訣別、幕間

「冗談じゃねぇ!何でこいつと!?」 「冗談じゃない!何でこの人と!?」 屯所を揺るがすほどの大声だった。ほぼ同時に叫んだのは、土方と永倉である。
あまりの大音響に耳を塞ぐ者もいる中。沖田はどこ吹く風といったふうに話しを続けた。
「もう忘れたんですかー?山南さんを差し置いて二人が大喧嘩するから、隊の空気が最悪になった上に、会津候にまでご迷惑かけたじゃないですかー」 当て付けがましく沖田に言われて、土方も永倉も思わず言葉に詰まった。
実際、それだけの大事になりかけたのである。
「俺は謹慎したんだが…」 「俺だって、大目に見てやったじゃねぇか…」 手打ちも済んだと思っていた事案を蒸し返され、二人はただ困惑していた。
そこへ
「それとこれとじゃ、話が別なんだとよ。な?平助」 「原田さんの言う通りです。
あれはあくまで、対外的な罰。であるなら、次は対内的な罰。…ですね?沖田さん」
原田と藤堂が、言い含められたように沖田に同調する。
何やらよくない流れを察した永倉は、提案を装って話を逸らしにかかった。
「罰と云うなら、きついのがいいんじゃないのか?あー…ほら。早素振り百本とか」 「それ、ただお前さんだけが得するやつじゃん。本っ当、剣術莫迦だよなー」 「む…!」 言い負かされた永倉は、悔し紛れに原田を睨み返す。
やはりよくない流れを察した土方は、提案を装って話を逸らしにかかった。
「そ、そうだ!お前ら!特別に『百発百中で女を落とす口説き方』教えてやるよ?」 「それ、“但し土方さんに限る”やつじゃないですか。色男の嫌味にしか聞こえませんけど?」 「ぐぬぬ…!」 言い負かされた土方は、悔し紛れに藤堂を睨み返す。
「そんなに嫌なら、内容を『一日手を繋ぐ』に変えちゃいますよー?」 「「巫山戯(ふざけ)るな!!総司っ!!」」 とんでもない事を口走った沖田に、二人はこれ以上ない勢いで猛抗議した。
「まぁまぁ…。日頃の隊務に追われて、あまり話す時間もなかったんです。
またあんな誤解が起きる前に、一度腹を割って話し合ってもいいんじゃないでしょうか?」
井上の至極真っ当な言い分に反論の余地は無く、今度こそ二人は頭を抱えるしかなかった。
「源さんまで…!」 「殺生な…!」 それを見た沖田が、勝ち誇ったように畳みかけた。
「…と云う訳です。
今日は二人で親睦を深めて来て下さーい。ちなみに、喧嘩して帰って来たら最初からやり直しでーす」
土方はぐちぐちと悪態をつき、永倉は憮然として不満を示していたが、結局は沖田の思う壺にはまるしかなかった。
沖田に呼び出されて一部始終を傍観していた斎藤は (何故、俺は此処に居るのか…?) と思いながら、ぼんやりと座っていた。
屯所から大宮通を南へ(サガ)り花屋町通を西に()ると、宵闇に浮かぶように華やぐ花街・島原がある。
その中のお茶屋『亀屋』の座敷では、酒肴を前にした土方と永倉の間にぎすぎすした空気が流れていた。
「…どうしてこうなった?」 端正な顔を不快そうに歪めて土方が言い捨てる。
「全くです」 不機嫌にむくれた永倉が腹立たしげに同意した。
「野郎と飲む酒なんざ、不味いにも程があるぜ」 「甚だ同感です」 「珍しく気が合うな。明日は槍でも降るんじゃねぇか?」 「だとしても、驚きませんな」 「土方先生、永倉先生」 不毛な皮肉の応酬に、はんなりとした声が割って入った。
