さあ、これで裏事情を聞いて何もかも筋が通ると思った矢先。
「…さぁ、開店の時間だよ。みんな、仕事仕事」
カウンターの後ろの壁にかけられた振り子時計を見上げて、知信が手をパンパンと叩いた。
「は…!?」
「Why?」
「へ…!?って、話しは?風山さん、話しはぁ?」
呆気に取られる栄治と彩、そして食い下がる忠一を知信は軽くあしらった。
「話しは閉店後。ほらほら、急がないとお客様が来てしまうよ」
そう言いながら、知信はカウンターから入口に向かい、シャッターの開閉ボタンをオンにする。
灰色のシャッターがカシャカシャと巻き取られ、ゆるい早春の陽が徐々にのぞいていく。
「ちぇー…。けっきょく、旗すかしかよー…」
「『肩透かし』。…それじゃ、厨房入りまーす」
「ワタシも、in the Kitchen!鳥井サン、お待たせしましター!」
肝心要の情報のお預けを喰らって、栄治たちは渋々仕事に戻った。
(あとで、締め上げてでも絶対に吐かせる!)
と知信を呪いながら。
最初の客がやって来たのは、案の定すぐだった。
それから、一人、また一人と、ティータイムを過ごす主婦や一服しに来た自営業者のおじさんなどが、入れ替わり立ち代り訪れた。
カウンターで接客に追われる知信。その応援をする栄治。
厨房で鳥井さんの調理をアシストする彩。皿洗いと掃除に忙しい忠一。
そしてまた、ドアベルがチリンと身を揺らし、新たな客の来店を告げた。
「いらっしゃいませ」
知信がにこやかに応じる。
さらさらした長い髪をポニーテールに結い上げた、女子大生らしい客だった。黒目がちな瞳に、薄く微笑んだような小さな口元で、控えめな顔立ちだがどこか華がある。
すらりとした細身に纏うのは、シワ一つない白いスタンドカラーシャツと、膝下丈の上品な黒いジャンパースカート。タイツやローファーもモノトーンでまとめている分、実年齢より大人びて見える。
彼女はゆったりとした所作で、窓際の一番奥にある二人掛けの小さなテーブル席に座った。
すかさず、カウンターから出た知信が注ぎ立てのお冷を出す。
「いつもので、よろしいですか?」
一拍置いて、彼女はゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「いえ。今日は…カフェ・オ・レをいただきます」
テレビの漫才で聞く関西弁とは違う、耳に残るなめらかなイントネーションだった。
「かしこまりました。少々お待ちください」
会釈して知信が下がると、彼女は霞色のキャンパス地のトートバックから、数冊の本を取り出して読み始めた。
カウンターに戻ってサイフォンでコーヒーをたて始めた知信に、注文を運び終えた栄治が耳打ちした。
「常連さんですか?」
「あぁ。いつも来てくれるお客様でね。医学部の学生さんらしいよ」
それを裏付けるように、彼女が座るテーブルには『標準外科学』『イヤーノート内科・外科等編』といった専門書が広げられていた。
(ふぅーん…医者の卵、か)
「ほら。わかったら、仕事仕事」
「あ、はい」
仕事中の身だと思い出し、栄治はそそくさと厨房のドアまで足を戻した。
「これは、五番のテーブルにお願いしますね」
「ラジャーッス!」
分厚いドアを隔てて、中からかすかに声が聞こえた。
栄治がなかなか戻って来ないために、鳥井さんが近くに居た忠一に頼んでしまったらしい。
(いけね…!)
栄治は慌てて厨房に飛び込んだ。
案の定、湯気立つオムライスを手にした忠一がつっ立っていた。
「お、栄治…」
「悪い。俺、持ってく」
栄治は、忠一からオムライスの皿をひったくった。
「鳥井さーん、五番ですよねー?」
「そうですー!頼みますよー!」
鳥井さんに確認すると、栄治はホールにきびすを返した。
「お待たせしました」
五番のテーブルで独りパイプを吹かしていた老紳士に、栄治は注文のオムライスを無事届けた。
再び厨房に取って返そうとドアまで戻ると、忠一が顔をのぞかせて待っていた。
「お前ぇ、はやくもどってこいっての。俺が行かされるトコだったじゃねーかよ」
「悪い…」
二人がひそひそ声でやりとりしている時、知信が例の医大生のもとに注文の品を出していた。
「お待たせしました」
「おおきに」
その会話を耳にした忠一が、にわかに野次馬と化した。
彼女は銀のトレーを持った知信に軽く会釈すると、広げていた本をさっとテーブルの隅に寄せた。
空間が開けた彼女の正面に、かぐわしいカフェ・オ・レを湛えたデミタスカップが優雅に置かれた。
彼女の横顔に目が留まった忠一が、ウキウキとした調子でつぶやく。
「おっ!美人発見!ジミめだけど、かしこい系清純派だな、ありゃ」
(たしかに美人、に入るよな…って、いけね!)
