて宥めた。
「永倉君。君の言い分もよくわかる。しかし、これは新選組を大きくしていく為に必要な事なんだ。
どうか、ここは呑み込んでくれんか?」
極めて穏便な調子で、近藤は理解を求めた。
その様子に、近藤らも決して思い付きで言い出した訳ではないと察した永倉は 「近藤さんがそう言われるなら…」 と、一度は折れるそぶりを見せた。
しかし、 「はん…!そんなんだから、芹沢を始末する面子から外されんだよ…!」 事態を悪化させる予感しかしない土方の失言を、さらに慌てた近藤と呆れた沖田が嗜めにかかる。
「歳っ!よさないか!」 「土方さーん?それはちょっと言い過ぎ——」 「…左様か」 永倉の冷たい口調に、その場がひやりと凍りついた。
怒り心頭に発した時の彼が、ひどく他人行儀な口調になる事は誰もが知っていた。
「然程に重大な事案を私抜きで為されたとは、大いに結構。祝着至極。
…然らば、もうここに私の力は必要ない。これにて御免」
一気に言い尽くすと、永倉は席を蹴った。
「おい!待て!勝手に隊を抜けられると思ってんのか?」 「それがどうした」 怒声を上げる土方を一瞥もせず、ぴしゃりと襖を閉めて永倉は出て行った。
「…あーぁ。ありゃ、完っ全に御冠だわ。ああなると頑固だぜ?新八は」 原田が茶化しながらも、こうなっては手が付けられない状況を言い当ててみせる。
「おい!総司!お前、今すぐあの分からず屋を止めてこい!」 土方は隣に座る沖田をせっついた。
新選組きっての使い手である永倉が本気で腹を立てたとなれば、力尽くで抑えられるのは沖田くらいのものだった。
「えー?今のは土方さんが悪いと思うけどなー」 「何だと…!?」 沖田は、土方の言付けをどこ吹く風といったふうに聞き流した。彼が無条件で従うのは、師匠である近藤のみだった。
「そうそう。何、うっかりバラしちゃってんだよ。
あれであんたの言う事あっさり聞くようならよ。俺ぁ、むしろ新八のお(つむ)がでんぐり返ってねーか心配したとこだわ」
原田が沖田に同意する。
芹沢派暗殺は、彼ら近藤派が共有する秘匿事項だった。
隊を掌握する為の最大の障害を排除すると同時に、共に手を汚して罪を共有する事で互いの結束を固める意図もあった。
しかし、近藤と土方はそこに藤堂と永倉は加えなかった。
藤堂は最年少である点を気遣われ、永倉は芹沢と同門である点と正直過ぎるきらいがある点を避けられた。
残る斎藤は暗殺で直接は手を下さなかったものの、二人の見張り役と不測の事態に備える伏兵として事を知る立場にあった。
「原田、手前ぇ…!」 土方は裏切られたような気分で原田を睨み付けたが、肝心の原田は近藤の方を見て言った。
「近藤さんよ。悪ぃけど、今回ばかりは俺も承服出来ねーぜ。
“局長”だから他の連中と違うってんならよ。副長様の言いなりになってねーで、自分の耳で俺らの言い分を聞いてみせてくれよ。そんじゃあな」
そう言い捨てると、原田も部屋を出て行った。
原田からすれば、今回の土方の迂闊さはこれまでの黙秘を無にする行為に他ならなかった。
永倉は他人を詮索しない気質だが、事の真相に薄々は勘付いていた。
芹沢派の専横は目に余るものだったし、近藤らが下した苦渋の決断であるなら…と、何も言わずに受け入れようと努めていた。
だから永倉と親しい原田でさえ、自分からこの件を話す事は避けていた。
こうなる事は目に見えていたからである。
「…様子を見て来ます」 「あぁ。頼む。斎藤」 土方に気を利かせた斎藤が、二人を追って廊下に出た。
部屋に残された五人が気まずさから一言も発せない中。ずっと冷や汗をかきながら成り行きを見守っていた井上が、おずおずと沈黙を破った。
「も、申し訳ない…!私が、余計な事を言ったから…!」 「源さんは悪くない。説得出来なかった私が至らなかったんだ」 「そうですよー。折角、近藤先生が丸く収めてくれそうだったのに。一言多いんですよー。土方さんは」 「俺の所為かよ!?」 井上、近藤、沖田そして土方が、勝手知ったる仲同士でやいやいと騒ぐのを横目に…。
山南は心此処にあらずといった眼差しで、じっと沈黙を守り続けていた。
「おーい。俺も付き合うぜー」 「左之助…」 不貞腐れて廊下を進んでいた永倉に、原田が追いついて来た。
「それよりよ。どーすんの?このまま江戸に帰っちゃう?」 原田の言う通り、いっそそうしてしまおうかとも考えた。また浪人に戻り、剣を活かせる別の道を探しなおそうかと。
しかし、試衛館からの仲間とここまでやってきた隊に思い入れもあった。芹沢の事にしてもそうだ。隊規に違反したからには、筆頭局長と云えど容赦はしない。その見せしめに死を以って贖わせるとしても、武士の作法に則った切腹以外のどんな形があったと云うのか。そんな永倉から見れば、近藤と土方は山南や自分たちの意志を顧みずに事を急ぎ過ぎていた。
「…直訴する」 「…するって、一体誰によ?
