勘定を済ませた望がにこやかに去ったあと。
知信が電話で呼んだタクシーに、栄治、彩、忠一に助けられて乗り込んだ鳥井さんは、そのまま近くの病院へと送り届けられた。
そして店じまいをした紫影館のカウンターでは、栄治、忠一、彩が、知信を取り囲んでいた。
「風・山・さーん?わすれてねぇっスよねー?」 「今度という今度こそ、お預けはなしですよ!」 Exactly!(その通りでス!) オール・クリアにしていただきまス!」 「そうだね。それじゃあ…」 知信が、カウンターからゆっくりと出て来る。
「今日は車で送るよ」 それを裏付けるように、上げた右手には車のキー。
三人はまた肩透かしを喰らった。
「「「なんでやねん!?」」」 思わず、三人は関西弁で突っ込みを入れていた。
「ここで話すと、皆の帰りが遅くなってしまう。それは流石に悪いなぁと思ってね。月島さんは東甲良駅、松永君と雪原君は甲良駅で良かったよね?そう云う訳で、話しは帰りながらするよ。さ、行こうか」 満面の笑みで駐車場に向かう知信の背中に向かって、栄治は
(こんな面倒事に巻き込んだ事の方が、よっぽど悪いですよ!) と、心の声で毒づいていた。
知信は剣崎市外からの通いなので、通勤には『趣味』で買ったという中古のレパードJ.フェリーを使っている。 威圧感のない優雅なデザインと、着物の伝統色を思わせる深いカラーリングに一目惚れしたと言っていた。
運転席に知信、助手席に彩、後部座席に栄治と忠一を乗せ、ダークグリーンの車体は夕闇の街を走り出した。 車体はショックらしいショックもなく、道路をすべるように進んで行く。安全運転のお手本のようだ。
ハンドルを握りながら、知信が口を開いた。
「これから言う事は、多少の推測も雑じっているが、全て事実だ。笑わないで聞いてくれるかい?」 「うっす!モチっス!」 「ただでさえ、ありえない状況で…これ以上、何を笑えって言うんですか」 「その通りでス。風山サン、話してくださイ」 三者三様の反応だが、全員が知信の話しを聞く気満々だとわかった。
知信は運転を続けながら、口だけを淡々と動かし始めた。
「まず、結論から言おうか。『回天狗党』を名乗ったあの四人は、かつて新選組で粛清された芹沢一派…芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助の亡霊だ」 「どえぇー!マジっスか!?」 What? Were they ghosts?(えぇっ!?アレが幽霊…!?) 「やっぱりというか、何と言うか…。でもあれが亡霊だとして、一体何しにこの世に現れたんですか?」 「だよなー?」 「Yes. 殺された怨みを晴らそうにモ、近藤派はもうこの世にいませン。祟ろうにも、祟る相手がロストしてまス」 「残念ながら、はっきりした目的は僕もまだつかめていないんだ。ただ、彼らは『憑代(よりしろ)』を使って、この東京で『何か』を起こすつもりらしい。それだけは断言出来る」 「『よりしろ』?」 「僕たちに、あの不可思議な力を与える道具…松永君の『鉢金』、月島さんの『籠手』、僕の『刀』、そして雪原君の『槍』の事さ」 知信に言われて、三人はそれぞれの『憑代』を思わず取り出していた。
「はえっ!?俺のもっスか!?」 「これが…『憑代』…?」 This's relics with spiritual power(霊的な力を宿す遺物)…というコトですネ」 「そう。これらの道具には、前の持ち主の生前の能力が強い念と共に宿っている。生きている人間の波長がそれらと偶然同調した場合、僕たちのようにその能力を借りる…つまり『憑巫(よりまし)』になる事が稀にあるらしいんだ」 「『前の持ち主』って…それ、まさか…!?」 栄治がそこまで言いかけた所で
「「「新選組っ!」」」 栄治、忠一、彩が同時に答える。
知信は、コクリとうなづいた。
「おそらく、この『憑代』に宿っているのは隊士の誰か…それも、相当な強い意志を持っていた隊士だろうね」 (嘘だろ…!?) 栄治は、次の言葉が出て来なかった。