すっと開いた襖から、色白のすらりとした芸妓が地方(じかた)を伴って座敷に入ってきた。
「お越しやす。よういらしてくれはりました」 小振りで柔和な目鼻立ちながら、白の裾引に八掛(はっかけ)と帯を古代紫で合わせた装いはこざっぱりとしており、京女の優美さの中にどこか一本筋が通っている。
芸妓の名は小常。永倉の馴染みである。
土方は勝手知ったるふうに
「あぁ。邪魔してるぜ」 と応じた。
京の治安を預かる新選組副長として、何より色男として、京中の花街の女の顔ぶれは大体把握していた。
「悪いな。小常。急に無理を頼んで…」 「そんなんよろしおす。先生方のお役に立てるんなら喜んで」 気遣う永倉に、小常はにこりと返した。
そして、まずはこの最悪とも云える空気が和むようにと、提子(ひさご)を傾けて二人に酒を勧めた。
しかし、肝心の二人は、会話らしい会話がまるで進まない。
何かを言いかけては、相手の反応が癇に障り、苛立ちを抑えようと言葉を引っ込める。そんな何とも歯切れの悪いやり取りが、途切れ途切れに繰り返されるばかりだった。
気を利かせた地方が小唄と三味線で興を添えては、どうにか間を持たせてくれた。
やがて、すっかり酒が回った永倉は、土方の目の前でうとうとと船を漕いでいた。
「…寝落ちしやがった」 「こうならはると、とおから起きてこぉへんのどす。ごめんやっしゃ」 小常は地方に下がってもらうと、慣れた様子で永倉の肩に綿入れを掛けてやった。
それを横目に、土方はなおも杯を重ねる。
沖田の企みで不本意な席に付き合わされた苛立ちから、二人とも酒の進みがいつもより早くなっていた。
「構わねぇよ。却って静かで清清する。俺は適当に飲んで、適当に帰るからな」 「へえ」 酒をあけた土方に、小常がすかさず酌をする。実は下戸である土方には、他の客よりずっと少ない量を注いでやる。彼女はこう云う所が如才ない。
「寄席だか歌舞伎だかの声色芸とか、おかしな芸当持ちやがって。
細か過ぎて伝わらねぇんだよ。ったく…」
「何や、江戸でもえらい芝居小屋が三座もある浅草ゆう所が、小そう頃からの遊び場やったて聞いてはりますえ」 土方が会話にさじを投げたと見るや。永倉は初代・金原亭 馬生(きんげんてい ばしょう)が得意とした歌舞伎役者の物真似の話から、三代目・關 三十郎(せき さんじゅうろう)を真似た『白浪五人男』の渡り科白を地方の三味線に乗せて諳んじてみせた。
素人の座興だったが、不毛な席に付き合わせた芸妓たちへの彼なりの詫びのつもりだった。
「ちっ…。長州の間者狩りの時も、こんな間抜け面で寝入っていやがったんだろうな」 「『長州の間者』…?」 不穏な語句に、小常の笑みがわずかに曇った。
「あぁ。だいぶ前の話だがな。丁度、こいつが殺しの標的にされていたんで囮役をやらせたんだが…
間者共を(おび)き出した『一力』で普通に酒飲むわ、丸腰で寝ちまうわ、結局奴らを引き連れたまま屯所に戻って来るわ…。何の策も弄してこねぇときた。呆れたぜ。
こちとら、筋書きに支障が出ねぇか何度も様子見に使いをやって骨折り損だ。
近藤さんは『君は図太いな』なんて持ち上げてやっていたが、俺から言わせりゃ単に鈍いんだよ。こいつは」
暗殺に及んだ所を抑えるつもりだったとは云え、あまりに危ない橋だった。
『奴らが強引に斬りかかってたら、一巻の終わりだったじゃねぇか』 と叱責した土方に、永倉は 『斬りかかられたら、その刺客の刀を奪えばいいかと』 と、しれっと言ってのけた。
