イラスト「千夜一夜物語」はこの小説の世界観を描いたものです。

幻影はラクダに乗って旅をする

太陽は、眠りについていた。
日没を境に、灼熱の大地は極寒の世界へと姿を変える。
そんなカヴィール砂漠の片隅の名も無き小さなオアシスで、アラブ商人マリクの隊商は休息をとっている所だった。
このオアシスに辿り着いた時。ずっと水を節約してきたキャラバンたちは、滾々(こんこん)と湧き出る泉目掛けて、我先にと駆け出していった。
しっかり者の料理長は皮袋にせっせと水を汲み始め、今回が初めての旅だった最年少のイーサーは、ターバンをかなぐり捨てて無我夢中で水に飛び込んだ。
そうして彼らは、七日にもわたる行進で乾涸びかけていた喉を存分に潤した。
ラクダを休ませ、食料の荷を解いて腹ごしらえを済ませた頃。黄昏に砂は紅く染まり、ほどなくして青白い夜がきた。
昼間の焼けつくようにぎらついた太陽とは違い、宵闇を照らす月はどこか妖しくもやさしい光をたたえている。
はしゃぎ疲れたイーサーが、椰子の木陰で毛布に(くる)まって寝息を立てている。
オアシスの外れでは、案内人のジンが独り、『緯度航法装置(カマル)』で星を見て方角を測ってくれている。
遥か地平線を見つめて、マリクはいつになく物思いに耽っていた。
砂の海は、果てしなく続いている。
この砂漠を越えれば、目指すペルシア湾があるはずだ。
月光で青白く染まった砂丘の波が、彼方に横たわっているであろう海の波濤と重なって見えたような気がした。
ふと、一艘の小船――いや。一頭のラクダが、砂丘の波間に現れた。
ラクダがその背に乗せていたのは、おびただしい荷物と
(女…?) 蜂蜜色のヴェールと丈の長いコートを纏った女が、ラクダに揺られて静々とこちらに向かっている。
こんな砂漠の真ん中に?女一人で?案内人さえ連れずに?
さまざまな疑問が、マリクの頭をよぎった。
そうしている間にも、女を乗せたラクダは一歩また一歩と近づいてくる。
蹄が砂を踏みしめる音の他は、マリクの耳に入っては来なかった。
とうとう、オアシスに入った女は、入り口近くの椰子の木にそっとラクダを寄せると、鞍から音もなく地面に降り立った。
不意に、女が振り向く。
目と目が合った。
ヴェールからのぞいた艶やかな黒髪と褐色の肌が、白眼と歯の白さをいっそう際立たせている。
夜の闇をそのまま閉じ込めたような漆黒の瞳は、吸い込まれるような美しさだった。
(砂漠の、妖精――!?) 一瞬、マリクは本気でそう思った。
ほうけていると、女が両手を胸の前で合わせて会釈した。
はっとしたマリクは、何か声をかけなければと咄嗟に口を開いた。
「やぁ。こんばんは」 「こんばんは」 女の口から出たのは、異国の言葉だった。
(ウルドゥー語…。北シンド人か)
隣接する言語圏同士には、借用語や文法など共通する所が多い。女が口にしたウルドゥー語も、西方のペルシア語とアラビア語からの影響を受けている。
バグダッドとエスファハーンを長年行き来してきたマリクに、その理解は容易だった。
「一人かい?」 「えぇ。一人です」 女は簡潔に答えた。
会話が途切れる。
女は、両の手を腹の前できちんとそろえたまま、身じろぎ一つ、まばたき一つしない。
向かい合い、立ちつくしたまま、風に砂が流される音だけが二人の間を通り過ぎた。
「あー…その…そうだ。俺たちは、バグダッドの隊商だ。唐の絹や茶を仕入れて、持ち帰る途中でな」 「私は、踊り手をしながら、諸国をめぐっております」 「女性の一人旅とは、勇敢なことだ。どこまで行きなさる?」 女は、すうっと呼吸するような動作で、星空を仰いだ。
