涼やかな夜風が吹き抜ける城址公園。
鬱蒼と茂った林の青葉が、さわさわと静かにささやき合う。
木立の間に、小さな内堀に囲まれた天守閣がライトアップされて堂々と立っている。
その天守閣の最上階の(やぐら)の窓に、夜にはいるはずのない人影があった。
一人は、夜風に当る天狗面の男。
「…して、どうだったかな?藤堂君」 もう一人は、一歩下がって屋内に立つ藤堂だった。
「はい。わずかな手合わせでしたが、彼らは間違いなく『憑巫』でしょう。先の橋上の戦いで、芹沢一派と渡り合っただけの事はあるようです」 「成程」 天狗面の男が優雅な動作で振り返る。
「ご苦労だった。そんな彼らを三人も相手に、よく無傷で戻って来てくれたね。藤堂君」 「先生…」 藤堂は、師のねぎらいの言葉に心の内で嬉々とした。
が、今さっきの言葉に引っかかるものを見つけて訂正する。
「二人…です」 「ん?」 「ですから、私が交戦したのは『三人』ではなく『二人』です」 指摘された天狗面の男は窓枠にかけていた手を離し、藤堂にくるりと向き直った。
「何…?確か、『憑代』を手にした者は五人。内、三人に仕掛けたのではなかったのですか?」 「はい。しかし、『憑巫』となっていたのはその三人の内二人でした」 「『憑代』を手にしたにもかかわらず、未だ『憑巫』にならない者が一人いる…と?」 「はい。そういう事に…」 「ふむ…」 天狗面の男は、面の下で「解せない」と難しい顔をしていた。
考え込む師を見て、考えの足しになればと藤堂がおずおずと話しかけた。
「あの者だけは、『憑代』の『憑巫』ではなかった…という事でしょうか?」 「『憑代』がすぐに『憑巫』を選ぶとは限らない。その者が『憑巫』であるか否かはいずれわかる事。今しばらく、様子を見ましょう」 「はぁ…それは…」 せっかち過ぎた意見をやんわりと退けられ、藤堂は自分の性急さを恥じた。
それを見た天狗面の男が、近くに鎮座するガラスケースの一つにつと歩み寄った。
「見たまえ、藤堂君。これは『文久二年の槍』だそうだ」 「はい。…私が上洛する前の年です」 「こちらは『慶応元年の旗』とある。私が門下を率いて上洛した年だ」 「はい…」 復元されたこの天守閣は、剣崎の郷土資料館も兼ねている。 室内には、ケースに納められた地元所縁の品々が、折り目正しく納められていた。
古いものは縄文時代から、新しいものは昭和三十年代まで。
それらをぐるりと見回して、天狗面の男はしみじみとした口調で、語りかけた。
「我々が…こうして先人として飾られる存在になる程、ここは遠い時代なのだね…」 「はい…。本当に…」 学校を終え、栄治はいつも通りに『紫影館』へ向かう道中、少しばかり複雑な心持ちだった。
昨日は、色んな事が一度にあった。
知信と彩の家庭の事情。
行って顔をあわせれば、本人たちはお決まりのように「気にするな」と言うだろう。 しかし、自分は一体どんな顔して接すればいいのか。
いつも通りでいいじゃないかと決めたつもりでも、栄治の本心はどこか煮えきらない。
腫れ物に触るようにしないでくれと言われても、実際腫れ物なんだから、こっちはどうしろって言うんだ。

そうこう考えていたうちに、そこは既に目的地だった。
いつ見ても、和洋折衷のモダンな造りには店長のセンスが感じられる。栄治は店長にまだ会ったことがない。知信から、彼の叔母とだけ聞いていた。
ゴミ置き場も兼ねた路地に折れ、従業員用の勝手口から厨房に入った。 今日ここで作られたであろう料理の匂いが混ざり合い、ふわりと鼻腔をついた。
「鳥井さん。おはようございます」 ガスコンロに汗だくになって向かっていた鳥井さんは、面倒くさがらずに振り向くと愛想良く返してくれた。
「あぁ。おはようございます。松永君」 栄治は、そのまま分厚いスチール製のドアに向かい、事務室を目指した。 だが、その前にフロアを通らなければならない。
ドアの向こうには、知信が来ているはずだ。 いつも通りに人の良さそうな笑みを浮かべて、カウンターでコーヒーを点てているはずだ。
ノブに手をかけたまま固まっていた自分に気付いた栄治は、迷いを振り払うようにかぶりを振った。
(…えーい!ここまで来てウジウジするな、俺!行くぞ!) 開いたドアは、いつもより妙に重く感じた。