局長の近藤さんに言っても聞いてくれねぇんじゃ、これ以上どーしようもねぇじゃんよ?」
局長をも超える権限——一つだけ、心当たりがあった。
「我らを預かる京都守護職…会津候・松平容保様にだ」 いつも豪胆な原田が、この時ばかりは驚きを隠さなかった。
あくまでも員数外の雇われ集団に過ぎない彼ら新選組と、幕藩体制下の正式な地方政府である会津藩との立場の差は大変な隔たりがあった。自身も松前藩士だった永倉は、それを充分理解している。
それでも、必要と定めたら正面から切り込む所は、彼の剣法そのものだった。
「うおっ!出たよ、“ガム新”。こうなった時のお前さんは、本当向こう見ずだよなぁ」 「“ガム新”って言うな」 むっとする永倉の苦情を聞き流しながら、原田は不敵に目を輝かせた。
「お殿様に直訴とか、こりゃあ命懸けだわなー。面白そうじゃねーの。
…で?こっから、どうすんのよ?」
「まず、島田に声をかける。
監察方のあいつなら、今の隊の在り方に不満を持っている者に心当たりがある筈だ」
島田魁は永倉と江戸の坪内道場で意気投合し、その縁で新選組に入隊した隊士である。
力士のような巨漢で怪力を誇るが人当たりは良く、気が利く男で、隊の内外で情報収集と諜報活動に当たる監察方に就いていた。
「ま、俺ら二人だけで言っても説得力ねぇもんな。もうちょい頭数は必要だわな」 「俺も付き合います」 唐突に降って湧いた声に、二人は振り返った。
「斎藤…」 「え?何よ?一も?」 意外そうに反応した原田に、こくりと頷いて斎藤は言った。
「今回の土方さんのやり方は目に余る」 斎藤は、口調も態度も抑揚が無い一本調子が常だった。
それが今は殊更、下手な芝居の科白のように聞こえる。
だとしても、原田の言う通り頭数は多いに越した事はない。
斎藤が何を考えているのかは、この際問題ではないと永倉は判断した。
「…そうか。助かる」 結局、この件は思わぬ形で解決を見た。
永倉ら六人は局長を糾弾する建白書を会津藩に叩きつけたものの、機転を効かせた公用方の広沢安任が黒谷本陣で当事者同士を直接引き合わせたのだ。
現れた近藤は、六人を前に深々と詫びた。
新選組は皆で作った隊であるのに、何の相談もせずに新たな方針を決めた事。良かれと思って決めたそれらを納得してもらえるだけの徳が自分になかった事を。
近藤の真摯な謝罪を受け入れた永倉は、隊に波風を立てた責任を感じて自らへの謹慎処分を受け入れた。
土方は最後まで六人全員の厳罰を主張したが、和解を仲裁してくれた会津藩の顔を潰す事は許さないと云う近藤の強い主張の前には、引き下がらざるを得なかった。
永倉の言い分は、正論ではあるが稚拙でもある。
組織とは、ある目的を達する為にあらゆる力を集約させねばならない。それこそが存在意義である。
道場で剣の腕を磨き合う事が目的だった試衛館と、会津藩の武力として京の治安を維持する事が目的の新選組では、既に何もかもが違っていた。
組織の長を務めると云うことは、日々の決断や失態の贖罪など重責を背負うと云う事。重責を背負うと云う事は、それ相応の褒賞を以って報いられる資格があると云う事。
決断する者とそれに従う者。
命を落とす危険を孕む最前線と、それを支える比較的安全な後方。
役割の重さは対等でも、背負う責任と孕む危険は同等ではない。そこに“差”が付けられるのだ。
また、めいめいが勝手に行動しては、組織の力を効率良く発揮する事が出来ない。
だからこそ、上意下達の強い指揮命令系統を作る必要がある。
何より、昨今の幕府の権威失墜は、かつての老中・阿部正弘が異国の脅威を前に広く知恵を集めようと、良かれと思って下意上達を許してしまった為でもある。
