「Ugh...!」
彩は、毛羽立った古毛布を蹴って跳ね起きた。
そこは、自宅として見知ったワンルームの安アパートだった。
暗がりの中に眼を凝らし、折りたたみ式テーブルに置いておいたたデジタル時計の位置を探す。まだ夜明けまでだいぶ時間があった。
緊張で詰めていた息をゆっくり吐きながら、彩はまた寝床に戻った。
「Shit...! I looked at nasty past in the dream...」
呼吸は少し楽になった。心臓の鼓動はまだ少し早いままだが、じきに収まるだろう。
アメリカを離れてそれなりに経つが、これがホームシックというものなのだろうか。だとしたら、あまりにもきつい。
ともかく、明日に備えて彩は再び眠る事にした。
闇を照らす三日月も沈んだ夜中に、忍装束が街を翔けて行く。
屋根から屋根へ、ビルの屋上から屋上へ、コウモリの如く飛び移る。
街灯とネオンとほんの少しの車のライトは、街の地上部分を明るく見せていた。
が、街の上、まして月明かりもない空を包む暗闇までは透き通せなかった。
やがて忍装束は、高級住宅街に建つ立派な日本家屋にたどり着いた。
門は閉ざされ、住人の誰もが寝静まっている。
忍装束は、門を足場にして母屋の二階にひらりと跳び乗ると、天井裏にするりと入り込んだ。
そして、ある部屋の上に来ると、懐から取り出した文を千本に結びつけ、室内に向かって鋭く投擲した。『矢文』は吸い込まれるように壁へと突き刺さった。
用を済ませた忍装束が、音も無く立ち去った直後。
その部屋の持ち主——知信は、布団にくるまりながら『定期便』が来ていた事を知ると、他の家人に気付かれぬようベッドから静かに起き上がった。
回天狗党との橋上の戦いは、監察方というイレギュラーがあったからこそ乗り切れた薄氷の勝利といえる。
相手の戦力——特に芹沢の力量を低く見積もっていたせいで、栄治には怪我をさせ、彩には敗北を喫しさせてしまった。
それを内心反省していた知信は、今の今まで目が冴えてとても眠れなかったのだ。
(やはり、誰かの運命を預かる立場は向いていないな…)
『矢文』を壁から引き抜き、結ばれていた紙を破かないよう丁寧にほどいていく。
知信は文面に目を走らせながら、明日会った時、栄治たちには改めて謝っておかなければと考えていた。
「申し訳ない。僕の読みが甘かったせいで、皆さんを危険な目に遭わせてしまって…」
「No,No. 風山サンひとりのせいではありまセン。ワタシも力不足でしタ」
「そーそー!いーじゃねぇッスか!あの忍者のおかげで勝ったワケだしー」
春のうららかな陽射しの中。
栄治は、開店前の喫茶店『紫影館』のカウンターで、あるギャップに苦しんでいた。
(違う…。何かが間違ってる…。絶っ対に、こんなシャレた喫茶店で交わされるべき会話じゃない…)
大の大人が雁首そろえて、『変身』だとか『忍者』だとか『傀儡』だとか『憑代』だとか…。
「ここはどこぞの伝奇愛好会か!?」と栄治は心の中で突っ込みつつ、さっきの楽観的な忠一の言い分に異を唱えた。
「よくない!俺なんか、あいつに刺されて死にかけたんだぞ!」
「だからー、あの忍者のおかげで助かったじゃんよ」
(それは結果論だろう!)