実際、その後の池田屋事件で刀が折れた時も、倒した浪士から拝借した刀で戦い続けたのだから、彼にとっては当たり前の感覚だったようだ。
土方が二の句を継げなかったのは言うまでもない。
「そないな事が、あったんどすか…?」 「何だ?こいつから聞いてねぇのか?」 小常の反応が、土方には少し意外だった。
花街の女は当意即妙。客から話しを引き出すなど造作も無い筈だ。
「お勤めのお話しは何も…。
前に、うちが『血生臭いお話しは嫌いどす』言うたら『そうか』と仰られて、それきり…」
「莫迦正直が…」 「よろしゅおすのん?こないなお話し、うちにされてしもて」 「構わねぇよ。人の口に戸は立てられねぇ」 残りの酒を一息にあおると、土方はにやりとして
「…特に、佐幕も倒幕も見境の無ぇ商売女にはな」 刺のある物言いに、小常の手がぴくりと震えた。
「おっと、悪かった。別に、あんたらの活計(たつき)をどうこう(けな)すつもりはねぇよ。
こちとら、泣く子も黙る“人斬り”新選組だ。
さっき話した長州の間者も、こいつを含めた俺たちの手で残らず斬った。
要は、人様の命を奪うのも、人様の心を弄ぶのも、商いとしちゃ同じ穴の(むじな)だからな」
二枚目で通る土方は、京でも数多くの女と情を通じている。
その一人である島原の花君太夫は、土佐浪士・中岡慎太郎の馴染みでもあった。
のちに薩長同盟を画策する男と、新選組の副長が同じ女と懇意になる。
佐幕倒幕を問わず、多くの志士が潜伏や密会に出入りする花街では、珍しくもない事であった。
「…うちもいけずやけど、土方先生はもっといけずを言わはるんどすな。
こん人が殺される所やったて聞いて、うちは心の臓が止まる思いどしたんえ?」
伏し目がちにきゅっと胸を抑える仕草をしてみせる小常が、土方にはどこか小利口そうに見えていた。
「へぇ…。そりゃあ、こいつが何も話さねぇ訳だ。この向こう見ずな二番組長の任務をいちいち聞いてたら、その“か弱い”心の臓がいくつあっても足りやしねぇよ。
…まぁ尤も、表向きの仕事しかさせてねぇこいつの話しをいくら聞いた所で、“何の”足しにもならねぇとは思うがな」
彼女たちの多くは、客商売の矜恃から口が堅い。
それでも、倒幕派志士の情報収集や潜伏に手を貸す者も少なくなかった。
長州の桂小五郎と馴染みの幾松や、『勤皇芸者』の異名をとる君尾などは、その代名詞と云えた。
「土方先生は、うちらを『人様の心を弄ぶ』商いや言わはりましたけど…
うちらにも、その“人の心”ゆうもんはあるんどすえ?
心を動かさんようにしとるさかい、心が無いゆう事とは違いますのえ?」
冗談めかしてはいたが、小常の笑みはどこか強張っていた。
「だから、言ったろ?貶すつもりはねぇって。
…ただ、こいつの鈍さに四苦八苦しているだろうあんたに、少しばかり同情したって所か?」
佐幕だ倒幕だと言った所で、やっている事はそう変わらない。
間者を使い、情報を盗み、裏切り者は葬り去る…。
土方の科白には、これでもかと云うほどの皮肉が込められていた。
「そんなん、うちは…」 はぐらかそうとする小常に、土方は執拗に絡んだ。
「それとも、もう往生しちまったとでも言うのか?…聞いてるぜ?
あんた、うちの藤堂とこいつを手玉に取った挙げ句、結局こいつに乗り換えたんだってな?