訳のわからないランク付けをする忠一に、栄治は思わずつられそうになった。
「常連の医大生さんだってさ」
「っつーコトは現役女子大生!?うっひょー♪」
鼻息荒い忠一に、栄治は大きなため息をついた。
「いいから、仕事しろ。仕事」
栄治のノリの悪さで興醒めしたとばかりに、忠一が口をとがらせた。
「へーへー。神サマ、仏サマ、栄治サマ」
厨房にひっこんだ忠一を追って、栄治もドアをくぐった。
それに続いて、業務用のジュースを取りに知信が入ってきた。
「いやいや、松永君はしっかりしているね」
きっちり接客しながらも、さっきのやりとりはもらさず聞いていたらしい。油断できない地獄耳だ。
「こいつといると、嫌でもしっかりしなきゃなりませんから」
「ちぇー」
「これでは、どちらが年上かわからないね」
「だーかーら…!俺は年上ですって…!」
ほめてるのか、けなしてるのか、微妙な知信の台詞に、栄治はムキになって反撃しようとした。
その時
「ぅをっ…!?」
不意に小さな悲鳴が上がった。
三人の目が声の方向に奪われる。
そこには、塩の瓶を取ろうとした格好のまま固まった鳥井さんがいた。
「こ、ん、な、時、にぃ…!」
そうこうするうちに、鳥井さんがスローモーションで床に崩れた。
「鳥井さん!?」
栄治は真っ先に鳥井さんに駆け寄ると、とっさに右肩と右腕をつかんで上体を支えた。
「あ痛たたたたた…!」
忠一と知信も、突然のハプニングに動揺を隠せない。
「おいおい!だいじょぶっスか!?」
「まさか…!また、ですか…!?」
(『また』…?)
知信には原因に心当たりがあるようだった。
鳥井さんは、痛みから出る生理的な涙をにじませて言った。
「す、すみません…!持病の…ぎっくり腰が…!」
その響きに、思わず忠一は「ぶっ」と吹き出した。
「笑い事かっ!」
栄治に一喝された忠一が首をすくめる。
知信が何か指示しようと口を開きかけた時
「すみませーん。お水くださーい」
ドアの向こうから客の呼びかけがあった。今、フロアはもぬけの殻なのだ。
「マジかよ!?よりによって、んな時にー!」
「風山さん、どうします?」
忠一と栄治に指示を仰がれて、知信は素早く決断を下した。
「…ホールの方は、僕一人で何とかしてみよう。その代わり、鳥井さんの事は頼むね」
「はい!」
栄治が力強く引き受けると、知信は水差しを持って、真っ直ぐフロアに向かった。
厨房には、ぎっくり腰がぶり返した鳥井さんと、新米バイトの栄治と忠一が残された。
「…んで?どーすんだよ、栄治?」
「とりあえず、すぐ横になれるようにしないと…。彩、いるか!?彩!」
「What?」
彩は勝手口の外にいた。栄治に呼ばれた声を聞きつけて、勝手口から中へ戻って来た。
「おま…!どこいってたんだよ?いったい今まで」
「外にゴミを出していましたガ…?」
「そんな事より、彩。鳥井さんが腰痛めたんだ。事務室まで運ぶから、悪いけど肩貸してあげてくれないか?」
「Oh! OK!」
右を栄治が、左を彩が支え、万が一、前に倒れた時のために、忠一が鳥井さんの斜め前を歩いた。
彩の怪力ともいえる腕力のおかげもあって、鳥井さんは軽々と事務室のソファに運び入れられた。
「Are you alright?」
「ど、どうも…すみませ…あ痛っ!」
鳥井さんの痛がりようは、ますますひどくなっていく。
「つーか、どーすんだよ?救急車よんだほうが、いーんじゃねぇのか?」
「い、いいえ!そんな、大袈裟な、事では…いぃっ…!」
「ジューブン、おおげさだと思いますケド…」
「本当に、本当ーに、大丈夫ですから。救急車だけは…ぐぅっ…!」
「って、本人は言ってるけど…だからって、このままってわけには…」
手詰まりとなった三人の言葉が尽きる。
すると、唐突に忠一が何かを思いついたようだった。
「…しゃーねーな。あの人に頼んでみっか」
「『あの人』って…?」
「誰の事ですカ?」
忠一に医者のツテでもあるのか?そんなまさか?と思いつつ、二人はその答えを待った。
ややもして、忠一は自信満々に鼻を鳴らした。
「決まってんじゃん?あの美人女子大生しかいねーだろ!」
聞くんじゃなかった。
突拍子のなさに二の句が告げない彩に代わって、栄治は釘を刺した。
「雪原、無茶言うな。相手は仮にもお客だぞ?引き受けてくれるわけないだろう」