「ハハーン…!どーりで、ダンダラに『変身』するワケだよなぁ」 It's Fantastic!(何て奇妙な…!) 新選組の力を借りた我々ト、新選組に抹殺された回天狗党とのバトルという構図ですネ!」 「そういう事。わかったかな?」 「わかったっス!うおー!すげー!燃えてきたぜぇー!」 「事情は、だいたいわかりました。だけど、風山さん。どこでそんな事を知ったんですか?三ヶ月前、『憑代』を手に入れた時なら、彩にも知る事はできたはずですよね?」 「その通りでス。なぜですカ?風山サン」 「実はね…。その三ヶ月前の時、メッセージをもらったんだ。畳針のような針に結わえ付けられた矢文をね」 「ずいぶんと、クラシカルな届け方ですネ」 「それじゃあ、そこに今話してくれた事が書いてあったんですか?」 「そういう事。もちろん、最初は悪戯としか思えなかったよ。けれど、そこに書いてあった日時と場所を訪ねてみたんだ。勿論、最初は暇潰しの面白半分にね。そうしたら『彼ら』を…回天狗党をこの目で見たんだ」 知信の脳裏には、三ヶ月前に目撃してしまった信じられない光景が甦っていた。
新月の夜。誰もいないはずの旧市街の屋根にいた、羽織袴に髷を結った四人の男の姿を。骨董品だとばかり思っていた刀の柄で、剣士の姿に変身していた自身の姿を。
「んじゃ、その手紙を送ってきたヤツをシメあげりゃいんじゃね?」 「『しめ上げる』って、お前な…」 「ですガ、どこの誰なのかわかっているなラ、とっくニそうしていたハズでハありませんカ?風山サン」 「そうなんだよ。どこの誰だかはわからない。でも、そうやって定期的に回天狗党の情報を僕に送って来るんだ」 「じゃあ、城址公園にタイミングよく風山さんが来てたのも、偶然じゃなかったって事ですか?」 「まぁ、そう言う事だね。あの時も例の矢文で『天守ヘ急ゲ』とあっただけだったけど、駆けつけてみたら君たちが彼らに追われている所だったんだから何ともご親切なものさ」 「Uh... Mysterious messenger(謎めいた伝令)ですネ」 「もしかしたら、その手紙を送った奴が、そもそも俺たちをけしかけたとも考えられるかもな。俺たちを使って、連中を倒すために…とか」 「そーなのかよ?」 「想像だよ。『もしかしたら』って言っただろう」 「んだよ!まぎらわしーじゃねーかよ!」 「ちょっとでも状況を整理しないと、頭がこんがらがりそうなんだよ!」 Oh! Stop it!(まぁまぁ…!) 栄治サンも忠一サンも、Cool off.(落ち着いて) 「いや…。松永君の言う線も悪くないと思う。何かを企む回天狗党を排除したい人がいる。でも、本人にその力がない。なら、毒には毒…亡霊には亡霊と、僕たちをけしかけた可能性も充分にあると思うよ」 知信の真面目な回答に、三人は一気に静かになった。
「つまり、今は回天狗党と戦うしかないというコトですネ?」 「彼らは、紛失した結果、僕たちの手に渡った『憑代』を取り戻したがっている。僕たちは、彼らの企みがはっきりしない以上、『憑代』を渡すわけにはいかない。戦いは避けられないだろうね」 「んじゃ、ハナシは早ぇじゃん!あっちがその気なら、こっちも本気でやらせてもらおうぜ!な、栄治?」 ハイテンションではしゃぐ忠一の隣で、栄治は色々な意味で予想以上に深刻な状況を理解していた。
(冗談じゃない…冗談じゃないぞ!毎日が退屈じゃなかった…と言えば嘘になる。刺激が欲しかったか…と聞かれればノーとは言えない。だけど…こんな命に係わる事態とか…!刺激を通り越して、ただの災難じゃないか…!) 城址公園での対決で、知信は芹沢に宣戦布告してしまった。
今更とりつくろいようがない立場に自分が置かれていた事を自覚し、栄治は正直真っ青になりそうだった。
(何なんだよ!一体全体、何の因果で、こんなワケわかんないトラブルに巻き込まれなきゃなんないんだ!?) 浮かぶ限りの愚痴という愚痴を心の声でわめきまくる。
そして、平山と平間が壊したガラス代を素直に弁償しないであろう事もほぼ確定した。 だいたい、相手は亡霊だ。向こうにその気があろうがなかろうが、死人に弁済義務がないのは明白だった。
(あんなおかしな連中に殺されかけるほど、悪い事した覚えないぞ!) ここで知信が「嫌だなぁ。冗談だよ」とか、忠一と彩が「ドッキリ!ビックリ!」とでも叫んでくれやしないかと期待したかった。 が、車内の無駄にシリアスが空気が、栄治の淡い願望を打ち砕いて止まない。