さぞや、当てが外れただろ?」
小常の表情から、今度こそ客向けの笑みがすっと消え失せた。
「…土方先生ともあろうお人が、しょーもない噂を信じられはるんどすな」 「意外と莫迦に出来ねぇぜ?噂にゃ、多少は真実が混じってるもんだからな」 半分は本音だが、半分ははったりである。土方は鎌を掛けていた。
隊を預かる副長として、隊士が懇意にしている人間はその“表”も“裏”も把握しておく必要がある。
局長の近藤と馴染みの深雪(みゆき)太夫や御幸(ごこう)太夫と云った女達ですら、その例外ではなかった。
心外そうに目をそばめていた小常だったが、やがて思い切るように口を開いた。
「うちは花街の女どすさかい。浮いた噂も嘘も華…。
せやけど、こん人と藤堂先生の面目の為にお話しさせてもらいます。
藤堂先生は、うちの出しにされただけなんどす」
「…と、云うと?」 「うちに言い寄るこん人を煙に巻こう思て、たまたま知っとるお名前を出しただけどしたのに…。
しばらくして、こん人が藤堂先生を連れては、うっとこによう来はるようになって…。
うちと藤堂先生を引き合わせる為やったて気付いた時は、ほんまに困りました」
話を聞いていた土方は、流し込んだ酒に思わずむせそうになった。
「“駆け引き”ってやつが、剣術だけのもんとでも思ってんのか?こいつは…」 「もうあかん思て、藤堂先生にお詫びしはったら…」 最初は、全く身に覚えのない話に目を白黒させていた藤堂だったが 『私はあの人に池田屋で助けられた恩があります。この藤堂平助、お二人の為に一肌脱ぎましょう』 「そう言うてくれはって…。藤堂先生とうちで、こん人に全て正直にお話ししたんどす。
せやのに、こん人…」
『話はわかった…。平助の義理堅さは、ありがたく受け取っておく。
しかし、好いた惚れたはそれとは別だ。俺に遠慮する事はない。
お前たち二人が好き合っているなら、俺は心からそれを祝おう』
年下の藤堂の手前、そして一度は惚れた相手の手前、やせ我慢して笑う永倉の親切を無下にしたくはない。小常は訳もなく、そんな思いに駆られていた。
虚飾に満ちた花街で、久しく忘れていた“人の心”に触れた気がした。
「そんなん言われたら、もう…うちは四の五の言える訳おへんやん。ほんま、すこいお人やなて…」 何とも締まらない馴れ初め話に、土方は半ば唖然としていた。
「おいおい…。花街の女に『狡い』と言わしめるたぁ、この野暮天も隅に置けねぇじゃねぇか」 「せやから、土方先生が“ご心配”されるような事は何一つあらしまへん。
好いた惚れたとは少し違うんかも知れまへんけど…
うちはうちで、こん人はこん人で、繋がりながらも自分の道を生きていこう思うとるだけなんどす」
小常の表情はまだ少し強張っていたが、何か決意を秘めたような眼を土方に向けていた。
これ以上、鎌をかけるのも悪いと思った土方は、肩をすくめて矛を収めた。
「はん…!つくづく、女って奴はわかんねぇな」 「土方先生ほどのお人が?ご冗談を。
うっとこの()ぉらも、先生がおいやすと聞いただけで誰しも色めき立ちますんえ?」
土方とすれ違って振り返らない女はまずいない。
偶然目が合っただけで、流し目を送られたと舞い上がる娘もいるほどだ。
今日の地方も、土方の座敷に呼ばれたと内心浮かれていたのだが、肝心の土方の機嫌が悪かったのは運がなかった。
「『知れば迷ひ しなければ迷はぬ 恋の道』…」 酒をちびちびと舐めながら、土方がふと呟いた。
「何どす?」 小常が小首を傾げる。