「んなもん、言ってみなきゃわかんねーじゃねーか」
忠一はまったく意にかえすそぶりもなく、フロアに出て行ってしまった。
「あ…おい!待て…!」
止めようと栄治は後を追ったが、時既に遅く、忠一は彼女のテーブルのはたにたどり着いていた。
「あー…ちょっと、いいっスか?」
「へえ?」
「急で悪いんスけど、頼みたい事があるんスよ」
追いついた栄治が、客から忠一を引きはがしにかかる。
(よせ!失礼だろ)
だが、彼女が忠一に返事をする方がわずかに早かった。
「なんでっしゃろ?」
「ウチの店員が、急にぎっくり腰になっちまいまして…。で、起き上がれなくて困ってるんスよ。よかったら、みてもらえないっスか?医大生なんスよね?」
彼女は広げていた本をパタンと閉じると、神妙な顔で静かに返してきた。
「あんたはん、見ず知らずの人にいきなり話しかけて…みんなが親切にしてくれるとでも思うてはります?」
「え゛…?」
忠一はばつが悪そうに目を泳がせた。
栄治からは「ほら見ろ」と言わんばかりの視線が刺さる。
次の瞬間、彼女はにっこりと微笑んで
「えぇ。うちもそう思てますわ」
たった一人の料理人が倒れたとはいえ、客であるはずの医学生を引っ張り込んで治療を頼んでしまった。
忠一は能天気に「これでよし」という顔をしているし。
彩は彩で、良い人が良い事をしてくれたんだから、知信には話せばわかってくれると思っているし。
栄治はといえば、あとで知信に知れたら特上の笑顔で特大の叱責を受けそうで気が気でなかった。
よくよく聞いてみれば、彼女は医学部の学生ではなく履修生だそうだ。
それでも、知信がいない状況で頼りになりそうな人は、医学の知識がある彼女の他にはいなかった。
「まずは、冷たい水を洗面器にくんで来てください」
「あ、はい」
「お湯を沸かして、これも洗面器に」
「OK!」
「それから、清潔なタオルを二枚、お願いします」
「おっしゃぁ!」
彼女の言うとおりに、三人は厨房や倉庫を周旋奔走した。
それぞれが目的の物を用意して事務室へ戻ると
「まずは、楽な姿勢になりましょ。横向きんなって、膝を曲げられますか?」
「え、えぇ…な、何とか…」
患者である鳥井さんに、やさしく、それでいて的確に、彼女は手際よく指導していた。
が、素人の栄治たちは、見ているしかする事がない。
「そないしたら、患部を冷やしましょ。冷たい濡れタオルを」
「はい。…と。どうぞ」
不意討ちに指名され、栄治は忠一からタオルを一枚ひったくると、皮膚が痺れるような冷水にひたし、かたく絞って手渡した。
受け取った彼女は、こっちに背中を見せて横になる鳥井さんの患部にそっとあてがった。
「どうどすか?」
「すみません…。い、痛いです…」
遠慮がちに答える鳥井さんだが、本当の所はもっと痛いはずだ。
『本物の医者』ではない事に、栄治は今更ながら「大丈夫だろうな…?」と不安に思い始めていた。
彼女は、小首をかしげて、難しい顔をした。
「あきまへんかぁ…。ほな、ごめんやっしゃ」
バックからおもむろに取出したのは、見事な西陣織のカバーが付いた四角い金属ケース。
さらにそこから取り出したのは、鈍い銀色に光る一本の針だった。
「え…?」
「へ…?」
「What?」
栄治たちが疑問を発する前に、彼女は有無を言わさず、その針を鳥井さんの右膝の内側面に打ち込んだ。
「わーっ!?」
「な、ななな、なん…なん…!?」
「No! Stop! Stop please!」
鳥井さんの膝から針が生えた事態に、三人は彼女が気でも触れたのかと思って止めに入ろうとした。
が、
「ほう…。これは驚きました」
「風山さん!?」
知信が事務室に現れた。
三人が固まる中、彼女は振り向いてそっと会釈をした。
それから思い出したように、彩が知信に訊ねた。
「フロアの接客は、もうイイのですカ?」
「大丈夫。今日のお客様は、そちらの方で最後だから」
その言葉に、栄治は自分の腕時計を見た。もう閉店時間十分前だった。
知信は余裕ある動作で、鳥井さんの寝ているソファに近づいた。
「鳥井さん、ご気分はいかがです?大丈夫でしたか?」
「えぇ、えぇ…。皆さんが、手を尽くしてくれまして…」
「そうですか。しかし…」
知信に安堵の笑みが浮かんだかと思うと、それはすぐに消えた。
その視線は、鳥井さんの足に刺された一本の針を凝視していた。