フロアの客足は、既に落ち着いていた。 座っているのは、窓際のテーブルを指定席にしている望だけだった。
「おはよう…ござい、ます…」 「やぁ、おはよう。松永君」 探り探り挨拶した栄治のぎこちなさを気にも留めないふうに知信は応じた。
「昨日は本当に悪かったね。あんな所を見せてしまって…」 「あ、いや!別に、そんな…」 澄ましたポーカーフェイスの下で、知信もやっぱり気にしていたのだ。
「でも、約束するよ。松永君や月島さんに、迷惑はかけない。あれは僕と僕の家の問題だ。いつか、僕自身で解決しないといけない事なんだ。だから…」 (『だから…』?) 栄治は次の言葉を待った。
「だから、もう気を遣わないでいいよ。『忘れて』とは言わない。『気にしないで』とも言わない。いつも通りにしてくれてていいから。…いや。そうしてくれると、ありがたいかな。僕としては」 「…わかりました」 知信の表情に(かげ)りがなさそうだと見た栄治は、ほっとして快諾した。
と、そこで後ろから唐突に肩をポンと叩かれ、栄治は肝を潰した。
「ぅわっ!?」 「オハヨーゴザイマス!栄治サン」 「何だ、彩か…!おはよう」 「おはようございます、月島さん。昨日はどうも…飛んだ所をお見せして…」 No problem!(そんなコトありませン) 人生にアクシデントはつきものでス。Don't mind!(気にしないでくださイ) 風山サン」 彩はいつもの快活な笑顔で、知信の謝罪を遮った。 わかっているから、これ以上は何も言わなくていい…と。
そんな彩の気づかいを察したのか、知信もいつものようにニッコリと微笑んだ。
「そう言ってくれると、助かります」 「ドゥイタシマシテ!」 知信とのやり取りを終えて事務室に引っ込んだ栄治と彩は、荷物を置くと制服の黒いエプロンに召し変えた。
「…よかった」 「どうしましタ?」 ふと漏らしていた栄治の一言を、彩は聞き逃さなかった。
「風山さんだよ。昨日のゴタゴタ、もしまだ気にしてたら、どう話しかけていいのか困る所だったからさ」 「…そうですネ」 「風山さんの事だから、得意のポーカーフェイスで本心をごまかすんじゃないかとも思ったけど…あれなら、俺たちが口挟む必要もなさそうだったな。ほっとしたよ」 「me too...」 「えっ?」 ふと漏らしていた彩の一言を、栄治も聞き逃さなかった。
「ワタシも、でス。ワタシも、リリーフされましタ」 「彩…?」 「昨日、ワタシのホームの話しをしましたよネ?…とても不思議でしタ。今まデ、誰にも話せなかったのでス。風山サンは、ワタシにリーズンスがありそうなコト、わかった上で聞かないでくれましタ。ですガ、誰にも話したくないコト、それは誰かに…信頼できる誰かに、聞いてもらいたかったコトでもあったのでス。だかラ、栄治サンに話せテ、少し心が軽くなりましタ」 「…そうか。なら、よかった」 「ワタシ、何の取り柄もない。だかラ、何の役にも立たない。だかラ、誰も必要としてくれなイ。だかラ、ホームを支えられるようなワークスも見つけられなかっタ…。もしも、今のワタシにしか出来ないコトあるなら、喜んでやりまス。たとえソレが、どんなにRidiculous...馬鹿げたコトでもでス」 「彩…」 「そう思えるようになったのハ、ココに来てかラ…。『紫影館』に来たおかげでス」 「…よかったな」 Yes! You'er my best friend!(ハイ!貴方は最高の友人でス!) 彩は満面の笑みを浮かべながら、その大きな両手で栄治の右手をガシッとつかんで勢い良く握手した。
ただでさえストレートな物言いの彩にここまでストレートに礼を言われて、栄治はくすぐったいような気分になった。
そんな感情表現にカルチャーの違いを感じつつも、彩の真剣な感謝を茶化す訳にもいかないと思い直した。
「いいって事さ。…じゃ、厨房入るか」 「ハイ!」 握手をといて事務室から厨房に向かった二人の間には、いつも通りの軽やかな空気が流れていた。
フロアを横切って厨房に入った二人を見て、知信も店の空気が軽くなった事に胸をなでおろした。
誰も気付かないが、素知らぬ振りして様子を見ていた望も同様に安堵していた。