聞かせるつもりはなかったのか、ばつが悪そうに土方は目を逸らした。
「いや、いい…。
知れば知る程、わからねぇよ。女に好かれるのと、女をわかっているのとは別物だからな」
陽炎、稲妻、水の月。女心と秋の空。いずれも掴み所がない。
色恋に不自由した事のない土方だったが、これもまた彼の本音であった。
もし同性が聞いたら「一遍滅びろ」と呪うだろうが。
「『好かれとる事と、わかっとる事は別』…いややわ。耳が痛い」 自嘲するように小常は独りごちた。
「何だ?身に覚えがあるみてぇな口ぶりだな?」 「こん人、ほんまに何も聞かへんのどす。うちのほんまの名前さえ…。
ほんまは、うちが後ろ暗い女やて疑うて泳がせとるつもりなんやろか?て…
阿呆らしい思ても、堪らんと不安になる事もあるんどす」
詮索好きは嫌われるものだが、詮索しない気質もまた相手を不安にさせるらしい。
可笑しな事もあるものだと土方は思った。
「安心しな。それは無ぇよ。腹が立つ事に、こいつの莫迦正直さは筋金入りだ。
いちいち俺のやり方に、おめでたい空理空論で問い質してきやがるくらいにはな」
永倉の気質を腹に据えかねてさえいる土方の評価は、小常に妙な説得力を感じさせた。
「そう、どすか…。へえ。そうどすな」 相変わらず呑気に寝息を立てている贔屓の寝顔を見ながら、小常は頬を緩ませた。
「…せやし、そこがこん人の可愛らしい所なんどすえ」 惚気(のろけ)かよ」 「へえ」 胸を張って微笑む小常に、土方は「降参だ」とばかりに苦笑いした。
「ったく…!総司と云い、このちんちくりんと云い…
何でうちの凄腕は、こんな扱いにくい奴らばかりなんだ?」
翌日。
朝餉の席に向かう途中の土方と永倉は、屯所の廊下で鉢合せた所を沖田に呼び止められた。
「…で?昨日はどうでしたー?喧嘩しないで、ちゃんと話せましたかー?」 井上が期待したように、腹を割って話すとまではいかなかった。
一方で、沖田が危惧したような喧嘩別れに発展する事もなかった。
「…近藤さんが同席してるもんだと思って、耐えてやったよ」 「右に同じく…」 揃って不機嫌そうに答えた二人に 「わー!すごいなー!さすがは近藤さんですねー」 と、沖田は誰を持ち上げているのかわからない返しをした。
「腹しか立たねぇ褒め方だな。おい…」 「癪ですが、右に同じく…」 さらに揃って不機嫌になる二人に、沖田はどこか含みのある笑みでこう言った。
「ではですねー。めでたく和解した二人に、早速お願いしたい事があるんですよー」 「…で?何で俺ら、道場に集合してんのよ?」 「知りませんよ。土方さんが『幹部は全員強制参加だ。遅れても逃げても切腹だからな』とか、無茶苦茶言い出すんですから」 原田のぼやきに、藤堂がぼやき返す。
原田、藤堂、井上、斎藤、そして山南は、道着姿で訳も分からず道場に集められていた。
そこへ
「全員居るな?」 と言いながら、扉を引いて土方が、続いて道着姿の永倉が入ってきた。
その意外過ぎる組み合わせに、原田と藤堂は眼をしばたかせた。
「へ…?何で、新八が土方さんと居んの…?」 「何か、嫌な予感しかしません…」 今一つ状況を飲み込めない井上が、土方に訪ねた。
「歳さん。一体、何が始まるんです?」 「よくぞ聞いてくれた。源さん。…これより、ここに居る全員で地稽古を執り行う!」 「えぇーっ!?」 土方の突然の号令に、一同は一斉にどよめいた。
「最近、任務が型通り続きで、隊士の気がめっきり緩んでるみてぇだからな。そこでだ!