忠一の要領を得ない一言が、栄治の癇に障った。
「何のために、人が捨て身の反撃したと思ってるんだよ!」
身を乗り出してカウンターを思い切りバンと叩いた栄治に、忠一は一瞬目を丸くしたが、
「へん!負け惜しみしてやがんのー」
すぐに鼻をならして冷やかした。
「ゆーきーはーらぁ…!」
ブチキレ寸前の殺気を放ち始めた栄治を、とっさに彩が制止する。
「Oh! 二人とも、chill out! 落ち着きまショウ!」
そんな三人をよそに、知信はいつも通りの涼しい顔で話を続けた。
「まぁ、とりあえず『監察方』…だったかな?彼が、今の所は味方だという事は確認出来たけわけだね」
「『今の所』…っスか?」
忠一が知信に聞き返した。
「いつ敵にまわるか、わからないというコトですネ」
「ぁあ?マジかよー?油断も隙もねーったらありゃしねーなぁ」
彩の補足を聞いて、忠一は顔をしかめた。
結局、あの忍装束は名を名乗らなかったが、栄治には去り際の一言にひっかかる言葉があった。
「…ところで、風山さん。あの忍者が言ってた『新選組監察方』って、何なんですか?」
「あぁ。新選組監察方は、副長直属のいわば諜報部門といったところかな。不逞浪士の隠れ家を探ったり、張り込みや尾行をしたり、隊内の法度破りや離反者の取り締まりをしていた部署の事だよ。町人出身で隊士になった山崎烝や、箱館戦争までの記録を書き残した島田魁とかが所属していたね」
期待通りの明快な答えが返ってきた。
栄治は、知らない事は知信に聞くに限ると思った。
「へぇ…。警察の警察…って感じですね」
「監察官や憲兵のようでス」
「へー!なんか、カッケェじゃん!スパイもんみてー!」
ただただ感心する栄治と彩の隣で、忠一は無邪気にはしゃいでいた。
「松永君の傷を治した点からして、おそらく彼も僕たちと同じ『憑巫』の一人だろうね。さらに推測すれば、彼の『憑代』はその監察方だった隊士の物である可能性が高そうだ。実際、本人がそう名乗っていたんだからね」
情報を一気に整理した知信が、そこで一旦話しを区切る。
「…で。その監察方さんから、また新情報」
「え…!?」
「What?」
「マジっスか!?なに、なに?じらさないで、教えてくれっスよー!」
『新情報』という話題で、一斉に知信に注目を集めた三人に、知信は周りを気にするように小声で言った。
「もうあと二人…。芹沢鴨たち以外の亡霊が暗躍しているらしい」
「本当ですカ!?」
「ぁあ?まだ他にも一味がいるんスか!?」
「そういえば、風山さん。あの忍者に情報もらってるって言ってましたけど、一体どうやって受け取ってるんですか?」
「今朝起きたら、部屋の壁に刺さっていたんだ。いやぁ、ありがたいけど壁が痛んで困るんだよね。まぁ、画鋲の穴にしか見え無いのが幸いなんだけど」
「はぁ…」
「で、その新手二人の事だけど。一人は天狗のお面を被った男、もう一人は若い侍らしいんだ。今は極端に情報が少ないけど、注意するに越した事はないからね。もし鉢合わせたら、その時は油断しないように」
知信の新情報は、警告として栄治たちに伝えられた。
そして、紫影館は開店時間を迎えた。
どことも知れぬ闇の中。
天狗面の男は、青年に密かに見張らせていたあの橋での戦いの報告を聞いていた。
「…ほう。あの芹沢派が一旦退いたとは」
「はい。同調したばかりというのに、彼らの力は予想以上のようです。さらに、新たな『憑巫』をもう一人確認しました」
「ふむ…。これは、無視する事の出来ない勢力になる可能性もある。彼らの存在が、吉と出るか…凶と出るか…」
天狗面の男は考え込んだ。
青年の中に、今こそ『先生』の役に立ちたいという思いがわき上がって来る。
「…この目で、直接確かめましょう」
天狗面の男は顔を上げると、面越しに青年をじっと見据えた。
「君の考えている事はわかります。だが、彼らはまだ自らが置かれた立場を充分には理解していない。却って危険というものです」
「しかし、推測でものを語ってはならぬと、私は先生に教わりました。大丈夫です。先生にご迷惑は絶対にかけません!」
自分の教えた言葉をそっくり返され、天狗面の男は反論の余地を失くした。
しかしそれ以上に、青年の頑とした意思表示からその決意の強さを感じ取っていた。
「これは…一本取られた」
青年の懸命さに、天狗面の男は面の下で微笑んだ。
「わかりました。良いでしょう。ただし、すぐに成果を持ち帰ろうなどと無茶をしないように。決して、焦ってはなりません」
その言葉に、ぱっと顔を上げた青年は、進言が通じた事を素直に喜んだ。
「はいっ!ありがとうございます!それでは、行って参ります!」
青年は張り切って身を翻すと、闇に溶け込むように姿を消した。
「お疲れ様でしたー!」
閉店を迎えた紫影館から、知信に見送られて、栄治、忠一、彩が家路についた。