(風山さんのあの顔は…マジだ…!) 腹をくくるしかないのかと、半ばあきらめた気分で窓に目を向けた時
「…あれ?」 栄治は、外の景色がおかしな事に気付いた。
「風山さん、方向が違うんですけど…?」 「ありゃ?マジだ。ここ、ぜんぜんちがう場所じゃんか」 「風山サン。遠回りしてモ、無いメーターは回りませんヨ?」 「はは…!タクシーじゃないもんな」 彩の冗談を栄治が拾う。
知信は口元は微笑んだまま、ルームミラーを神妙な目でチラリと見た。
尾行(つけ)られているね…」 「えっ?」 「は?」 「What?」 栄治と忠一はそれぞれ左右の窓を、彩はサイドミラーをのぞきこんだ。
と、そこには、寂しい公道にちらつくあの黒衣の影があった。
It's a shadow...!(あの影は…!?) 「あれは『傀儡(くぐつ)』といって、芹沢鴨たちほど念が強くなく、かといって僕たちの『憑代』ほど念が弱くない亡霊さ。実体を保つために生きた人間までは必要としないけど、芹沢鴨たちほどはっきりした個性までは失われている。いわば、人形だね」 (そうか…!だから、あんな…!) 『人形』という説明に、栄治は前に斬り捨てた傀儡の妙な手応えを思い出した。
「どーすんスか!?降りてバトるんスか!」 まくし立てる忠一に、知信はちょっと考える素振りを見せた。
「よし。()こう」 かと思うと、すぐにハンドルを握り直しながら三人に言った。
「月島さん、シートベルトを。松永君と雪原君も、歯を食いしばってシートにつかまって」 言うが早いか。知信は素早くギアを切り替えると、アクセルを思いきり踏み込んだ。
タイヤがアスファルトを摩擦する、けたたましい音が響いた。
「「「うわあぁぁっ!」」」 急激な加速Gに、三人は押し潰されそうな感覚を覚えた。窓越しの景色が、物凄い速さで後ろに飛んで行く。
栄治は前部シートにしがみつきながら、何とか上体を起こした。
「ちょっ…!風山さん!大丈夫なんですか、こんな無茶な運転して!?」 「大丈夫、大丈夫!誰も見ていないから!それに、車なんてものは走らせてなんぼの乗り物だよ!ははははははっ!」 知信は、さも楽しそうに笑っている。彼は完全にハイになっていた。
いつも落ち着いた態度を崩さない知信の意外な一面に、三人はただただ絶句するしかなかった。
「く、黒い…!」 「人格変わってんじゃんか…!」 He's speed demon...!(まさか、スピード狂だったとハ…!) 閑散とした河川敷沿いの道に、さえぎるものは何もない。
硬直する三人を差し置いて、知信はどこで覚えたんだと聞きたくなるような過激なドライビングテクニックに完全に酔っていた。 カーブで急停車しては、車体が腹を見せるほど傾き、左右どちらかの片輪だけで走り出す。 そのたびに、栄治も忠一も彩も、洗濯機でかき回される洗濯物の気分になった。
暴走とも爆走ともとれないカーチェイスの末、車は河川に架かる鉄橋に差し掛かった。
と、遥か前方に四つの影が見えた。
橋の真ん中で待ち構えていたのは
「あいつらだ!」 案の定、芹沢たち回天狗党だった。
知信は舌打ちして、急ブレーキを踏んだ。
「「「わあぁぁっ!?」」」 車は派手にスピンした挙句、やっと停車した。
でたらめなスピードに振り回された三人は、シートにぐったりともたれかかっていた。
「と、止まった…!」 「み、皆サン無事ですカ…?」 「ヒュー…♪スリル満点だぜ…!」 「彼らに強行突破は通じないでしょう。それに…後ろを見てください」 ふり向くと、橋の反対側には十体ほどの傀儡が、非常線よろしく来た道を塞いでいた。
No way!(まさか…!) 追いつかれタ!?」 「いや。おそらく、彼らが最初から橋にも待機させておいたんでしょう。僕のスピードに、追いて来られるはずがない」 さり気なく自分の走りっぷりを誇示する知信に、ツッコむ者はいなかった。
「コナクソ!待ち伏せかよ!」 「どうします?風山さん」 車の外。広々した鉄橋の真ん中には、芹沢たちが抜刀して待ち構えている。