「それにしても…忠一サン、遅いでス。どうしたんでしょうカ?」 「そういえば、そうだな…。まぁ、そのうち来るだろう」 その場はそう言って済ませたものの、一時間たっても、二時間たっても、忠一は一向に姿を現さない。
入れ替わり立ち代り来るお客を迎えては送り出しているうち、外では日が傾いていた。
「えっ?まだ休み?」 翌日もそのまた翌日も、忠一は紫影館に姿を見せていなかった。
「そうみたいなんだ。あれから何度電話しても繋がらないし…。松永君の方に、連絡は来てないのかい?」 「ない…と思いますけど」 栄治に心当たりはなかったし、携帯電話を確認したが忠一らしい相手からの受信履歴も見当たらなかった。
「困ったな。月島さんも、勿論、鳥井さんにも何の連絡も来てないようだし…。雪原君、どうしたんだろうね?」 「さあ…?」 俺に聞かれても困ると思いながら、栄治はそう答えるしかなかった。
「うーん…」と言いながらしばらく首を捻っていた知信だったが、やがて何か思いついたように栄治に切り出した。
「そこでね、松永君」 「はい?」 「悪いけど、雪原君の様子を見てきてくれないかな?」 「俺が、ですか?」 「これだけ休んでるのも心配だし…。それに、これ以上無断欠勤されると店としても困るんだよ」 「そりゃあ、まあ…」 「松永君一人の給料から、ガラス代を差し引くのも気が引けるし…」 冗談じゃない。
知信がさらりと呟いた脅迫とも取れる一言に、栄治は張り切って引き受けざるを得なくなった。
「わ、わかりました!行ってきます!」 「助かるよ。じゃ、これ」 知信は一枚のメモを取り出し、栄治に手渡した。
「雪原君の住所。今日はこのまま上がっていいから。よろしく頼むね」 「あ、はい…。それじゃあ、お疲れ様でした」 「お疲れ様」 なぜだか急きたてられるように、栄治は事務室にエプロンを放り出し、置いといた荷物をひったくると勝手口に直行した。
外ら出ると、ゴミ出し中の彩とすれ違った。
「栄治サン?もう帰るのですカ?」 「風山さんに使い頼まれてさ。じゃあ、またな。彩」 「ハイ…」 ポリバケツを待ったまま首をかしげる彩を残し、栄治は店の脇の道から一旦表通りに出た。
「…ったく。何で俺があいつの面倒見てやらなきゃならないんだか」 歩行の速度を緩めて、知信から預かったメモに目を走らせる。
「えーと…『剣崎市甲良四丁目八番地202』…?この辺りの住所じゃないか。あいつ、こんな近所に住んでたのか」 そういえば、帰りは駅まで着いて来ながら、忠一は電車に乗らなかった。 本人は「こいつ、ダメだわ。止まんねぇから」と、さも目当ての電車が来てないように振る舞っていたが。
栄治は不審に思いながらも、電柱や塀のプレートを頼りに番地をたどっていった。
すると
「げっ…!?」 よりによって四丁目のほとんどは、あの旧市街の住所だった。
「マジか…?」 正直、帰りたくなりつつも、一度引き受けた事だからと忠一の自宅探しを再開した。
「八番地…八番地…と」 夕日に照らされて影が伸びた旧市街の建物の住所を一軒ずつ確認していく。
五番地、六番地の木造平屋、七番地の倉庫跡…
「ここ…か?」 表記は…八番地。間違いない。
そこは、見るからに寂れた、木造二階建てのアパートだった。
「『202』…っていう事は、二階か?」 いぶかりながらも、栄治は階段の手すりに手をかけた。
「うわっ…!?」 ジャリジャリした不快な感触に、栄治は反射的に手を引っ込めていた。
「何だ、これ…!?錆だらけ…!」 西日のせいではなく、手すりはすっかり赤く錆びついていた。
斜陽でオレンジ一色に染まる旧市街と、人気(ひとけ)が全くないボロアパート。 暗がりから、幽霊でも何でも「出てきてください」という感じだ。
(雰囲気ありすぎだろ、これは…!) 栄治は、別の意味で帰りたくなってきた。
重い気分になりながらも、奥から二番目のドア…202号室の前に立った。
ドアは、壁や床同様に、埃まみれですっかり汚れきっている。 当然のように、ここに来るまで表札のある部屋は一軒もなかった。
「空家…だよな?どう見ても」 念のため、呼び鈴を鳴らしてみた。
しかし、何度押しても、ボタンはカコカコと間の抜けた音を出すだけだった。