幹部自ら鍛え直した所を見せて、隊全体を引き締めようって寸法だ」
「稽古の師範役は俺が承った。そう云う訳だから、遠慮なくかかって来てくれ」 土方の説明を受けて、永倉が全員に竹刀を持たせた。
どうも話しが出来過ぎている。
不審に思った藤堂が、おずおずと声を上げた。
「あのぉ…土方さん?」 「何だ?」 続いて原田も、おずおずと声を上げた。
「総司と近藤さんは…どこ行っちゃったわけ?」 気の所為か、土方がふんと鼻息を吹いたような気がした。
「一番組は市中見廻り。局長は黒谷本陣に用事だ。文句あるか?」 彼らは事態を悟った。調子に乗り過ぎて、副長と撃剣師範を怒らせたと云う事を。
「やれ。永倉」 「承知」 これ以上ない険悪な笑みを浮かべた二人は、さながら仁王の形相にも勝る恐ろしさだった。
「島田伍長。今朝は一体何事ですか?
道場から、幹部の皆さんの悲鳴や雄叫びが聞こえるのですが…?」
明らかに異様な道場の有様を感じて、二番組隊士の中村金吾が島田に訪ねた。
「あぁ…。土方さんの意向で、永倉さんが幹部全員に荒稽古をつけているそうだ」 それを聞いた中村は意外そうな顔で、その場にいる同僚たちに話を振った。
「えっ?永倉先生の稽古で、あんなに荒れるか?」 「俺、先生の足元にも及ばないけど、手加減してもらえるぜ?」 「癖とかの直し方も、ちゃんと教えてくれるよな?」 中村に続いて、蟻通勘吾(ありどおし かんご)山野八十八(やまの やそはち)が次々に疑問を口にする。
言いにくそうにしていた島田が、仕方なしに事情を明かした。
「それが、ちょっと色々あったようで…今、“これ”らしいんだ」 島田は、頭の両横で両手の人差し指を突き立ててみせる。“鬼のように怒っている”事を示す動作だった。
それを察した隊士たちは一斉に青ざめた。
「ただの修羅じゃないですか…!嫌だ…!」 「どこの鎮西だよ…!?怖過ぎる…!」 「…と云うか、また原田先生か藤堂先生あたりがやり過ぎたんじゃないのか?」 竹刀がしたたかに鳴る音がするたび、道場の床には“討死”の山が累々と積み上がっていった。
「誰だよ…?あの二人を和解させろとか言ったの…!」 「原田さんがそれ言います…?真っ先に賛成した癖に…!」 「あ、相変わらず、お強いですね…。ははは…」 こっぴどく打ち倒された原田、藤堂、井上が床に転がる横で、順番を待つ山南と斎藤が居心地悪そうに立っている。
「えぇと…?」 「…何故、俺まで?」 「金と腕はいくらあっても邪魔にならねぇからな。
斎藤だって、いくら強くなった所で別段困りゃしねぇだろ?」
土方に求めた助け舟をいともあっさり受け流され、斎藤は潔く諦めた。
「…わかりました。この人に見習えるものは、それくらいですから」 「斎藤。喧嘩なら竹刀(こいつ)で売るといい。買うぞ?」 そのやり取りの通り、会津候御前試合以来の激しい打ち合いの末、紙一重で永倉が斎藤を仕留めた。
「いずれ、伸します。十年後には…。歳を取れば、こちらが有利…!」 「それは楽しみだ。それまでお互い生きているといいな?」 苦虫を噛み潰したようにうずくまる斎藤を、永倉は勝ち誇ったように見下ろしていた。
そして順番が回ってきた山南が、土方に遠慮気味に確かめる。
「…私も、かな?土方君」 「強制参加っつったろ?山南さんも例外じゃねぇよ」 土方は、にべもなく答えた。
「そう言われてもね…」 どこか気後れしている山南に、永倉は先程とはうって変わってからりとした調子で声をかけた。
「山南さん。たまには思い切り身体を動かさねば、気まで滅入ってしまいます。
久々に一本いきましょう」
何か心動かされたのか、少し間を置いたのち、山南はすっと竹刀を構えた。
