「やあーっ!」 「うおっ!?こっちきた!」 迫ってくる藤堂に、忠一は思わず後退った。
「ここは…」 彩は素早く抜刀すると
「通しません!」 逆袈裟からの藤堂の刃を受け止めた。
一撃目を防がれた藤堂は、次に彩の左胴を狙った。
「左…!?」 わずかに反応が遅れた彩だったが、紙一重で左に半歩退いて防いだ。
ニ撃目も弾き返された藤堂は、間合いを取り直す。——と見せかけて、彩から踵を返した。
「おっ…!?」 意表を突かれた彩は、一瞬反応する事が出来なかった。
今度は、反対側で道を塞ぐ栄治に藤堂は向かっていった。
「栄治!そっち行ったぞ!」 「引き受けた!」 忠一に言われる前に、栄治は抜刀して構えていた。 そこへ正眼に構えた藤堂が斬りかかってくる。
「はっ!」 刃こぼれがしそうな渾身の一撃に、栄治は思わず受身に回り、動きが固くなる。 その一瞬の隙を突いた藤堂に、脇を抜けられた。
が、藤堂の行く手に、いつの間にか彩が待ち構えていた。
(よし!上手いぞ、彩!) 藤堂が栄治と対峙したのと同時に、彩は機転を利かせて、藤堂はこの場をすぐに斬り抜けるつもりだと読んだのだ。
が、藤堂は入道のように構えた彩に怯むどころか、さらに加速していく。
「押し通るっ!」 八双に構えて走りこんでくる藤堂に、待ち構えていた彩が上段からの袈裟斬りを一気に振り下ろす。
「うおおぉぉっ!」 やった!
三人の誰もがそう思った刹那。
鉢金が、栄治に思わぬ行動を取らせた。
「彩!斬るな!」 「えっ!?」 突然の制止に、彩の太刀筋がわずかに乱れた。
その隙を藤堂は見逃さず、道の右に飛んで刃をかわすと、そのまま夜の闇の中に走り去って行った。
「待て!」 彩はとっさに追跡を試みようと、走り出そうとした。
「深追いはよせ!罠かもしれん!」 またしても栄治の声に止められた。
少々不審に思いながらも、彩はそれを口に出す事なく、栄治に続いて変身を解いた。
「おーい!」 二人の大立ち回りに釘付けだった忠一が走り寄ってくる。
「あいつは?」 鼻息荒く聞いてきた忠一に対して、彩は黙って首を横に振った。
「だー、くそっ!逃げられちまったぜ…!」 「仕方がありませン。また仕切り直しましょウ」 「あぁ…。そうだな…」 生返事で返した栄治の関心の全ては、右手に握られた鉢金に注がれていた。
(何だったんだ、さっきの感覚…?俺が『斬るな』って言ったんじゃない。言わされたんだ。俺じゃない、誰かに…) 栄治は、その『誰か』が、おそらく鉢金に宿る『(つわもの)』の意思だろうと確信した。 だが、その真意までは思い至る事が出来なかった。
《…ドアがー閉まりまーす。ご注意ーくださーい》 乗客もまばらな東甲良駅に、アナウンスと共に発車ベルが鳴り響く。
「じゃーなー!」 忠一は、電車に乗った栄治と彩をホームのすぐ手前にある改札から見送った。
彩が窓越しに手を振り返そうとした時には、電車はもうスピードに乗り、あっという間にホームから走り去って行った。
一人改札の向こうに残された忠一は、両手をポケットに突っ込むと背中を丸めた。
春の夜はまだ肌寒い。
「…さぁて、と。俺も“帰る”とすっかな」 調子外れの鼻歌交じりに駅から出て来たた忠一は、急に足を止めた。
いつかの人相の悪い三人が、行く手を塞いで待ち構えていたからだ。
「…何の用だよ?」 忠一は嫌悪感に満ちた目で、彼らを睨みつけた。
どことも知れぬ闇の中。
平山と平間がたむろしている。
「畜生め!まだ動けねぇのか…!」 「ちっ!意外とやりやがるな、あいつらめ」 そこに抑揚のない新見の声が割り込んできた。
「傀儡を温存しておいたのが、不幸中の幸いだった」 「…っと!芹沢先生、新見さん!」 平山と平間は、さっと姿勢を正した。
芹沢は、右手で持った鉄扇を左手の掌にパシパシと落として、遊ばせている。
「良かったじゃねぇか、お前ぇら。あそこまで張り合えりゃあ、相手にとって不足はねぇ…だろ?『祭り』の余興にゃあ、丁度良い趣向だな」 「…そう、ですね。そう言われると、こっちとしても燃えてきます」 「きます」 闘志に火が点いた様子の二人を見て、芹沢は満足そうにニヤリと笑った。