「ふん!えらく珍妙な乗り物だな」 「だな」 「自ら動く車…『自動車』と言うらしい」 「よぅ、どうした?観念して、早いとこ出てきたらどうだ?」 平山、平間、新見、そして芹沢が言った。
やがて四つのドアが開かれ、栄治、忠一、彩、知信が出てきた。 その手には、しっかりと『憑代』をたずさえている。
「やっぱり、こうなるわけか。何のために、ドリフトまでかましたんだか…」 Ghost, Car chase, CHAMBARA...(幽霊,カーチェイス,チャンバラ…) だいぶ、にぎやかになってきましたネ」 「愚痴はあとです。月島さんは、眼帯の男——平山五郎を。松永君は白髪の男、新見錦を。僕は手ぬぐいの男、平間重助に当ります。雪原君は、僕から絶対に離れないように。いいね?」 「ラジャーっス!」 栄治、彩、知信、そして忠一が言った。
またしても、刃を交える場面になってしまった。
栄治は逃げ出したい気分を呑み込むように、大きく息を吸い込んだ。
「行きます!」 「OK!」 「はいっ!」 「っしゃあっ!」 知信の掛け声を合図に、四人は『憑代』をさっとかざした。
青白い光に包まれたのも一瞬。そこには三人の剣士が臨戦態勢をとっていた。
「…って、またまた俺だけノケモノかよ!?っかー!早く俺も戦いてぇってのによぉ…!」 一人だけ変身出来なかった忠一は、手にしていた『憑代』を恨めしくにらんだ。
彩は鯉口を切り、知信と栄治は抜刀した。
それを見た芹沢が不敵に口元を歪める。
「さて、と…。俺は、じっくり見物でもさせてもらおうか。お前ぇら、存分に暴れて来な」 そう言うと、芹沢はどこからか持ってきていた床几にドッカと腰を下ろした。
傀儡はおそらく、勝負に邪魔が入らないためのただの壁だろう。 それでも、数の上でも力の上でも栄治たちの不利は変わらない。 それだけに、最初から向こうの戦力が一人外れてくれるのは正直ありがたかった。
「散っ!」 知信が叫ぶと同時に、栄治たちはそれぞれの敵に当るべく動き出した。
刀身同士が激しく打ち合わされる鋭い音が、そこかしこで一斉に鳴り響く。
栄治と新見、彩と平山、そして知信と平間が、激しく刃を交え始めた。
「雪原君。少し下がっていてくれないかな」 「りょーかいっス!」 知信は忠一を背にして、平間から再び間合いを取ると、正眼に構え直した。
対する平間は、八双の構えから大きく振りかぶって来る。
(雪原君を守る以上、あまり彼からは離れられない。その上、大立ち回りも危険が大きい…。と、なれば…!) 「とぉ!」 「やっ!」 知信は、平間の逆袈裟を正眼から受ける——と見せかけて、一気に膝を沈めると、右手を柄からスルリと離し、左片手下段で平間の足元を薙いだ。
「う…おっ!?」 平間は、とっさに跳び退った。
「手前ぇ!足払いなんか狙うんじゃねぇ!この卑怯者が!」 「おや?敵を前にして『逃げるな』と言ったのは、貴方の方ではありませんでしたか?」 「ぷっ…!ナイス、風山さん!」 知信の切り替えしに、忠一は吹き出し、平間は額に青筋がピシリと立った。
「こぉのぉ…眼鏡野郎がぁ!」 挑発に乗った平間が再び仕掛けてきた。
「やっ!」 知信は、それを再び足払いで退けた。
「ま、また…!くそがぁ…!」 足払いは、実戦では有効な手段だが、通常の剣術では禁じ手とされている。そのため、かなりの上級者でさえ稽古不足である事が多い。 さらに、足払いは避ける事は出来ても有効な返し技がない、意外に厄介な技だ。
忠一を背負った知信は、平間に足払いをしつこく仕掛ける事で、敵を自分と守る者の間合いに近づけない状態を作り上げた。
一方、栄治と対峙した新見は、最初の上段斬り下ろしを逆手水平の刀で受け、間髪入れずに上下左右から次々と連続攻撃を繰り出していた。
栄治は、それらを全て見切ってかわす事は出来ていたが、やり辛くて仕方なかった。
(何だ、この動き…!?まるで、軽業師だ…!) 新見の戦い方は、普通の剣術の動きとはまるで違っていたのだ。
こちらの攻撃によって、刀を左右で持ち変える。腰が浮いている分、一撃一撃は軽いが身のこなしが素早い。
これ以上、なれない相手のペースで戦うのは集中力をすり減らし、余計な疲労をためるだけだ。 ならば攻撃に転じ、こちらのペースで戦いをリードするしかない。