「天…」 「え?」 女がつぶやいた言葉に、マリクもつられて夜空を見上げた。
闇に砂金を散りばめたような満点の星が、視界を覆い尽くした。
「天の導くままに…。どこへでも…どこまでも…」 気が遠くなりそうな天穹から、マリクは視線を地上に戻した。
女は、いまだ天を仰ぎ見ている。
彼女は何を見ているのか。何を見ようとしているのか。
「隊長ぉ…」 聞きなれた声にふり向くと、あくびをかみころしたイーサーが、毛布を引っかけて立っていた。
「何だ。起きてしまったのか?明日も早いんだ。しっかり寝て―― 「ねぇ、隊長!このお姉さん誰?知ってる人?でも、昼間はいなかったよね?隊商に新しく加わる人?あ、こんばんは!僕、イーサーって言います!よろしく!」 マリクの忠告を遮って、イーサーが一気にまくし立てる。この美しい異国人を前にして、若い好奇心に目を輝かせていた。
「んぁー…?どうした?イーサー…」
時間をわきまえないイーサーの大声に、今度は料理長が目を覚ました。
それに続いて、他のキャラバンたちも次々と起き出してしまった。
「ふぁ…?」 「うるせぇぞ、イーサー…。何騒いで…?」 「…って、おぉっ!?すごい美人!」 「何、何?誰、誰?」 それは、あっという間の出来事だった。
マリクが止める暇もなく、女は、イーサーの仲間入りをしたキャラバンたちに取り囲まれていた。
「肌は黒いけど、とびきりの別嬪じゃねぇか」 「うおっ!久々の目の保養だぜ」 「もう、むさ苦しい男どもばっかりで、うんざりしてたんだよー!」 「お前、目がいやらしいぞ」 「どれどれ?全然見えねぇよ?」 「所帯持ちは見るな!独り身限定!」 「何だ、そりゃ!?」 長旅で退屈していたキャラバンたちは、水を得た魚のごとく、やんややんやと騒ぎ立てる。
「ほら、皆!好き勝手言ってるんじゃない!この人はな、旅の踊り手さんだ!」
喧騒にかき消されるものかとばかりに、マリクは声を張り上げた。
ようやく、このバカ騒ぎが収まるかと思ったが、キャラバンたちはまた懲りずにざわめき出す。
「踊り子だって?」 「どうりで、きれいなわけだよ」 「踊り子なら、何か一曲踊ってもらおうぜ!」 「あ、俺も見たい!」 「そういや、ヤズドで合流した横笛(ナーイ)吹きと弦楽器(バルバット)弾きがいたろ?連れてってやってるんだから、ちぃとばかし頼まれてもらおうぜ」 「おっ!そりゃ、いいや!おーい、楽士!起きろ、起きろ!出番だぞー!」 キャラバンの一人が、未だラクダの鞍を枕に寝そべっている楽士たちのもとへと走り、彼らを引っぱってくる。
無理矢理起こされて寝ぼけ眼をこすっていた楽士たちも、女の姿が目に入るや一気に眠気が吹き飛んだ。
だめだ。止まりそうもない。
マリクは、あきらめのため息をついて、女の方に向き直った。
「すまないが、そういうことになってしまったようだ。あんたの好きなものでいい。こいつらのために、踊ってやってくれないか?」
女は戸惑う素振りもなく、最初の姿勢を保ったまま、ゆっくりと一呼吸した。
「一曲だけでしたら」
それを聞いたキャラバンたちが、再び沸き立つ。
「うおぉ!今の聞いたか!?」 「聞いた、聞いた!」 「やったー!」 キャラバンたちは、うきうきしながら女の踊る舞台を整えに走った。
ラクダと荷物を移動させて空間を空ける者。舞台代わりの空間に楽器を持ち込む楽士たち。席の取り合いに余念がない者などなど、真夜中のオアシスは俄かに活気付いた。