「先を越されるんじゃねぇぞ。先生さんの方も、連中にちょっかい出し始めたみぇだしな…」 翌日。
開店時間を迎えた紫影館で、栄治と彩は昨夜の出来事を知信に詳しく話した。
「成程…。だとすれば、彼らは回天狗党の一味というより、共同戦線を張っている、と見るべきかもしれないね」 「完全な味方でハなイ…。でハ、そこに相手をブレイクさせるチャンス、あるかもでス」 カウンターでコップをていねいに拭く知信に、テーブルと椅子を整えながら彩は返した。
そこへ入口ドアのプレートを『営業中』にして来た栄治が店内に戻ってきた。
「それで、あのサムライは『御陵衛士が一人、藤堂平助』って名乗ったんですけど…」 「やはり彼モ、ゴーストなのでしょうカ?」 「おそらくね」 知信はカウンターの内側に置いてあった本を開いた。
「壬生浪士組で近藤派が芹沢派を粛清して、新選組を会津藩から拝命した事は、この前話したよね?」 「あぁ、はい」 「覚えてまス」 「その後、池田屋事件が起った訳だけど…そのさらに後。新選組に伊東甲子太郎という人物が、門下生を伴って入隊して来るんだ」 「何者ですカ?」 「元々は江戸で北辰一刀流系の道場を開いていた道場主で、剣術のみならず学問にも明るい人物だったそうだ」 「へぇー。文武両道ってやつですね」 「そうだね。で、その伊東甲子太郎の寄弟子だったのが、藤堂平助だ。伊東道場から近藤勇の道場『試衛館』に移って、浪士組として上洛。その縁で、近藤派の主要メンバーとして隊の幹部の一人になった彼だけど…池田屋事件の後、新入隊士を募集しに江戸へ使いに行って、その時に前の師匠である伊東甲子太郎をスカウトしたらしいんだ」 「Why? なぜですカ?」 「色々と説はあるけど…多分、藤堂平助は伊東甲子太郎の明晰な頭脳が、近藤勇に、ひいてはこれからの新選組に必要だと考えたんじゃないのかな?池田屋以降、新選組の知名度は急上昇。悪評好評ともに隊の名は轟き、入隊希望者も膨れ上がった。組織が大きくなれば、リーダーはただ強くて人望があるだけでは足りない。補佐役として、文字通りのブレインがいるという訳さ」 「そのブレインにスカウトされたりガ、伊東という人物だったんですネ」 「そう。そして、近藤勇は土方歳三に続く新しい『頭脳』を歓迎した。隊で参謀役を始めとしする重要なポストに就き、優秀な門下生たちの存在も手伝って、彼らは存在感を大きくしていった。ところが、近藤派のご意見番である土方歳三と伊東甲子太郎の間に、徐々に亀裂が生じ始めたんだ」 「えっ?どうして…?」 「主な原因は、隊の運営方針と政治信条の違いだとも言われているね。尊王佐幕の近藤派に対して、伊東派は倒幕もやむなしの勤皇派。そこで、厳しい法度で統率を保とうとする副長と、それは行き過ぎではないかとする穏健派の参謀という構図を作ったのかもしれない。そうした姿勢を取る事で中途入隊でありながらも隊内で支持者を増やし、近藤勇と土方歳三を牽制出来ると云う訳さ。ただ、やはり穏健派だったとも言われてる総長・山南敬介が、隊の現状に反発して脱走未遂を起こした末に切腹させられる事件がその後あったんだ。彼は藤堂平助とも同門だったとも言われているから、この辺りから近藤派に距離を感じ始めたとも考えられるね」 「Oh...! また、粛清ですカ…」 「それで…その藤堂っていう人は、どうなったんですか?」 「まぁ、そんなこんなで近藤派と対立を深めた伊東甲子太郎は、門下生を率いて隊を出る事を宣言したんだ」 「えっ!?ちょっと待ってくださいよ。確か、勝手に抜けたら切腹するってルールがありましたよね?」 「そう。だから、伊東甲子太郎は『脱退』ではなく『分隊』と称したんだ。佐幕から倒幕に傾きつつあった薩摩藩の様子を探って来る為だと説明してね。そうして出来た組織が『御陵衛士』だ。主要メンバーは伊東甲子太郎と彼の門下生。そしてその中には、もとは弟子だった藤堂平助もいたという訳さ」 「なるほド。