新見が喉元を狙って放った突きを、栄治は左足を中心に半身回ってかわし、新見の後ろをとった。
この瞬間を見逃さず、新見の背中めがけて横薙ぎを放った。
「はっ!」 「む…!」 が、新見もまたその瞬間を見逃さず、地面に倒れこむように伏せて攻撃をかわした。
「何…っ!?」 栄治は、右手で薙いだ刀をすぐさま左手に引き寄せて構え直そうとした。
その間に新見は、地面に突いた左腕の撥条(ばね)で空中に跳ね上がると、一回転して体勢を立て直した。
そこから二人の爪先が地面を蹴ったのは、ほぼ同時だった。
「はっ!」 「むっ…!」 栄治と新見は、小手、突き、面、斬り上げ、袈裟斬り、横薙ぎと、息をつく暇もない速さで、次々と技を繰り出した。
やがて二人は、橋を両傍から三角形状に支えるトラスさえ足場にして、どんどん上へと登っていた。
「はっ!」 「ふっ!」 鉄骨から飛んだ二人は、渾身の一撃をガチリとぶつけ合った。 その衝撃に弾かれて再び宙に投げ出された二人は、着地した斜材を足場にしてさらに上へと飛んだ。 栄治と新見は、とうとう橋の天っ辺にまで登りつめていた。
にらみ合う二人の間を上空からの強い風が吹き抜けていった。 夕暮れの残照が、遠く地平線の縁をほのかな朱色に染めている。
息が切れ始めている栄治に対し、顔色一つ変えない新見はまだ余裕があるように見えた。
(いかん…!早く、決着をつけねば…!) 栄治は刀をいったん鞘に納め、居合いの構えをとった。 この一撃に全ての力を集中させ、一回で勝負をつけるつもりだった。
対する新見は、刀を右手で逆手水平に構えて低い姿勢をとりながら、栄治に斬り込むタイミングをうかがっている。
一方、彩と対峙した平山は、彩の抜き様の一撃を辛うじて退いてかわすと再び間合いを取っていた。
彩は中段に、平山は下段に構え直す。
「うおぉぉっ!」 「ちぃっ…!」 彩が鋭い突きを繰り出すが、平山は遠い間合いを保ったまま物打ちでかわし続けた。
頭一つ以上の身長差がある彩に、平山は威力がある面や袈裟斬りを狙いにくい。
なかなか勝負が付かない膠着状態に、平山は早くもいら立ち始めていた。
「畜生め!」 そう叫んで跳び退った平山は、右中段に構えて、宣言した。
「いい加減、ケリを付けてやるぜ!」 「望むところです!」 英語なまりが消えた発音で、彩は負けじと答えた。
その瞬間、平山はもう動いていた。 構えを崩さず、一気に間合いを詰めて来る。
彩はそれを待ち構え、上段から渾身の一撃を平山の頭上に振り下ろした。
「たぁっ!」 彩の斬り下ろしが、平山の脳天をとらえた——かに見えた刹那。
平山は彩との身長差を逆手に取り、相手の懐に飛び込む形で攻撃をかわしていた。
「っらぁ!」 平山の逆胴が完全に決まった。
「ぐ…!」 胴着の上からとはいえ、さすがに頑強な彩も脇腹に喰らった衝撃にひるんだ。
平山は、その隙を見逃さなかった。
「もらったぁ!」 平山の強烈な突きを彩は辛うじて受け止めた。
が、それが平山の狙いだった。
「なっ…!?」 背中に障害物。ぐらついた足元。彩は、いつの間にか欄干まで追い詰められていた。 それに気付いた時には、彩は手すりから真っ逆さまに落ちていた。
一番高い位置にいた栄治は、真っ先にそれを目撃した。
「彩——!?」 ドボンッ!と重い水音が鳴り、下の河に彩が落下した事を裏付けた。その音で、忠一と知信も事態を察した。
「月島さん!」 「ちょちょちょ…っ!彩、返事!生きてンなら返事しろぉー!」 橋の下から返事は返ってこなかった。それどころか、彩が浮いてきた音すら聞こえてこない。
「へっ!まずは、一丁上がりだ」 平山は余裕げに、抜き身の刀を右肩に担いだ。
栄治、忠一、知信の胸中に嫌な予感がじわりと沸きあがってくる。
このままでは勝てない。全員、返り討ちにされてしまう。
栄治は——いや。『鉢金』の意思は、頭に血が上った憑巫に考えさせた。どうすれば、この状況を変えられるか?と。
刹那の逡巡の末、栄治はある考えに辿り着く。
知信は、忠一を守りながら戦っていて動けない。今、これが出来るのは自分しかいない。
そう思い至った時。栄治の足は、すでに勝手に動いていた。