「まったく、しようのないやつらだ…」 やれやれと部下たちを見やるマリクに
「たまには息抜きさせてあげるのも、隊長の務めじゃないですか」
と、騒ぎの元凶であるイーサーが得意げに言ってのけた。
「こいつ!口だけは一人前だな」
呆れたような笑みのマリクに小突かれるイーサーもまた笑っていた。
一見荒っぽいが和やかなやりとりが繰り広げられるその横を、女がすっと通りすぎた。
それを見て訝ったイーサーが女に聞いた。
「あれ?どこ行くの?」 「したくです。すぐに戻ります」 そう言ってまた歩き出した女に、イーサーは思い出したようにもう一度話しかけた。
「あ!そうだ。お姉さんの名前は?」 女がぴたりと足を止める。
ヴェールの端を華奢な右の手指で支え、彼女は優雅にふり返った。そして、彼らに初めて見せる微笑みをたたえて我が名を名乗った。
「『幻影(マーヤ)』」 マーヤが、楽士たちと何かを打ち合わせて一旦下がったあと。
一堂に会したキャラバンたちは、麗しの踊り子が現れるのを今か今かと待ちわびていた。
やがて、焚き火に照らし出された仄暗い『舞台』に、身じたくを整えたマーヤが進み出た。
全身をゆったりとおおっていたヴェールとコートに代わって、胸元に巻かれた布とシャルワールの間からは、すらりとした肢体がしなやかに伸びている。
両の二の腕と手首には、黄金の腕輪。
高い位置で結んだ烏羽玉の黒髪は、繊細な金細工の髪留めで飾られている。
首から下がる瑠璃の玉飾りの先には、太陽を模した金細工で縁取られた真紅のルビーが輝いている。
両足には、二十個ほどの小さな鈴が連なっている鈴飾りが、羊毛の紐で結ばれていた。
マーヤは物怖じする様子もなく、一歩、また一歩と、淡々と歩みを進めていった。
やがて、人の輪の中心で立ち止まると人垣を向き、つと両手を合わせて祈るようにひざまずいた。
キャラバンたちは、この異国の美女がどんな踊りを披露するのか、熱い視線を注いでいた。
パチッ 篝火の火の粉がはぜる。
ザワッ 椰子の葉が夜風に揺れる。
煌々と浮かぶ満月を背負って、マーヤは春に伸びゆく若草のように、ゆったりと立ち上がった。
マーヤの左足が、軽くステップを踏む。
シャン… 鈴飾りが、涼やかな音を立てた。
天高く伸びゆく壮大な旋律に乗せて、マーヤは透き通った声で歌いだした。
どこのものとも知れない異国の言葉が、郷愁を誘う調べを紡ぎだす。
マーヤが、再びステップを踏む。
シャン… その音を合図に、楽士たちの伴奏が始まった。
ゆらめくような主旋律をたどる笛の音と、規則正しく爪弾かれる弦が、絶妙な和音を奏でだした。
マーヤの細くしなやかな両腕が、優雅に泳ぐ。
やわらかな黒髪が、ふわりとひるがえって、主の動きのあとを追う。
首飾りが飛び跳ね、ルビーは焔の熱でより紅く光る。
それをつなぎとめる玉同士が、時折、ジャラジャラとこすれ合う。
足を踏み出すたびに、鈴の澄みきった音が鳴り響く。
シャン… 時に激しく、時にやさしく。
緩急自在な大河の奔流を前にしているような眺めに、聴衆は息を呑んだ。
このオアシスで、この場所にだけ、他とは違う空気が漂っていた。
――人は、果てしない地平の片隅で、見渡す限りの海原で、降るような星空の下で、この世にたった一人取り残されたように思う時がある。
人は一人だが、孤独ではない。いかなる時も、空と海、そして大地に(いだ)かれている。
この世は、そんな無数の『一人』が寄り添い、また(せめ)ぎ合い、形作られていく――