上が権限を持ち、下はそれに従うと云う秩序は、それほどまでに大事なのものなのだ。
しかし、土方は土方で見落としていた。
こうした組織の論理を理解出来ているのなら、彼らはそもそもここには来なかったと云う事を。
組織の論理が理解できていたのなら、彼らはそもそも脱藩などしなかったし、町人や農民から武士になろうなどとはしなかったと云う事を。
無頼の荒くれ者を統率された集団としてまとめるのに、法度による厳罰を以って臨むのは確かに有効ではある。
ただし、それは勝ち戦の間だけである。
一旦負け戦となれば、厳しい掟に縛られてまで傾いた屋台骨を支えようとする者などまずいない。
それが寄せ集めの烏合の衆なら、呆気なく瓦解する末路は明白であった。
その一方で、志を同じくして集ったと自負する者からすれば、自らの意志を軽んじられ蔑まれたと受け取りかねない。
外圧に対抗すべく政治改革が進む昨今、穏健派が推す『公武合体』即ち『佐幕』に対して、過激派が推す『倒幕』が台頭しだしたのも、幕府に頭を押さえつけられ続けてきた諸藩の憤懣やる方無さが噴出した故とも云える。
そんな諸藩の鬱積した不満が、二百六十年以上続いてきた幕府を揺るがす危険な情勢に日ノ本は陥りつつあった。
土方は新選組の地位を強固なものにしようと前のめりに急ぐあまり、躓いた時の為に別の道を作る事を忘れていた。あるいは、別の道など必要ないと切り捨てたのか…。
いずれにしろ、武家の序列に加わろうと心血を注ぐ近藤や土方と、その武家の序列から飛び出して来た山南そして永倉や原田とは、最初から理解し得ない溝が横たわる間柄だった。
それが決定的な亀裂となって露呈するのは、まだ少し先の話になる。
「よっ!」 屯所の一角にある部屋を原田が訪ねていた。
「何だ。左之助か」 その部屋に一人居た永倉が顔を向けた。
外出や外部との交流を一時的に禁止された彼は、自室で書類仕事を押し付けられていた。
「『何だ』は、ねーだろ?
一人だけ謹慎で、退屈してんじゃねーかと思って来てやったってのによ」
「退屈は退屈だが仕方ない。事を言い出した俺が責めを負うのは当然だからな。
…よく考えれば、山南さん本人が堪えたのに俺が先走ったのは良くなかったし、俺の働きを認めてくれていた土方さんにも随分と失礼な口をきいた。その事は反省している」
穏やかにそうは言いつつも、永倉に直訴を後悔する気持ちはなかった。
あの場で意見を胸に納めたとして、いずれまた同じ事が起きるであろう事は目に見えていたからだ。
それでも、事を急ぎ過ぎたのは自分もまた同じだったかもしれないと、彼なりに反省もしていた。
「…にしても、思い切った事やったよなぁ。お前さんもよ」 からからと笑う原田に、永倉はやれやれといった笑みを浮かべた。
「そう言うお前も、よく俺に付いて来たな。下手をすれば、こちらが切腹していたんだぞ?」 「だからだよ。それだけお前さんが本気だったからよ。
土方さんのやり口が気に喰わねーのは、お前さんだけじゃなかったってこった。
それを止めねー近藤さんにも、一度ガツンと言ってやりたかったのよ。俺は」
「島田や尾関や葛山…それに斎藤にも付き合わせたからな。これで少しは何かが変わるといいが…」 結局、我が身の危険を冒してまで隊の在り方の是非を問おうなどと云う命知らずはいないに等しかった。
話を持ちかけた島田だけは真剣に耳を傾けてくれたが、ほとんどの隊士が日和見を決め込んでいる事も、彼ははっきりと教えてくれた。
仕方のない事とはいえ、永倉も原田も内心失望した。
しくじりをして罰を受けぬよう必死に身を屈める隊士たちの姿は、かつて嫌って飛び出して来た藩の侍奉公を思い出させる物憂さだった。
「でも、お殿様の大岡裁きで一件落着!ってな。