「…では、久しぶりに一本」 山南のすらりとした構えから繰り出される洗練された太刀筋は、いつ立ち合っても惚れ惚れする美しさだった。…が、
「あ痛…っ!」 間もなく山南の小さな悲鳴が上がった。右面を避けようとして、肩口に袈裟が入ったのだ。
「おい。大丈夫か?」 山南の意外な反応に、土方から思わず気遣う言葉が出た。
「面目ない…。やはり、随分と身体が(なま)っていたようです」 一年近く前。
大阪の岩木升屋で押し込み強盗を撃退した山南は、刀が折れるほどの奮戦の末に手傷を負っていた。
それ以来、傷が癒えても隊務や稽古から遠ざかったまま、どこか浮かない表情でいる事が多くなった。
自嘲する山南に、永倉は何らこだわりなく言ってのけた。
「山南さんなら、すぐに取り戻せます。いつでも道場に顔を見せて下さい」 一瞬戸惑ったような表情を見せた山南だったが 「そうですか?…えぇ。そうですね」 と、肯定的な笑みを浮かべていた。
それを見た土方は、満足気に口角を上げた。
「よぉし!まだまだいくぞ!手前ぇら!」 「ぅえぇー!?」 “鬼の副長”の無情な号令に、一斉に悲鳴が上がった。
その頃。
沖田は近藤と連れ立って、四条醒ヶ井あたりを鴨川に向かって歩いていた。
沖田は組長として一番組を率い、近藤は文学師範の尾形俊太郎を伴っている。
「上手くやってるかなー?土方さんと永倉さん」 「しかし、総司も考えたな。山南さんを元気付けようと、皆での稽古に誘わせるとは」 沖田の“企み”に、近藤はいたく感心していた。
今朝方、廊下で呼び止めた土方と永倉に、沖田はこう持ちかけていた。
『いいですかー?
土方さんの副長としての権限と、永倉さんの撃剣師範としての腕前で、山南さんに気分転換をさせてあげて下さーい。…頼みましたよ』
最初は面食らっていた二人だったが、沖田の意図を知るや 『…ったく。しょうがねぇな』 『最初からそう言ってくれ。心得た』 と、快く引き受けてくれた。
「…心配だったんですよ。山南さん、最近ずっと塞ぎ込んでいるみたいだったから」 沖田の横顔から、いつもの明るさがふと影を潜めた。
つられて、近藤もやや声を曇らせる。
「うん…。私も、何とかしてやりたいと思っていたんだが…
皆で稽古か。試衛館を思い出すな。懐かしい」
しみじみと語る近藤の脳裏には、貧しくも楽しげだった試衛館での光景がありありと浮かんでいた。
それは沖田も同じだった。
「あの頃を思い出せば、山南さんも気分が変わってくれるかなーと思って…」 沖田なりの精一杯の気遣いが山南に伝わるようにと、近藤は願わずにはいられなかった。
「うんうん。きっと、そうなってくれるだろう。山南さんには、まだまだ活躍してもらわんとな」 「そうですよー。…あーぁ。私も参加したかったなー」 「わははっ!私もだ」 近藤は豪快に笑って、沖田に同意した。
「だが、隊務に穴を開ける訳にはいかん。それにな、総司。お前は、あまり無理を——」 「ふふっ…!わかってますよー。言ってみただけです」 近藤が言わんとした事を、沖田は冗談めかして遮った。その肺腑がひゅうと渇いた呼吸をした。
その後も続いた猛稽古で徹底的に絞られた五人は、もはや完全に音を上げていた。
そんな中にあって、どこか憑き物が落ちたような山南の表情を見て
(…ま。こんなもんだろ) と、土方は一人悦に()っていた。
そこに永倉が竹刀を差し出してきた。
「土方さんもどうですか?」 「あ?俺が?」 「遠慮なさらず」 なおも竹刀を差し出す永倉が、土方には解せない。
やがて、唸るように低い声音で永倉は土方にこう告げた。
「…誰が、『ちんちくりん』ですか?土方さん?」 「てめ…っ!あの時、起きていやがったな…!?」 あの時は半醒半睡の永倉だったが、土方が言った“悪口”は聞き逃さなかったようだ。
