第四幕

知信と彩がまさかの『変身』を遂げ、栄治たちと共に平山、平間と戦い、敵の親玉が『芹沢鴨』を名乗ったその翌日。
開店時間をひかえた紫影館の事務室で、古風な黒電話のベルが鳴った。
「はい、はい」 仕込みのために朝一番に出勤する鳥井さんが、厨房から出てきて受話器をとった。
「はい。喫茶『紫影館』で…」 《もしもし…。風山です…》 「あぁ、おはようございます。どうしました?」 《あの…大変申し訳ないのですが、今日は休ませていただいてもよろしいですか?急に…その…風邪をひいてしまったようで、熱が下がらないもので…》 いつもは声の抑揚一つにも卒のない知信が、今朝は明らかに疲れきった喋り方をしていた。
「え…?それは、まぁ…」 知信ほど気を使う人間が電話越しですらきちんと話せないとは、よほど調子が悪いのだろう。鳥井さんは、そう察して了承した。
《それと、ですね…。月島さん、松永君、雪原君も、今日は休むそうです》 「えっ!?それは大変…!」 《面目ない…。副店長ともあろう者が、鳥井さんにご迷惑ばかりおかけして…》 「いえいえ。どうぞ、お大事に」 《本当に、申し訳ありません…。では、失礼します》 「はい」 ゆっくりと受話器を戻した鳥井さんは、おもむろに首をかしげた。
(あの几帳面な風山さんが…珍しいこともあるもんだ。しかし、月島さんたちまでそろって病欠なんて…何か悪い病気でも流行っていたかな?) 花曇りの空の下。
開店時間をむかえるはずの紫影館の玄関には、『本日休業』の札が掛っていた。
城址公園の天守閣から、芹沢一味が去ったあと。 変身を解いた三人は、疲労のあまり思わずその場にへたり込んだ。
「いやはや…これは、困ったね…」 「や、やっぱり…こうなると思った…」 I'm a state of exhaustion...(つ,疲れましタ…) 変身などという訳の分からない状態で、ほぼ全力で戦ってしまったのだから無理もなかった。
どうしたらいいか分からずにうろたえるだけの忠一をよそに、知信は息切れしながらも携帯電話でタクシーを呼んだ。
「夜中にこんな所で何やってんだい?」 と、不審顔の運転手を
「いえ。ちょっと…」 と、ごまかしつつ相乗りした四人は、何とか家まで帰りつく事が出来た。
そんな訳で、人手不足となった紫影館が臨時休業に追い込まれた顛末は、改めて言うまでもない。
午後の校舎に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。
部活や帰宅のためにクラスメイトが次々と席を立つ中、栄治は全身を押し潰すような疲労感を抱えて机に突っ伏していた。
(うー…!手足が鉛みたいに重たい…!) 昨夜の騒動のせいで疲労困憊した栄治、知信、彩は、知信の提案で今日は紫影館を休む事にした。
体調だけを考えれば、忠一まで休ませる必要はなかった。だが、昨日の今日で『チャンバラ』に興奮した忠一を一人で出勤させでもしたら、鳥井さんあたりにうっかり口を滑らせかねない。そう思った知信の配慮だった。
その晩、栄治は泥のように眠った。しかし朝起きると、やはり身体の節々に違和感が残っていた。
だが、栄治はまた母親のお説教を聞かされるのだけは嫌だった。 それで学校へは足を引きずってでも『いつもどおり』に登校した。当然、授業にはあまり身が入らなかったのだが。
「おーい!松永」 廊下側の開いた窓から、竹市が顔をのぞかせていた。今日こそは、栄治を部活に引っ張って行こうと云う腹づもりらしい。
栄治はあまりのだるさに顔を上げるのも面倒くさかったが、無視するわけにもいかなかった。
「竹市…。何?」 「『何?』じゃねーよ。部活!お前、マジメに出ろよ」 「別にいいよ。俺なんか、どんなに練習したって万年補欠だし」 「あのな!補欠にもなれねーヤツだっているんだぜ?俺らも来年で引退だってのに、そんな調子でどーすんだよ!」 「あー、そうだな…」 栄治は気だるそうに席を立った。
ふらふらと廊下に出た栄治の背中を、竹市が再び呼び止める。
「おい、松永!部活!」 「悪い…。今日はとてもじゃないけど、出られる状態じゃないんだ。休むよ」 「なぁ。こないだ、入院したって聞いたけどさ…。どっか悪いのか、お前?」 「まぁ、ちょっと、な…。じゃ」 「あ、おいっ…!」 廊下の向こうへ力なく去っていく栄治に、竹市は立腹したため息をついた。
「ったく…!」 結局、その日はまっすぐ家に帰り、そのまま部屋で寝るだけの一日になった。
『都に仇なす悪漢ども!この鞍馬天狗が成敗してくれる!』 『笑止!たった一人で我らに勝てるつもりか!』 『参るっ!』 『小癪な!掛かれぇ!』 続いて、見せ場のチャンバラが始まる。
「…何か違うよな」 仕事で帰りが遅い父親抜きで、いつも通りに夕食を済ませたあと。
栄治は、今まで見向きもしなかった、時代劇にチャンネルを合わせていた。 テレビの中では、華麗な殺陣が繰り広げられている。 主役の剣客がバッタバッタと敵をなぎ倒す。斬られ役たちが「やられたぁー」とばかりに大げさに倒れる演技をしてフレームアウトする。
『さぁ…残るは親玉、お主だけだ』 『ば、馬鹿な…!こんなはずでは…!』 『覚悟っ!』 いざクライマックスという場面で栄治は唐突にテレビを消すと、飽きた玩具でも放り出すようにリモコンをテーブルに戻した。