さすがは会津侯。俺らみてーなのをお預かりしてくれたお方だけあるよなぁ」
「あぁ。広沢様とそれをご裁可下された松平様には、感謝してもしきれんな」 容保は、生来病弱ではあったが勤勉実直で肝が座っており、家臣や領民を気に掛ける心を持っていると評判の人物だった。
また、新選組とのやり取りを取り持つ公用方の広沢の機転にも、今回の件のみならず何かと救われてきた一面がある。
どの藩の味方に付けば有利かなどと云う以前に、尊敬に値する上役に恵まれた事は間違いなく幸運だと彼らは感じていた。
「…あ!そういや、近藤さんがお前さんの事呼んでたぜ」 肝心な要件を最後に思い出すあたり、やはりいつもの原田である。
「それを先に言え」 「近藤さん。永倉です」 「おぉ、永倉君。入ってくれ。話があるんだ」 障子を開けると近藤が待っていた。
「御免」 手招きされるままに、永倉は部屋に入った。
「それで、話と云うのは?」 「うん。実は今度、江戸に行く事になった」 「江戸に?」 「江戸で新たな隊士を募集する。言ったろう?新選組をこれからもっと大きくすると。
記録係に尾形君と武田君、そして君にも同行を頼みたい」
「私が…ですか?」 「君は、松前家家臣だったろう。
公方様の再びの上洛を促す為に、老中の松前伊豆守様にお目通りを願いたいのだ。
所縁のある君から公用方に願い出てくれた方が、お聞き入れ下され易いかと…そう思ってな」
永倉が松前藩士であった事は先に述べた。
その藩主・松前伊豆守崇広は、この年の七月に幕府老中格兼陸海軍奉行に抜擢されていた。
永倉は松前藩公用方である遠藤又左衛門の存在に思い至り、近藤の申し出を快諾した。
「そう云う事なら、お役に立てるかと」 「そうか!来てくれるか!よかった、よかった」 近藤は上機嫌で笑った。
この人好きのする豪快な笑顔で、彼は多くの人を惹きつけ、いつも周囲を明るく照らしてきた。
知らず知らずのうちに、永倉はささくれていた心がふと和むのを感じた。
「『裏方が戦働きに劣っている事などない』…か」 つい先日に永倉が発した言葉を近藤がなぞった。
「いやぁ、あの一言は胸に突き刺さったよ。皆が皆、新選組の為に力を合わせる。
そこには刀を持つ者も、筆や算盤を持つ者も、浪人も、町人も、百姓も無い。
私が目指して来たのは、そんな身分や血筋に縛られない、己の才覚で昇っていける場所だ。
…だからこそ、歳の言う事にも一理あると私は思うのだ。どうか、わかってやってくれ」
『己の才覚で昇っていける場所』——それが近藤と、彼の許に集った者たちが夢見た理想だった。
近藤と土方は豊かな豪農とは云え百姓の出であるし、井上は八王子千人同心の三男坊。沖田も白河藩士の子ではあったが家督は姉・みつの婿・林太郎が継いでいた。
藤堂は伊勢津藩主・藤堂和泉守高猷のご落胤を自称するが、正式な藩士でない以上は仕官も叶わず、やはり武士になる道を探していた。
対して、山南は仙台藩、原田は伊予松山藩、そして永倉は松前藩をそれぞれ脱藩していた。
生まれた家に代々課された御役目を継ぐ事は、自らの生き方を諦める事と同義語だったからである。
だからこそ、近藤の理想に彼らは共に共鳴していた。
中でも熱心だったのが、近藤と幼馴染みの土方であった。
土方は、その理想を決して忘れた訳ではない。近藤は永倉にそれを言い含めておきたかった。
「…承知」 納得した様子の永倉に、近藤は胸を撫で下ろした。
「それにしても、驚いたよ。あの総司と肩を並べる腕前で、池田屋でもあれだけの働きをした君から、あんな言葉が出てくるとはなぁ」 「…実は、あれは父の言葉なのです」 永倉は正直に明かした。