ルールのホールをうまく突いたのですネ」 「しかし、あの土方歳三が彼らを放って置くはずもない。当然、御陵衛士側も警戒ていした。結果的には、近藤派に先手を打たれたけどね。まず、伊東甲子太郎を単身近藤勇との会見に呼び出し、酒を勧めて千鳥足で帰ろうとした所を大勢で待ち伏せて殺害。その遺体を七条油小路という通りに放置して、残りの衛士たちが師の亡骸を引き取りに来た所を、やはり大勢で待ち伏せたんだ。駆けつけた衛士七人のうち、三人が斬り殺された。その犠牲者の一人が藤堂平助だったんだ」 It's crazy...(むごいですネ…) 「でも、皮肉ですね。つまりそれって、前の仲間に殺されたって事なんですから」 「その通りでス。悲劇的な巡り合わせでス」 「まぁ、そういう訳だから…藤堂平助も芹沢一派と同じく、近藤派に殺された怨みがある。亡霊となっている可能性は充分あるだろうね。ちなみに、待ち伏せ部隊の一員だった永倉新八が、近藤勇の密命で藤堂平助だけは助けようとしたっていう話しもあるけど、真偽は定かじゃないからね」 「Thank you! 風山サン。とてもとても、よくわかりましタ」 「いえいえ」 「それにしても…雪原の奴、遅いな。遅刻か?」 栄治はきょろきょろと店内を見回した。
「あぁ。彼なら今日は休むそうだよ」 知信の答えに、栄治と彩は珍しい事もあるものだと目を丸くした。
「休み?あの健康優良児で、うるさいくらいの元気だけが取り柄の雪原が?」 「栄治サン…。それハ、言いすぎでス…」 「あっ!あいつ、まさかサボリとか…?」 「風山サン。忠一サンの欠勤、なぜですカ?」 「うーん…本人が言うには、腹痛だという事なんだけどねぇ…」 「Stomach ache...腹痛、ですカ?」 「どうせ、あいつのことだから、食べすぎで腹でも壊してるんですよ」 ズバリと断言した栄治に、彩が苦笑いする横で
「ははは。そうかもしれないね」 知信はいつもの笑顔であっさりと肯定した。
Such...They are cold.(そんな冷淡な…) 彩は内心、仲間なのに冷たいんじゃないかと感じていた。
と、ドアベルがチリンと涼やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ」 いつもより早く、教科書をつめたトートバッグを抱えた望がはんなりとした空気をまとってやって来た。
「彩、交代の時間。厨房入ってくれないか」 「OK!」 客足が落ち着いた時間帯に差し掛かり、事務室で交代に休憩していた彩を栄治が呼びに来た。
彩はソファからその巨体を持ち上げると、エプロンを正して歩き出した。
「鳥井サンはフルタイム。ワタシたちだけ、ブレイクタイム。何だか、悪いみたいでス」 「確かに。調理師は鳥井さん一人で、替えがきかないからな」 「Yes. 『紫影館』のオンリーワン・ジョブでス」 事務室に入ろうとする栄治と、厨房に出ようとする彩。そのすれ違い様、彩が一枚の紙を落とした事に栄治は気付いた。
「彩、落ちたぞ?」 「Huh? ...Oh! これはどうモ」 彩は栄治の指摘に振り向くと、今しがた落としたそれを大事そうに拾い上げた。 栄治は好奇心から思わず、彩の手元を覗き込んでいた。
それは、一枚の写真だった。
明るい空と海の狭間にそびえる摩天楼を背に、初老の男女と青年の三人が笑顔で写っている。
「これ…彩、だよな?家族?」 栄治は、真ん中に立つ若者を指差して聞いた。
「Yes. マイ・ファミリーでス。ライトがファーザー、レフトがマザー」 写真の中で両親の肩を抱く彩は、今よりもあどけなく見えた。
「へぇー。彩の両親か。言われてみれば、何か似てるな。やっぱり、ときどき電話したりしてるのか?」 そこまで言って、栄治は彩がいつもの快活な調子で「Yes!」と返してこない事に気付いた。
写真から彩に目を移すと、彼は写真に目を落としたまま、ポツリとつぶやいた。