小常に鎌を掛けた事も含まれていたか否かは、永倉の胸の内である。
仁王の恐ろしさにも勝る険悪な笑みが、今度は土方に向けられた。
「敵前逃亡は士道不覚悟…でしたか?さぁ、腹を決められるがよろしい。副長殿」 土方は事態を悟った。この男に、自由に得物を振るう権限を許してはいけなかったと云う事を。
出し抜かれた怒りにわなわなと震える手で、土方は差し出された竹刀をひったくった。
「覚えていやがれ…!この“ガム新”が…っ!」 それを聞いた永倉は、竹刀の柄をみしりと鳴るほど握り締めた。
「聞き捨てなりませんな。…四の五の言わずに、かかって来られよ」 間もなく——道場からは土方が振るう喧嘩剣法を物語る凄まじい音と、聞いた事もない断末魔じみた絶叫が響き渡ったと云う。
その異様な音は、屯所を賑わす一つの噂の源となった。
「おい!聞いたか?永倉先生が土方副長から一本取ったらしいぜ」 「えぇっ!?あの“鬼の副長”からか…!?」 「ただの噂じゃないのか?そんな事をすれば、沖田先生が黙っておられんだろう」 「いいや。わからんぞ?沖田先生は、あれで気紛れな所があるからな…」 わいわいと盛り上がる隊士たちを横目に、斎藤は人知れずため息をついていた。
(あのまま土方さんの気を良くしておけば、今後何かとやりやすかったものを…。
図太いのか、鈍いのか…。どこまでも単純明快な人だ)
ある夜の事。
島原の妓楼の一つで、山南は馴染みである天神の明里と静かに呑み交わしていた。
「山南さん。なんや、うれしそう。えぇことでもありましたん?」 明里は子供のように澄んだ眼を山南に向けた。
彼女には、廓の女にありがちなけばけばしさも擦れた所もない。地味な着物で外へ出れば、豪商か旗本の娘でも通じそうなたおやかさがある。
そんな身の上の苦労を感じさせない明里の気質を、山南は気に入っていた。
「久しぶりに、少し気が晴れたような、懐かしいような…そんな気分になれたもので。つい…」 あの稽古の後は、それまでの(わずら)いが嘘のようによく眠れた。
身も心もどこか軽くなったような感覚は、まだ何者でもなかった試衛館での日々を思い起こさせるものだった。
何より、屯所に戻ってきた近藤と沖田の態度を見れば、彼らの気遣いがわからない山南ではなかった。
「うれしおす。山南さんがうれしいと、うちもうれしいわ。
…ずっと、おつらそうやったから、うちもつらかったんどすえ?」
「それは、心配をかけましたね。申し訳ない」 「えぇんどす。…せやけど、うちにできんことをできてまうヒトがおんのは、やけますわ。
だれなん?山南さんをこんなえぇおカオにさせはったんは?」
「明里…」 山南にとってこの一年は、心に澱が溜まり続けていくような決断を強いられるばかりだった。
そんな鬱々とした日々にあって、隊務も駆け引きも忘れて心安らげる唯一の相手が明里であった。
「貴女には貴女にしか出来ない事があります。私はそれに随分と救われてきました。それで充分です」 「ほんま?」 「えぇ。『ほんま』です」 「ふふ…っ!おかしいどすえ?山南さんは山南さんのまんまなんが、いちばんどす」 「そうですか?…えぇ。そうですね」 悪戯っぽく笑う明里に、山南もまた微笑み返す。
(私は、私のまま…か。もう、それで良いのかもしれない…) 物思いに沈んだのも一瞬。山南の眼は、杯を差し交わす愛おしい女性(ひと)に注がれた。
島原を彩る夢見心地な燈火を包み込むように、京の夜は深々と更けていった。

参考:『新選組興亡記』栗賀大輔『新選組をめぐる女性たち』菊池明、結禧しはや 『明治史談速記会』阿部十郎、稗田利八証言