「ほう?お父上の?」 「父は、役方でした。御重役のように政務に関わるでもなし。かと云って、番方のように剣を執るでもなし。その跡を継ぐと云うのが何とも想像出来ず、今に至る訳ですが…
謹慎中に色々と思い出していました。
記憶にある父は、課された御役目にどこまでも忠実で…。父にとって、そう在る事こそが主君を支える道であり、侍の道であると…そう信じていたのやもしれぬと…」
永倉は、己の剣一つでどこまで往けるか試したかった。家督を継げば、それは叶わなかった。だから、剣よりも筆を執る生き方を課される身分から抜け出す道を選んだ。
しかし、今になって違うものが見えるようになった気がしていた。
代々課された御役目を受け入れ、黙々とそれを果たし続けていた父の背中が、急に大きなもののように思えてきた。
「そうか…。うん。そうか」 感じ入ったように頷く近藤に、永倉ははっとして話を打ち切った。
「申し訳ない。私事をつらつらと…」 「いやいや。立派なお父上ではないか。
『主君を支える道』が『侍の道』か…。うん。まさに武士の忠義そのものだ」
「はぁ…」 その“道”を放り出してきた身の上にわずかな後ろめたさを感じながらも、近藤の感慨に水を差す真似は控えた。
「おぉ、そうだ!江戸に行ったら折角だ。君はお父上にお会いになってくるといい」 「いや、しかし…」 「何。どうせ松前屋敷を訪ねるのだ。
少しくらい親のご機嫌伺いに立ち寄ったところで、罰は当たらんだろう」
「…痛み入ります」 今の自分なら、以前とは違う心持ちで父と向き合えるかもしれない。
そう思った永倉は、近藤の厚意を素直に受け取る事にした。
近藤は永倉の返事に満足げに頷いていた。
「まぁ、何だ。互いに色々と誤解もあったが、こうして腹を割って話す事が出来て何よりだ。
これからも、新選組の為に君の力を貸してくれ」
そう言いながら、近藤は一枚の書面を差し出した。
「これは?」 「新しい隊の編成だ。日頃の市中見廻りは勿論、来るべき長州との戦に備えて、指揮命令が迅速に行き渡るようにと歳が考えてくれた」 近藤の説明を聞きながら、永倉は内容に目を走らせていく。思案中なのか、所々にまだ空欄も目立つ。
局長 近藤勇
副長 土方歳三
総長 山南敬介
参謀 ○○…
「江戸での隊士募集が上手くいけば、正式に動き出す算段なのだが…
各小隊長は、既に何人か決まっている。私が最も信頼をおける者から選ばせてもらったよ」
一番から十番までで編成された小隊の長には、よく見知った名前がずらりと並んでいた。
その中に自分の名前を見つけた時。永倉は、近藤と土方が自分をどう見ていたのかを知る事になる。
一番組長 沖田総司
二番組長 永倉新八
三番組長 斎藤一
四番組長 ○○
五番組長 ○○
六番組長 井上源三郎
七番組長 ○○
八番組長 藤堂平助
九番組長 ○○
十番組長 原田左之助
「頼りにしているぞ。新選組二番組長・永倉新八君」 近藤の真っ直ぐな期待に、永倉もまた真っ直ぐに応えていた。
「承知」 元治元年九月四日。近藤一行は、先発した藤堂が待つ江戸へと旅立った。
この時、新選組が坂道を転がり落ちていく悲劇の前兆に気付く者は、ほんのわずかしかいなかった。
——山南敬介が突然の脱走ののち切腹して果てるのは、この五ヶ月後…元治二年二月の事となる。

元治元年八月四日|池田屋報償金分配書面→九月四日-九日|京出立のち江戸入り→十月十五日-二十七日|江戸出立のち入京→十一月|日野へ送付の行軍録に永倉無記載・佐藤の問合せに土方「少し差し控え(※謹慎)これあり候」と回答 …以上を一つの出来事として再構成。
参考:『新選組顛末記』『会津藩庁記録』『佐藤彦五郎-土方歳三書簡』『慶応元年三月における再編組織表』