そんな感覚が、まざまざと迫ってくる曲だった。
キャラバンたちは、手拍子も冷やかしも忘れて、ただただ魅入っていた。
いつもは無邪気なイーサーが、はしゃぐ余裕もなく、じっとマーヤを見つめている。
長年の経験から、滅多に動じる事のないマリクでさえ、我を忘れてマーヤの歌と踊りを追っていた。
やがて、大河の流れに終わりがきた。
曲が止み、楽士が手を止め、マーヤは踊りの最後の所作をとったまま静止した。
一瞬の静寂のあと、われんばかりの喝采が辺りを包んだ。
マーヤは片膝をついてひざまずくと、左腕を外に流し、右腕を前に回して優雅に礼をした。
後ろの楽士たちまでもが、楽器を手放して拍手を送り続けている。
いつまでも続くとめどない賞賛を背に、マーヤはガンダーラ菩薩にも似た微笑みを浮かべて、舞台脇の暗がりへと静かに下がっていった。
まだ夜が明ける少し前、マリクはふと目を覚ました。
辺りを見回すと、まだキャラバンたちはぐっすりと眠っている。
(夕べのバカ騒ぎで疲れたのか…。まったく、調子に乗るからだ) マリクは苦笑した。
そして、見張り番に立てたジンの様子を見に行こうと、くるまっていた毛布からはい出した。
藍色の空の一端が、仄かに白み始めていた。
「ん…?」
マリクは、誰も目覚めてないはずのオアシスに、一頭のラクダと人影を見つけた。
よくよく見ると、それは既に旅じたくを整えたマーヤだった。
彼女は、ラクダに水を飲ませ終わると、手綱を引いてオアシスの出口まで歩き、そこでひらりと鞍に跨った。
マーヤが行ってしまう。
マリクは、すぐさまあとを追った。
夕べの祭り騒ぎで、伝えそびれていたことがあったからだ。
「マーヤ!」
ラクダに乗ったまま、彼女はふり向いた。
「昨日は、本当にありがとう。おかげで、あいつらにもいい息抜きになった。…俺も、あんなに心動かされたのは何年かぶりだった」 「そうですか。よかった…」
マーヤはうっすらと微笑んだ。
そのまま、明けの空に溶けこんでしまいそうに思える儚げな笑顔だった。
彼女は、再び歩くのだ。この道もない砂漠を、たった一人で。
「行きなさるか?」 「えぇ」 マリクは止めなかった。
止める必要もないように思えた。
彼の中のマーヤは、やはり砂漠の妖精だった。
「あてどなく、終わりない旅を続けて…あんたは一体、何を求めるんだ?どこに行きたいんだ?」 「世界を…あえて申せば、世界を見てみたいのです。知らない場所を…行ける所まで…」 「『天の導くままに』、か?」 初めて会った夜、マーヤが口にした言葉をマリクはそっくり返してみた。
マーヤは、遠くを見るような眼差しで、朝の冴えた空気をすうと吸いこんだ。
「我が心は、天にあり。天は、我が心にあり」 朗々と語られたその言葉は、何かの教理のようにも聞こえた。
しかし、それは紛れもなく彼女自身の言葉なのだとマリクは直感した。
ラクダが、砂の海に足を踏み入れる。
マーヤはふり返ることなく、その背に揺られて行く。
マリクは、その凛とした後姿をただ見送る。
徐々に遠退いて行くその影は、砂丘の谷間に埋もれるほどにまで小さくなってゆく。
突然、地平線から一筋の光が迸り、マーヤとラクダの長い影が差した。
朝日に向かって進む姿は、さらに遠のき、輪郭が光に滲んでいく。
一夜限りの夢を見せてくれた美しき砂漠の妖精は、幻影のごとく、暁の彼方へと消えていった。

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