「…って、壊れてるのか。しょうがないな」 栄治は、直接ドアをノックする事にした。 「こんにちはー!」 返事はない。
栄治は、改めて息を吸い込むと、さっきよりも強めにドアを叩いた。
「松永といいます!『紫影館』から、用事で来ました!」 やはり、返事はない。
栄治は、改めて住所を確認しようと、メモを睨んだ。
「間違いない…よな?ここで」 番地は、紛う事なくこの場所を指している。
なのに、人っ子一人居ないはずの旧市街の、どう考えても空家としか思えないアパートが忠一の住所とは…一体どういう事なのか。
栄治はさっぱり呑み込めないこの状況に困って、しばらくつっ立っていた。
が、こうしていても埒が明かない。
とりあえず、本当に忠一の住まいかどうかだけでも確認しようとドアノブに手をかけた。
カチャリと音を立ててノブはあっさりと回り、ガタがきているドアは軋みながらも手前に開いた。
栄治は、恐る恐る中をのぞきながら再度呼びかけた。
「すみませーん?誰かいませんかー?」 相変わらず、返事はない。
玄関にそっと入った栄治は靴を脱ごうとしたが、カーペットにも見えたグレーの床が積もりに積もった埃だと気付いて、仕方なく土足のまま上がる事にした。
部屋の中は明かり一つついておらず、このまま日が沈めば、真っ暗になりそうだった。
家具や調度品の類は一切なく、壁紙はボロボロにはがれて木造の壁がむき出しになっている。
外もそうなら、中もお化け屋敷顔負けの不気味さだ。
栄治はますます帰りたくなりながらも、これが最後の確認とばかりに声をかけた。
「雪原?いないのか?」 シンと静まり返った殺風景な部屋を見回して、栄治はそろそろ引き上げようとした。
その時だった。奥の和室で何かの塊が動くのが視界の隅に入った。
「え…!?」 ドキリとしながらも近づいて行くと、毛羽立った薄い毛布がモゾモゾと動いている。
やがて、そこから見知った顔が癖っ毛の頭と共にのぞいて、栄治は心臓が止まりそうになった。
「雪原!?」 虚ろな目でのっそりと上体を起こした忠一も、目の前に立つ人間が誰なのか理解して目を見開いて絶句した。
「栄治…!お前…!?」 予想外の展開に、しばし二人は固まっていた。
沈黙を破ったのは、栄治の方からだった。
「よ、よう…」 硬直した笑顔で右掌を上げる栄治に、忠一はなおも目を見開いたままだった。
「なんで…!?」 「風山さんに、様子見てきてくれって、言われて、さ…」 栄治の答えを聞いた忠一は、この住所を履歴書に書いた事を思い出し、見開いていた目をそろそろと閉じた。
「…そっか」 調子を取り戻そうと、栄治は何か話題はないかと、とにかく口を動かした。
「それより、無用心だな。鍵、開いてたぞ?」 「忘れてた…」 忠一が力無く毛布越しの膝に顔を突っ伏していくのを見て、栄治は忠一の欠勤理由を思い出した。
「腹痛、だって?」 「あぁ…」 「どうせ、賞味期限切れのモンでもつまみ食いしたんだろう?」 「あぁ…」 「これに懲りたら、食い意地は張るなって事かもな」 「あぁ…」 あの元気だけは有り余っているような忠一が、こんな力ない返事をするなんてらしくない。
そう思って茶化してみた栄治だったか、彩の事を思い出し、ちょっとは心配してやるかという気になった。
「お前一人じゃ、まともにメシ食ってないんじゃないのか?」 「あぁ…」 「だと思った。…ほら、これ」 店を出て来る時、厨房で鳥井さんに渡された風呂敷包みをちらつかせた。
中身は、タッパに詰めた弁当だと言っていた。鳥井さんらしい心遣いだ。
「差し入れ。鳥井さんのお手製だってさ」 「あぁ…」 「腹減ってるだろ?出してやろうか?」 「食いたくねぇ…」 あの食い意地だけは一人前と思っていた忠一の反応に、栄治はある意味本気で心配になってきた。
どこか配膳台でもないかと探したが、水垢だらけの台所以外にまともな置き場は見つからなかった。
「じゃあ、ここ置いとくぞ?」 「あぁ…」 ゴトリと弁当箱を置くと、栄治はつっ立ったまま途方に暮れた。
部屋には、テーブルどころか、椅子一つない。 埃だらけの床に腰を降ろす気にもなれず、栄治はカバンを抱えたまま、忠一の脇に中腰になって屈んだ。