対峙していた新見を残し、あろう事か、栄治は橋の天っ辺から舗装に飛び降りた。
「おおぉぉっ!」 空中で八双に構えた栄治は、ある一点に向かって突進する。
——芹沢鴨。
さっきから戦いを悠々と見物している、敵の頭を狙ったのだ。
「松永君!?」 「行っけぇ!栄治ーっ!」 栄治の無謀ともいえる出方に、知信も忠一も思わず気をとられた。
「はっ!」 栄治の全力をかけた唐竹割りが、芹沢めがけて振り下ろされた。
刃と刃がぶつかり合う、凄まじい金属音が鳴り響く。
——出方をさとったのも一瞬。動きを見切ったのも一瞬。構えをとったのも、抜刀したのも、刀を振ったのも一瞬。
その一瞬の時間で、芹沢は栄治の一撃を無駄なく受け止めていた。
栄治はもちろん、その場にいた誰一人として芹沢の動きを見切れていなかった。
刀を競り合わせたまま着地した栄治は、疲労と驚愕で額に脂汗がジワリとにじんだ。
(身のこなしが、全く見えなかった…!?あの無防備な体勢から、何という速さだ…!) 「見た所、お前が一番『憑巫』らしいようだな」 芹沢が不敵に笑い、栄治と視線がぶつかり合う。
はっとして意識を刀に戻した栄治だったが、わずかに遅かった。
「だが、甘ぇ!」 芹沢の強烈な一撃で、栄治はいとも簡単に弾き飛ばされた。 両腕に重い衝撃が走り、栄治は思わず顔をしかめた。
「今のお前は、身の丈以上の力に振り回されているだけだ。最も、仮に"その"『憑代』を使いこなせた所で、お前らじゃあ俺らにゃあ勝てねぇがな」 一歩一歩近づいて来る芹沢に、栄治は両腕の痛みを堪えて対応しようとした。
それは全く唐突だった。栄治の左肩に、焼けるような痛みが走った。
知信と忠一は声を失った。
平山と平間も思わず硬直し、新見は冷ややかに見下ろしていた。
芹沢が放った刀が、栄治の左肩を貫いたのだ。
「が…っ!」 一瞬遅れで襲いかかってきた激痛に、栄治は目を見開いたまま歯を食いしばる。
「言ったろ?勝てるわけがねぇって」 芹沢は当然のように言い放つと、獲物に刺さったままの刀を軽く引き寄せ、勢いよく前に突き出した。 ぐちゃりと鈍い音を立てて、芹沢の刀が栄治の肩から抜ける。
「…っ!」 全身を突き抜けるような痛覚の電流に、栄治は悲鳴も上げられなかった。
宙に放り出された身が地面に落ちるまでの時間が、スローモーションのように感じた。 地面に背中が近づくたびに、力が抜けていく。
ドサリという重い音と共に、時間の早さが元に戻った。
背中に固い衝撃。左肩を体から抉り取らんばかりの激痛。 それらが一気に押し寄せた時、栄治は辛うじて保っていた最後の意識を奪われた。
力を失った栄治の右手からすべり落ちた刀が、辺りに虚しい金属音を鳴り響かせた。
栄治が負けた。
芹沢にたった一撃で倒された。
彩の敗北で頭に血が上り、独断で敵の親玉に挑んだ挙句、彼は亡霊と『憑代』の力の両方に敗れたのだ。
「松永君っ!?」 「わーっ!?わーっ!かかか風山さん!今、栄治がズブって…ズブって…!」 「さ…流石は芹沢先生!あのチビガキを一発で仕留められた」 「さぁて…。どうするよ、お前ら?まだやるか?ま、最も…。頼みの綱があの様じゃあ、結果は見えたも同然だろうがな」 気を取り直した平間と平山が、勝ち誇ったようにほくそえんだ。
(力の差はあるとわかってはいたが…まさか、ここまでとは…!やはり、その力は生前のままですか…!芹沢鴨…!) 自分の見通しの甘さと、これ以上ない最悪の状況に知信が内心歯ぎしりする。
芹沢は刀を脇で一振りして鞘に収めた。
「新見。『憑代』を回収しとけ」 「承知」 芹沢に命じられた新見は、トラスの上からヒラリと飛び降りた。
芹沢は悠々と下がっていく。
戦闘不能になった栄治から『鉢金』を取り返し、平山が河に落とした彩からも『籠手』を回収すれば、知信一人ではどうしようもなくなる。
勝った。
回天狗党がそう確信したその時。 唐突に、芹沢は右の二の腕にかすかな違和感を感じた。
「針…だと?」 見れば、芹沢の腕には細い千本がいつの間にか突き刺さっている。 それは平山と平間も同じだった。
「な…んだこりゃ!?」 「う、腕が上がらねぇ!どうなってやがんだ!?」 いつの間に?一体、誰が?