「実ハ…ワタシ、エスケープして来たんでス」 「えっ?」 「シカゴにいるのがへヴィで…それで、日本に逃げ出して来たでス」 「それって、どういう…?」 「今は仕事中です。お引取り下さい」 フロアから聞こえてきた知信の刺々しい声に、栄治の質問は遮られた。
「Huh?」 「風山さん…?」 あの思慮深い知信が、あからさまに不機嫌な物言いをするなど只事ではない。
二人は事務室の半開きのドアの陰から、フロアの様子をうかがった。
カウンターには知信。その向かいにはスーツ姿の男。彼と知信が、何やら押し問答をしているようだった。
「役員一同、全力でお支えすると申しております。ですから、どうか…」 「何度も言いますが…お引き受けする事は出来ません」 「知信さん…」 「父に申しつけられている貴方の立場もわかりますが、私には荷が重すぎます」 「しかし…」 「もういいでしょう!父には、私から話しておきます。申し訳ありませんが、もうここには来ないでいただきたい」 「…わかりました。では、失礼致します」 男はため息をついて店から出て行くと、外に駐めてあった黒塗りの社用車で走り去っていった。
店として醜態を演じてしまった知信は、はっとしてものすごい勢いで店内を見回した。 幸運にも、今いるお客は望だけだった。 彼女は、何事もなかったかのようにコーヒーをすすっている。
一部始終を目撃されたのが勝手知ったる常連だけだった事に、知信はひとまず胸を撫で下ろした。
出るに出られなかった栄治と彩が、ドアの陰からそろりと出て来た。
「風山サン…」 彩のかけた声に振り向いた知信は、ばつが悪そうに愛想笑いをしていた。
「見られていまいましたか…」 「な…何だったんですか、今の…?」 ただならぬ空気が通り過ぎていった事を察した栄治は、呆気に取られながらもたずねた。
知信はしばし考えるそぶりを見せたが、すぐ二人に向き直った。
「…『風月流』って知ってるかな?」 「何ですか、それ?」 「ワタシ、知ってまス。日本でもベストファイヴにランクインする、フラワーアレンジメントのグループ…華道の流派ですネ?」 「そう。…実を言うとね。僕の母は、そこの師範の一人なんだ」 「『しはん』?」 「家元…つまり流派の継承者の代わりにお弟子さんを教えたり、家元の補佐をする役職の事さ」 「へぇ…」 聞きなれない単語の羅列に、栄治は自分の無知さがちょっぴり歯がゆくなった。
「父も弟子の一人で、母とはそこで知り合ったんだ。今は、家業の生花流通事業に専念しているんだけど…」 「もしかしテ、それハ『Mont-de-Vent(モン・ド・ヴァン)』でハ…?」 「…参りましたね。そこまでわかってしまうとは、月島さんの日本通も恐ろしい」 「彩、知ってるのか?」 「ハイ。フラワーショップだけでハなく、イベント企画から商業施設のデザインまで手がける業界トップのカンパニー。この『紫影館』もグループ系列のオーガニックカフェだと聞きまシタ」 「同族経営で上場もしていないし、業界の規模や将来性も、正直大した事はないと思うんだけどね」 話しがかみ合っている彩と知信を見て、やっぱりこの二人は大人なのだと…そして、自分はまだまだ子供なのだと栄治は感じた。
「父も、もう年だからね。元々あまり丈夫な方じゃないし、本当ならそろそろ引退したいと思うんだ。それで…僕に社長になるように、さっきの秘書さんを使いに出しては何かと説き伏せに来るんだよ」 Really?(えぇっ!?) 「か、風山さんが…社長ぉ!?」 突拍子もない展開に、栄治も彩も心底驚いた。
街角の小さな喫茶店で働く本好きの青年が、実はとある企業の次期社長候補だったとは思いつきもしなかった。
「僕に社長は——大勢の人生を預かる立場は向いてない…。昔から何度もそう断ってるのに、父はまだ諦めなくてね。大学を卒業した時も、僕を自分の会社に就職させたかったようだけど…『社長の息子』『親の七光り』…そういう目で見られるのが堪らなく嫌でね。それで実家を飛び出したはいいけれど、結局すぐに出戻り。恥を忍んで、今はここで働かせてもらっているという訳さ」 知信は自嘲気味に語った。
手際の良い仕事ぶりで優秀な知信の顔しか知らない栄治と彩には、信じがたい話だった。