チラチラ光る街灯が連なる道路を三人は駄弁りながら歩いて行く。
「っかー…!づーがーれーだぁー…!」
「今日ハ、いつもよリ忙しかったですネ」
「鳥井さんが、まだ本調子じゃないからな。俺たちでカバーしないと…」
「あーぁ。こないだのカーチェイスとチャンバラが、遠い昔に思えるぜ。あれから、ヤツらまだしかけてこねーなぁ。タイクツー」
「No! 今は困りまス」
「もしまたあいつらに一斉攻撃喰らったら、今の俺たちじゃ勝てないぞ」
「Yes.ワタシたち、パワー不足。不利でス」
「いーじゃねぇか!多勢に無粋!敵が強ぇ方が、がぜん燃えるぜ!」
「『多勢に無勢』」
「あ、そっか!うはは!」
「あのな、雪原…。ゲームじゃないんだぞ。もしまた、俺の時みたく斬られたりしたら『回復の呪文で元通り』なんてわけにはいかないんだからな」
「ピンチになったら、またあの忍者が治してくれるんじゃね?呪文じゃなかったけどよ」
「お前、他人事だと思って…!」
「けどよぉ。セリーの陣地にまだ味方がいたなんて、反則じゃね?こっちゃあ、ただでさえ人数少ねーっつーのによ」
「『セリー』?」
「十二音音列ですカ?」
「ちげーよ。栄治をブッスリやったあのデカザムライ。フルネームが芹沢鴨だろ?略して『セリー』」
「勝手に変なあだ名をつけるな。誰の事かと思ったよ」
「Ha-ha-ha! ですガ、新手の二人がどう出てこようと、ワタシたちは気を引きしめて迎え撃つまででス」
と、その時。
何気なく前を見た栄治は、行く手に建つアパートの屋上に一体の人影を見つけた。
こちらに背を向けて立つ、髷を結い、袴をつけ、刀を大小二本差した人影を。
「二人とも、あれ…!」
栄治はとっさに声を潜めて、忠一と彩の肩を叩いて知らせた。
栄治の指差す方向を見て、二人も気付いたようだった。
知信の言っていた『若い侍』に特徴が合致している事に。
「Oh! That's Samurai!」
「あ?一人じゃん。ヒラヒラ・コンビじゃねぇな」
「何だ、それ?」
「眼帯と手ぬぐいのヤツ。平山と平間ってんだろ?だから『ヒラヒラ・コンビ』」
忠一の安直なネーミングセンスに、栄治は返答のしように心底困った。
「風山さんが言っていタ、例の新手の一人でハないでしょうカ?」
「うはっ!さっそく、お出ましかよ!?」
青年は栄治たちをチラッと一瞥すると、道路に飛び降りて走り出した。
それを見た忠一が考えるより先に、青年を追いかけだした。
「逃がすかよ!」
「忠一サン!Wait!」
つられて、彩も栄治も走り出す。
栄治はあっという間に忠一の横に並んだ。
「雪原、待てよ!こっちから追いかけて、どうする気だ?」
「今のまんまじゃ、勝てねぇんだろ?だったら、敵の頭数を一人でも減らしときゃいーじゃねーか」
「敵のパワーを事前にダウンさせるオペレーションですネ」
あとから追いついた彩が、後ろから声をかけた。
栄治は少し考えるそぶりを見せたが、すぐに答えを出した。
「…何か卑怯な気もするけど、その方が危ない橋を渡らなくてすみそうだ」
「確実に勝てるシチュエーションを作ル。これ、戦術の基本でス」
「よし!」
栄治が制服のポケットから鉢金を取り出す。
続いて彩と忠一も、それぞれバッグから籠手と槍を取り出した。
青年の背を追跡する三つの影を一瞬青白い光が包んだ。
光が晴れると、変身した栄治と彩が刀の柄に手をかけて疾走していた。
そして、忠一はまた一人だけ憑代が無反応だった。
「だーっ!またかよー!?コンチクショー!」
不意に青年が横道にそれた。
栄治の思考に入り込んだ鉢金の意思は、このまま不毛な追いかけっこを続けても埒が明かないと判断した。
「挟み撃ちにする!彩と雪原はこの先の路地から、先回りしてくれ。私はこのまま後を追う」
「おっしゃあ!」
「任せてください!」
栄治は青年に続いて角を曲がり、彩と忠一はそのまま直進し、二手に分かれた。
やがて、T字路に出た青年がはっとして足を止める。
「よ!いらっしゃーい!」
「逃がしません!」
忠一と彩の先回りが間に合ったのだ。
思わず後退る青年の背後を追いついてきた栄治が押さえた。
「よぉ、栄治!バッチリ、おいつめたぜー!」
「よくやってくれた」
振り向いて栄治を一瞥した青年は、自分が挟み撃ちにされた事を確信した。
栄治と彩は鯉口を切り、柄に手をかけた体勢で、じりじりと間合いを詰め始めた。
当然、青年も鯉口を切り、臨戦態勢を取った。
忠一は、彩の後ろで勝ち誇った笑みを浮かべて満足していた。
「お主は何者だ?『回天狗党』の一味か?」
栄治の問いに、青年は口を開きかけたが、一旦つぐんだ。そして、迷いを振り払うように再び口を開いた。
「御陵衛士が一人、藤堂平助」
言うが早いか、青年は素早く抜刀すると、彩に向かって斬りかかった。