その時、犯人の気配を察知した新見は、いまいましげに川面のある一点をにらみつけた。
(今だっ!) このチャンスを逃さんとばかりに、知信が行動に出た。
「雪原君!こっちです!」 「え?は?ラ、ラジャーっス!」 知信は、栄治の近くに立っている新見に向かって突進し、忠一もその後を追った。
「やっ!」 「…むっ!?」 千本を放った元凶に気をとられていた新見は、わずかに反応が遅れる。
知信は、足払い、斬り上げ、袈裟斬り、突きの連携攻撃で、新見を退ける事に成功した。
知信と忠一は、横たわる栄治を囲むようにして立った。
新見は知信としばしにらみ合ったが、やがて構えを解いた。
「…邪魔が入ったようだ。先生?」 新見が芹沢をうかがうと
「あぁ。とんだ横槍を入れやがった奴がいたらしい…。仕切り直しだ。行くぞ!」 「へ…へいっ!」 「へいっ!」 芹沢の後を平山と平間が追い、最後まで知信を警戒していた新見も、やがて宵の闇に身を翻した。 いつの間にか、橋の両側を塞いでいた傀儡たちも姿を消していた。
残された全員が、張り詰めていた空気が一気にほぐれるのを感じた。
「…だーっ!マジでヤバかったぁ…!」 忠一がホッと息を吐いたのも束の間。
構えを解き、刀を納めた知信が矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「雪原君!君は松永君を看ているように!私は月島さんを探して来ます!」 「り、りょーかいっス!」 知信は反対側の欄干に向かって走り出すと、あっという間に柵を飛び越えて河原に降りて行った。
取り残された忠一は、自分のやる事を思い出すと、後ろで倒れている栄治に駆け寄った。
「おいおいおいっ!栄治!お前、平気かよ!?って…」 慌てていた忠一は、ふと妙な事に気付いた。
「んだ、こりゃ?」 栄治の左肩の傷口から流れていたのは、本来の赤い血ではなく
「黒い…ケムリ?」 どす黒く淀んだ煙のような物体が、栄治の傷口からもれ出ていた。
忠一がそれに触れようと手を伸ばした時
「あかん!」 「あ?」 その声に振り向くと、ずぶ濡れになった忍装束の人物が立っていた。
「ぎぇーっ!カッパ!?魚人!?土左衛門のゾンビ!?」 まったく想定外の人間の登場に、肝を潰した忠一がわめき散らす。
それには構わず、忍装束は栄治の傍に膝を突いた。
「触れたらあかん。只の傷とは違うで」 忠一の直感が、この怪しすぎる人物を「敵じゃない」と告げていた。
だが、目の前で倒れたまま動かない栄治をどうしたらいいのかわからず、忠一はただ慌てていた。
「と、とりあえずよ!『ハチガネ』!とったほうが、いんじゃねーのか?」 「それを外してもうたら、どうなるかわからんで?」 忍装束は、その懐から印籠を取り出した。黒漆塗の梨地には、丸に二枚葉が交差した家紋が蒔絵細工で描かれており、小紫(こむらさき)色の印籠紐には、薄紅色をした姫珊瑚の緒締玉(おじめだま)が光っている。
「今、こん人は『憑代』の助けがあるさかい、この程度で済んどるんや。体力的な負担を軽くしてやるんは、『こいつ』を祓ってしもてからや」 「『こいつ』って…?」 「…『瘴気』」 そう言うと忍装束は印籠の蓋を開け、栄治の傷口の上で逆さにした。
忠一は、忍装束の肩越しにそれを見ている。
どんな中身が出て来るかと思いきや、青白い光の粒がパラパラと黒い傷口に注がれていった。
「なぁ…?そんなんでホントに治んのかよ?」 「奴ら——実体を持った怨霊は、怨みをかためた念を叩き込む事で人間に害を与えるんや。それが『瘴気』。『瘴気』を受けた人間は、無気力になり、精神を病み、やがては怨霊と同じ存在に成り果ててまう」 「マジかよ!?っつーか、それって、刀とかよりもヤバくね!?」 「亡霊から受けた傷は、同じ亡霊の力でしか治せへん。それが『皓氣(こうき)』…この青い光や」 忍装束の言葉を裏付けるかのように、栄治の肩から漏れていた黒い煙はみるみるうちに蒸発して消えていく。
「これで、もうえぇはずや。あとは、嫌な事とか考えたり暗ぁならんようにする事っちゃ。怨念は、人間の負の感情で増幅されるさかい」 そう言って、忍装束は栄治の額から鉢金をそっと外した。
栄治の格好が元の学ランに戻ると、鉢金を彼の胸の上に置いた。