台所で後片付けをしていた母親が、それを見て話しかけてきた。
「…ねぇ?栄治」 「何?」 「あなた、時代劇なんて興味あったの?」 「別に、そういうわけじゃないよ」 「じゃ、どういう風の吹き回し?」 「いや…何となく」 「…そう」 母親は釈然としない顔で、再び食器洗いに意識を戻した。キャリアウーマンだった母親は家事をする時は不機嫌さを隠さなかったが、その仕上がりは完璧だった。松永家が部屋から食事までお手本のように整えられているのは、母親の完璧主義な性格のおかげでもあった。
そんな母親の関心が逸れた事に、栄治は内心ホッとした。
言えるはずもなかった。ある日突然、正体不明の古道具で『新選組』に変身し、黒い人形や謎だらけの『敵』と戦うハメになったから、などとは。
そんな『日常』を過ごす栄治の頭上——マンションの屋上に、ビル風に吹かれる二つの人影がいた。 芹沢たちの所に使いに来ていたあの青年と、彼が『先生』と呼ぶ天狗の面をかぶった男だ。
青年は、おずおずと天狗面の男に声をかけた。
「先生」 「何かな?」 天狗面の男は、涼しげな口調で返した。
「そのお面、お取りになったら如何ですか?この時代に、私たちの顔を知る者はいない事ですし…」 「いや。いいんだ」 「しかし…」 「これは、私なりの『戒め』のつもりなのだ」 「『戒め』…ですか?」 「そう。我らは本来『この時代に存在せざる者』だ。『存在せざる者』に『顔』は無用。…こうする事で、己が『死者』であるのだと忘れぬようにする。そんな戒めのつもりなのだよ」 青年は何か言いたそうだったが、やがて『先生』の意を酌んだように
「…はい」 と、静かに答えた。
そんな二人のやり取りを、屋上への出入口の陰から窺っている人物がいた。 見つからないうちに踵を返そうとした、その時。唐突に現れたもう一つの影が行く手を遮った。
無造作に伸ばした前髪から、獲物を射竦めるような三白眼が覗く。新見だった。
不意を突かれたその人物は即座に臨戦態勢をとった。刀を振り下ろす新見に向かって、20cmほどの太い針を投げつける。千本という針状の飛び道具だ。
三つの千本が新見の顔面に迫る。
新見が刀で次々と千本を弾き返す間に、その人物は物陰を飛び出して月明かりの下に姿をさらした。 全身黒一色の忍装束を身に纏い、顔は覆面と額当てで覆っている。
「先生!あれは…!?」 「ん…?」 天狗面の男と青年が、自分たちの様子を伺っていた存在に気が付いた。
体勢を立て直した忍装束の人物は、すぐさまこの場からの離脱を図る。だが、右胴を狙いつつ飛び込んで来る新見に、再び応戦を余儀なくされた。
新見の一撃を、忍装束の人物は背中に隠し持っていた小刀で受けた。
ギチギチと刃を迫り合いながら、新見は忍装束の人物に鎌をかけた。
「何とか言ったらどうだ?貴様の正体など、とうにお見通しだ」 忍装束の人物が罰点状に交差した刃を素早く滑らせると、双方の刀はバチンと音を立てて弾かれ、共に後方へ大きく跳び退いた。
間合いの外で構え直すまでもなく、新見は思い切り口を歪めて言い放った。
「新選組監察方——」 「!」 忍装束の人物の目に、わずかに動揺が奔った。
「曲者っ!」 その隙を突いて、青年が忍装束の人物に向かって斬りかかった。
青年が右袈裟に振り下ろした瞬間、忍装束の人物は跳躍して彼の頭上を飛び越えた。
そのまま猛然と天狗面の男に突進する忍装束の人物を、青年は視線で追うのがやっとだった。
「先生っ!」 眼前に敵が迫っても、天狗面の男はなお悠然と構えている。
忍装束の人物は、走りながら両手で計八つの千本を投擲した。
天狗面の男は動じるそぶりもなく、素早く鯉口を切ると
「はっ!」 抜き放った刀で全ての千本を弾き落とした。
それと同時に忍装束の人物は天狗面の男を飛び越え、そのままビルの谷間に姿を消した。
「待てっ!」 殺気立った青年が後を追おうとしたが
「深追いはいけません。放って置きなさい」 天狗面の男は何事も無かったように、涼やかな声でなだめた。青年は、『先生』に続いて大人しく刀を納めた。
邪魔者を追い払った所で、新見が嫌味を込めて天狗面の男に言った。
「後ろが甘いな」 「確かに。私とした事が、貴方方に居場所を知られるとは、全く以て不覚でした」 「ふん…。今後は気を付ける事だ。これ以上、芹沢先生を焦らしたりすると『後ろから誰かに』刺されるかもしれんぞ?」 新見の挑戦的な言葉に、青年は頭に血が上った。
「何ぃ!?」 「止しなさい」 今にも新見に斬りかからんとした青年を天狗面の男が諌める。
「…はい」 『先生』の手前、青年は大人しく引き下がった。
「芹沢先生からのお言伝だ。『面白そうな邪魔者が現れた。そいつらを片付けるまで、祭の本番はとっておけ』だそうだ。独断は慎め」 言い終わると新見はさっさとその場を立ち去り、夜の闇に紛れた。
「独断に走ってるのは、向こうでしょうに…!」 新見の言い分に反発を覚えて、青年が毒づく。
「落ち着きなさい」 「しかし…!」 「彼らは彼らの、我らは我らの目的がある。利害が一致する時以外は、気にせず動けば良い」 天狗面の男は、仮面の下で微笑んだ。
宵闇に佇む二つの影を月光が涼やかに照らしていた。