「僕ももう二十四だ。これ以上、両親に心配はかけたくない。まぁ…この歳で、まだモラトリアムしている僕が言えた義理じゃないけどね。大人しく会社を継いだ所で、潰してしまうか、お飾りに成り下がるかしかないし…。かと言って、こうして未だに自立出来ていない…。八方塞がりのままだ…」 栄治も彩も口を挟めなかった。
話し終わった知信は我に返ると、取り繕うようにいつもの笑顔を作りなおした。
「…あぁ。情けない話しをしてしまって悪かったね。さ、仕事に戻ろうか」 「あ、はい…」 「Yes...」 それ以上は何も言えぬまま、それぞれは持ち場に戻った。
今の今まで、本を開いたまま聞かぬふりをしていた望の気づかいに気付く人間はいなかった。
閉店後の帰り道。 栄治と彩は、街灯が連なる駅への道を歩いていた。 栄治は、旧市街を通る道をすっかり使わなくなっていた。
「風山さんに、あんな家庭の事情があってなんて…何か、意外だな」 あれから何事もなく働き、知信とも何事もなく別れたが、栄治は何事もなかったように済ます事が出来なかった。
「人には誰にでモ、ファミリー・リーズンスがありまス」 彩は栄治と目を合わせずに、しみじみとつぶやいた。
それを見て、栄治の脳裏に昼間の事が浮かび上がった。
『…ワタシ、エスケープして来たんでス』 『…シカゴにいるのがへヴィで…』 家族の写真を手にそう言っていた彩の顔は、今の表情とそっくりに思えた。
「彩にも、あるのか…?そいういう…事情が…?」 栄治は、探り探り注意深く問いかけた。
彩は遠くを見たまま、黙っていた。
(う…。からぶり、か…?) 栄治は、あきらめた。
あまりしつこく食い下がって、彩に嫌な思いをさせる事もない。第一、自分が彩の事情を聞いた所で、何も出来ないだろう。
風山さんの事にしても、そうだ。あれは風山さんの悩みであって、自分がお節介を焼いていい問題じゃない。
忘れよう。
また店で会った時は、風山さんにも彩にも、いつもどおりに接しよう。
そう考えて、栄治は口をつぐんだ。
やがて駅に着くと、二人は黙ったまま改札を抜けた。ホームで電車を待つ事、数分…。
彩がぼそぼそと口を開いた。
「…あのフォトグラフィーを撮った一週間後、父は突然ダウンしましタ。脳出血でしタ。すぐホスピタルに運ばれテ、命は助かりましたガ、そのせいでホームはバンク・ラプシー…破産しましタ」 「破産って…!?入院しただけで…!?」 「アメリカでハ、運悪く重い病気になれバ、ミドル・クラスのホームでも破産するケースがあるのでス。保険が効かズ、莫大な医療費と介護費ガ払えなくなるからでス」 「そんな、事が…!」 「ワタシもすぐホームにリターンしましタ。でモ、父は意識不明のまま…たぶん、今もでショウ…。ワタシは、カレッジを卒業したばかリ。とてモ、二人を養える経済力はありませんでしタ…」 「それじゃあ…?」 「母ハ、父のブラザーのホームにお世話になる事が出来ましタ。ワタシも出来るだけ母の所に通っテ、一緒に父を見舞いましタ。でモ…そんな両親を見るのモ、二人を支えられるくらいのワークが見つからないのモ、ヘヴィになって…それデ、母を残してエスケープして来たんでス。そばにいる事がヘヴィで、出来るだケ遠くに行きたくテ…ここまで、来てしまったんでス」 彩の顔は、自嘲と後悔と心配に満ちていた。
『ワタシ、日本大好キ!特にサムライ大好キなんでス!それを生で体感してみたくて…』 『…恥ずかしながら、他に何も考えてませんでしタ』 お気楽そうに笑ってそう言っていた彩にこんな事情があったとは、栄治は想像もしていなかった。
むしろ、お気楽だったのは自分の方じゃないかと感じた。 両親ともに健在で、中堅企業の正社員とパートの家庭だからこそ、余計なプレッシャーもなかった。
彩は、両親の辛そうな姿と、それを救う力がなかった自分の無力感に耐えかねて、とてもその場にいられなかったんじゃないだろうか? 『何も考えなかった』んじゃなく、他に『何も考えられなかった』んじゃないか?