「す…っげー…!マジで、治しちまったよ」 「雪原君ー!」 橋の向こう側から、知信の声がした。
見れば、変身をといた知信と、同じく変身をといたびしょ濡れの彩がその後を追っていた。 知信と一緒に駆け寄ってくるあたり、幸いにして彩に大したダメージはなかったようだ。
河原から上がってきた二人は、忠一の横にいた見知らぬ人物に驚いた。
「君は、一体…?」 Oh! Your "Merfolk"!(あっ!あなたは,あの時の『魚人』…!?) 忍装束に呼びかけた彩を見て、知信は「えっ?」と訝しんだ。
「月島さん…この方を御存知ですか?」 「ハイでス。河から浮上しようとしたワタシをストップさせてくれた人でス。この人がいなかったらラ、ワタシは今頃、カモメの餌か水死体でしタ」 河から上がろうとしていた彩を一旦水中に押し留めて目立たないように脱出させたのは、どうやらこの忍装束らしい。
息を継ごうと不用意に水面へ出れば、待ち伏せしている敵にとって格好の餌食だ。 その危険を避けるため、そしてさらに装備の重さで溺死する事態も防ぐために、忍装束は彩を上からの死角となる橋桁の真下まで誘導。 自身は水中に潜み続けて、回天狗党に反撃する隙を虎視眈々と狙っていたのだった。
「この方が…!」 それを悟った知信が、素顔もわからぬ功労者を見ていると
「あっ!そーだ、そーだ、風山さん!今、こいつが栄治の手当てしてくれたんスよ!」 「えっ…?」 「栄治サン!ケガをしたのですカ!?」 彩は栄治に駆け寄ると、上体を起こしてユサユサと揺さぶった。
やがて
「…ん…?」 栄治が意識を取り戻した。
「おっ?目ぇ覚めたか!」 「栄治サン!大丈夫ですカ!?」 「…雪原…、彩…、風山さん…?…って、あっ!」 何かを思い出したように栄治は飛び起きると、同時に右手で自分の左肩をつかんだ。
「あれ…?俺…確か、あいつに…!」 傷口も痛みも、嘘のように跡形もなく消えていた。
「この人が、治してくれたソウでス」 彩に教えられて視線を追うと、そこには怪しすぎる忍装束に身を包んだ人物が栄治を見下ろしていた。
が、ここまで来て、栄治はもう驚かない。
起き上がったはずみで落ちた鉢金をポケットにしまいながら、栄治は立ち上がった。
「あんたが、治してくれたのか…?」 「『厭病(えやみ)』は無さようやな」 「『えやみ』…?」 「ってか、お前。あのままじゃ精神?ヤラレて、怨霊?みてーになっちまうトコだったんだってよ」 「そう、だったのか…。ありがとうございます」 この見知らぬ人物が、栄治の傷を治した事実を裏付けるやりとりだった。
「さきほどの千本も、貴方が…?」 知信の問いにも、忍装束は彼らを援護した事を肯定してうなづいた。
知信は確証を得た。車の中で三人に話した『定期的に回天狗党の情報を送って来る』者の正体が、目の前にいる忍装束の人物であると。
「そうですか…。助かりました。さっきの援護だけでなく、いつも届けていただいている情報も…。やはり、お礼を言うべきでしょうか」 「あんたらは、回天狗党と戦う。私は、回天狗党を成仏させたい。目的が一致しとるんなら、協力するんが賢いと思うだけや」 「ごもっとも」 そっけないとも思える態度に、知信はただ微笑んだ。
すると用は済んだとばかりに、忍装束は黙って身を翻した。
「…って、おいおいっ!ちょい待てっつーの!」 忠一に呼び止められて、忍装束はトラスの上で立ち止まった。
「お前さ、味方なんだろ?名前、なんつーんだよ?」 忍装束は背を向けたまま、静かに答えた。
「新選組監察方——」 それだけ言うと、忍装束は向こう岸に飛び移り、宵の闇の中に溶けていった。
その後姿をしばらく見送った四人は、やがて家路につくべく立ち上がり始めた。
「くぁー…っと!あー、ハラへったぁ。なんか食いてー」 「少し遅くなってしまいましたケド、帰りましょウ。ワタシ、早く着替えないとカゼひいてしまいまス」 「だな。もちろん、駅までと言わず家まで送ってくれますよね?風山さん」 「そう言われたら断れないね。仰せのままに。お客様。」 四人は談笑しながら、無傷で済んだ知信の車に乗り込んでいく。
河辺をほのかに照らす三日月が、彼らの戦いの本当の始まりを見守っていた。