「鍼麻酔、ですか」
「よう御存知で」
感心する知信に、彼女はうっすらと微笑んだ。
「風山サン、『はりますい』とハ?」
栄治たちを代表する形で、彩が質問した。
「鍼麻酔は鍼治療の一種。鍼治療とは、専用の鍼で皮膚や筋肉などを刺激して生理状態を変化させ、症状を緩和させる東洋医術だよ」
「それって…ツボに針を刺したり、お灸とかで熱くしたりする、針灸の事ですか?」
「うん。そうだね」
「I see. ですガ、ホントにそのようなコトガ、可能なのですカ?」
「勿論。例えば、この鍼麻酔は薬物を使わずに麻酔をかける方法でね。鍼を刺すことによって脳内のエンドルフィンの分泌を促し、鎮痛作用をもたらす効果があるんだ。意識を失わないし、筋弛緩もない点は麻酔薬にはないメリットだね」
「ワッケわかんねぇ…」
「とにかく、薬と違って眠くなったり手足がしびれたりしない…って事だろう?」
「Great! まさに、東洋の神秘でス!どこで覚えられたんですカ?」
「家業の手伝いで、資格を取らされただけどすえ」
興味津々な彩に聞かれて、彼女は惜しげもなく明かした。
栄治は、当の鳥井さんのそばによって
「鳥井さん、本当に痛くないんですか?」
「えぇ…。いや、全く」
「『陰谷』は、腰痛に効くツボどすさかい。少しは痛みも和らぎますでっしゃろ」
さも当然とばかりに、彼女はいたってさらりと言った。
一塊の脱脂綿で根元を押えて針を抜くと、一点の出血もない傷口にそっと絆創膏を張り付けた。
「あとは、温かい濡れタオルで患部を温めてください。したら、早う病院で診てもろてくださいな」
「いやぁ、本当にお世話になってしまって…。助かりました。皆さん、ありがとうございます」
症状が落ち着いた鳥井さんからの温かな感謝に、思わず全員の頬がほころんだ。
「よかったですね」
「え、いや…。俺たちは、何も…」
「いやー!これにて、一件落着ってか?うはは!」
「でハ、鳥井サン。ホットタオルあてまス。熱かったラ、言ってくださイ?」
「はいはい。お願いします」
「ほな、うちはこれで」
一仕事終えた喜びに沸く輪から、彼女はさり気なく立ち去ろうとした。
気付いた栄治が、そのあとを追おうとした時だった。
「…あっ!」
忠一の唐突な一声に、栄治は呼び止められた。
「どうした?雪原?」
「あー。なーんかどっかで見たコトあんなって思ってたら…アレだ。前にぶっ倒れてたお前を俺と一緒に病院運んだの、あの人だったわ」
「な…っ!何でそんな大事な事、早く言わないんだ!?」
「しゃーねーだろ?うっかり、ド忘れしてたんだからよ」
そんな事もあったなと云うノリで話す忠一とは反対に、栄治は居ても立ってもいられなくなった。
レジカウンターで領収書と代金を置いている彼女に、栄治は急き立てられるように礼を言いに行った。
「あの…ありがとうございました。あっ!あと、本当にすみませんでした。いきなり、無茶な事頼んで。それに…前に俺が道で倒れてた時、雪原と一緒に病院まで運んでくれたって聞きました。ずっと、お礼を言いたかったんです。その事でも、俺、本当に助けられてばかりだったみたいで…!」
捲し立てる栄治とは対照的に、彼女はゆったりとやわらかに答えた。
「学生の手慰みどす。お礼なんて、よろしおす。こん間のことかて…学生はんが道端にあんまんまで、風邪でもひきはったら可哀想やて思ただけどすさかい。気にせんといておくれやす」
「いいえ。副店長として、私からもお客様にはお礼申し上げます」
いつの間にか栄治の横に並んで、知信がいた。
「当店の従業員を二人も助けていただいて、真に感謝いたします」
そう言って、知信は彼女に深々と頭を下げた。
「風山さん…」
彼女は少し困ったような笑みを浮かべたが、すぐに気を取り直して
「680円でよろしゅおますか?」
と、いつもの調子で応じた。
「あぁ、只今」
知信がさっとレジに駆け寄って、彼女から代金を受け取る。
「ちょうど、お預かりします。レシートのお返しです」
「おおきに」
レシートを財布にしまう彼女に、知信は様子をうかがうように呼びかけた。
「いつも当店をご愛顧いただき、ありがとうございます。…よろしければ、お名前をお伺いしても?」
彼女はしばしためらったようだったが、出入り口のドアを開けながらふわりと振り向いてこう言った。
「花咲 望いいます。どうぞよしなに」