そこまで思いを巡らせた所で、彩が拒絶をするような重い空気をまとっている事に気付いた。
栄治は彩の意を汲んで、これ以上深くは追求するまいと決めた。
「…そうか。大人は、大変だな。いろいろあって…」 《間もなくー、一番線に快速…が参ります。…黄色い線の内側までー下がってお待ちください》 ノイズ混じりのアナウンスと共に、線路の先を包む暗がりから電車のライトが鋭く光った。
彩の脳裏に、ついこの間の見たくも無かった夢がふと蘇った。
暗闇に、白い光がにじんだ。
それはおぼろげながらも像を結び、いつか見た光景を淡く形作っていく。
無機質に漂白された部屋には、全身を無数のチューブに繋がれた金髪に赤ら顔の男が一人、ベッドに横たわっている。
その脇には、ウェーブした黒髪に浅黒い肌の女性がパイプ椅子に腰掛け、泣き腫らした顔で男を心配そうに見つめている。
彩は、その二人を知っていた。
「Mom...(母さん…)」 ぼんやりと夢見心地な彩に代わって呼びかけたのは、もう一人の彩——。
そう。病室に入って来たのは、他ならぬ数年前の彩自身だった。
足場のない浮遊感の中、彩は二人に姿を認められる事なく漂っていた。
眠り続ける父の前でうなだれる母に、昔の彩は意を決して話しの口火を切った。
「Let's abandon cure. Surely, dad does not recover health.(もういいよ。きっと…父さんは治らない)」 「No...No, No...!(嫌…。そんなの嫌よ…!)」 うつむいたまま、かぶりを振る母の頬から幾粒もの涙が飛び散った。
「Why? We basically tolerated dad as best as we can! Already enough!(どうして!?僕たちは、精一杯父さんの事に耐えてきた!もう充分じゃないか!)」 「Silas... I've got nothing but that married and you.(サイラス…。母さんにはね、この人とあなたしかいないのよ…)」 感情に震える手で、母は眠り続ける夫の手をいとおしげになぜる。
財力も学もない母にとって、その出自を蔑まなかった父だけが唯一の拠り所だった。たとえそれが、若気の至りで選び取ってしまった相手であっても。
「But...! Dad often used violence on you, for reason of bad condition of work.(でも…!父さんは何かにつけて、母さんに手をあげてたじゃないか。いくら仕事が上手くいってなかったからって…!)」 長年連れ添った相手の変わり果てた姿に母が悲しんでないとは、さすがに彩も思ってはいない。
しかし、心のどこかではほっとしているのでないか?これで、母は父から解放されたのではないか?そうも考えていた。
気紛れに母に苛立ちをぶつけながら、日に日に体格で(まさ)っていく我が子からは逃げ回る父の卑屈な姿を、彩は心底情けないと感じていた。
少なくとも彩自身は、突然の出来事への戸惑いと、血を分け同じ時を分かち合った父が死へ転がり落ちていく悼みの中に、(くら)い本音が入り混じっている事を自覚していた。
「But me no buts!(『でも』も『何』もないわ!)」 彩の意に反して、母は息子の意見を拒絶するように叫んだ。
「True he has shortcomings, but I love him for all that! I care for married even alone!(確かに欠点も多い人だけど、それでも私は彼を愛してるの!私一人でだって、この人の世話をするわ!)」 彼女には、もはや自力で息も出来ない夫の事しか見えていなかった。
「How? We lost total property. There is no money, no home, no work, no allowance. Can't be done.(どうやって?僕たちは、全財産を失ったんだよ?お金もない、住む家もない、仕事もない、手当ても出ない…。出来っこないよ)」 彩にとっては、既に死に体の父よりも、生きている母の今後の方が大事だった。
家族を養うはずだったなけなしの財産は、既に無い。
父が担ぎこまれた時、病院側に書かされた同意書に治療費として持っていかれていた。
一刻を争う手術を前にして完全に冷静さを欠いていた母は、彩が止めるのも聞かず、夫の命を繋ぎ止めようとサインをしてしまったのだ。
結果は、処置の遅れによる植物状態という最悪のものとなった。
しかし、仮に元の健康を取り戻せたとしても、ヘフナー家に苦しい生活が襲いかかる事は明白だった。
受けた手術の費用を支払わなければならない以上、破産というシナリオは避けられない。
同じ苦しさを乗り切るなら、三人より二人の方が養いやすい。神の采配というものがあるとしたら、そう突きつけられているかのように彩は感じていた。
だからこそ、母と自分が今後どうやって生きていくのか、それをこそ一緒に考えて欲しいというのが彩の願いだった。
そんな彩の思いに気付く事もなく、母は玩具を取り上げられた子供のように泣き叫んだ。
「Don't want to forsake married!(この人を見捨てるなんて出来ない!)」 まるで聞き入れる様子のない母に、彩の心はとうとう折れた。出来る事なら母を傷付けたくはない。そうしたいと戒めていた心が…。
このあと、どうなるのかを宙に漂う彩は知っていた。
『Stop...!(やめるんだ…!)』 近頃使わずにいた母国の言葉が、自然と漏れ出ていた。
しかし、昔の彩と母には届かない。
「I owe mom an apology... It's impossible...(ごめん、母さん…。やっぱり、無理だ…)」 昔の自分が、あきらめきった目で母をぼんやりと見すえる。
『Stop! Don't say that!(やめろ!言っちゃ駄目だ!)』 聞きたくない。この先は聞きたくない。
後悔の余り忘れたふりをしていた出来事が、目の前で容赦なく掘り起こされていく。
「I cannot accept dad.(僕には、父さんを受け入れられない)」 自分でも驚くほど、冷めた言葉と声だった。
そしてそれは、母にとっても初めて感じた異様さだった。
いつもやさしく人を気づかう息子しか知らない彼女は、にわかに戦慄を覚えて振り向いた。
「Silas, You is a cold. I'm very sad.(あなたが、そんなに冷たい子だったなんて…)」 今にも血の涙を流しそうな荒みきった眼で、母は息子を睨んだ。
しかし、すぐに何の感情も映さない彩の双眸の前に母は怯んだ。
「I hate dad.(僕は、父さんを憎んでる…)」 言葉とは裏腹に、彩はどこまでも淡々としている。津波の前兆に潮が引いた海のように、恐ろしげな静かさだった。
何も言い返せずにいる母に、昔の彩は 「Yes, You are right. I hate dad.(ああ、そうだよ…。憎んでいるんだ…)」 そう呟くと、一度も振り返る事なく病室を出て行った。
この瞬間、息子は母を見捨て、母もまた息子を見捨てた。
そのまま、彩は誰にも告げずに遠い異国へ逃げるように旅立っていった。
——気が付くと、彩はまた暗闇に浮かんでいた。
しかし、最初の闇とは違う。少し離れた場所には、さっきまで観ていた昔の自分が立っていたのだ。
昔の彩が、今の彩に言い放つ。心に思っただけなのか、声に出していたのかはわからない。
「But, it's aware. fool was me.(だけど…わかってる。馬鹿なのは、僕だって事くらい…)」