「暗くないか?電気は?」 「つかねぇよ。止められてんだ…」 「あ、そう…って、ちょっと待て!じゃあ、水道は!?」 「外の洗い場のが、まだ出るかんな…。そっから、もらってんだよ…」 「いいのか、それ…?」 つまり、台所の水道は止められているという事だ。
栄治は忠一の信じられない生活環境に、頭がクラクラしそうだった。
「それにしても、お前。こんな空家に住み着いて…。見つかったら、不法侵入で訴えられるんじゃないのか?」 現状から気を逸らそうと喋り続ける栄治に、忠一がボソリと呟いた。
「…俺ン家だ」 「えっ?」 ちょっと待て。
聞こえてはいた。聞こえてはいたが、栄治は思わず聞き返していた。
今、忠一がとんでもない事を口走らなかったか。
「…ここぁ、俺ン家なんだよ」 空耳じゃなかった。
(嘘つけ…!) 栄治は即座に否定しようとした。だが、忠一がいつもと違ってふざている様子もない。その事が、栄治に不用意な反応を思いとどまらせた。
「ふぅーん…。そう、か…」 「…なんで、聞かねぇんだよ?」 曖昧な返事で終わらせようとした栄治に、忠一は食い下がってきた。
「何をだよ?」 「おかしいだろ、フツー…?こんな…人っ子一人いねーボロ家が、まともな人間の家なワケ…あるかっつーの…」 あくまでとぼける栄治に、忠一が辛うじて首を上げてまくし立てる。
対して、栄治はこう返していた。
「…お前が言いたくないのに、ムリヤリ聞いてもしょうがないだろう?」 最初に忠一と会った時。
見ず知らずの自分を担ぎ込んでくれた病院からの帰り。 一度に二体の黒衣に襲撃され、無我夢中で変身して撃退した。 そんなありえない状況に、説明に困った栄治に、忠一が言ってくれた一言だった。

言葉を失くした忠一は、また膝に突っ伏した。
さらに傾いた夕焼けが窓から差込み、部屋中を火事場のように真っ赤に染めていた。遠くで烏の鳴き声だけがこだまする。
沈黙ののち、栄治は忠一の本心を察したように
「それとも…聞いて、ほしいのか?」 と、訊ねてみた。
同じだ。
ばつが悪そうに愛想笑いを浮かべていた知信。 閉じた貝のように押し黙っていた彩。 そんな相手から、内に溜め込んだ淀みを引き出そうとする自分。 あの時と、今こうして忠一に向き合う状況が栄治の中でふと重なった。
「親父がよ…」 「ん?」 忠一は気だるそうに、床に着いた両腕に体重を預けて天井を仰いだ。
「親父が目先の金欲しさに、この土地、地上げ屋に売っちまったんだ。俺が、小学校上がる前だったよ…」 「『この土地』?じゃあ、まさかここ…」 「それなりに、家賃もとれてたらしいのによ…。積まれた金に、目がくらんじまいやがって…」 つまり、この場所はもともと雪原家の地所だったらしい。
忠一の家はこのアパートから家賃収入を得ていたが、入居者の減少か、あるいいは何らかの理由で、収入を上回る金銭で土地を売却したのだった。
「何やっても続かねぇ親父に、死んだじーさんが残してくれた家だったって、おふくろが言ってたっけな…。そのおふくろも、親父と俺を捨てて出てっちまったけどな…。今となっちゃあ、あの人が俺のおふくろだったかもわかんねぇ…。小っせぇころから、ちがう『おふくろ』が何人もいたかんな…。その上…酒ばっかかっくらってた親父は、ぶったおれて…。そんとき、かかった医者がヤブだったせいで…そのまんま…」 どうやら忠一の父親は浪費家で、女性と酒に依存する気質があったらしい。それが原因で、身を持ち崩してしまったようだった。
それでも忠一は、父親の事も『母親たち』の事も決して嫌いではなかった。
父親はだらしないが気の良い性格で、大抵のものは何でも買い与えてくれた。家に代わる代わる出入りする『母親たち』も、大抵が忠一にやさしかった。
まだ幼かった忠一からすれば、コンビニ飯やジャンクフードが好きなだけ食べられるのはうれしかったし、クラスメイトと笑ってふざけ合える学校生活にも満足していた。
それらが、父親の死で全て暗転した。
「葬式の日、知らねぇおっさんがイカつい連中引き連れて押しかけてきやがったんだ…。理由は、親父の借金…。住んでた家も何もかんも、そのカタに持ってかれちまった…。なんで俺ばっかこんな目にあわなきゃなんねぇんだよって、それから荒れまくってケンカざんまい…。そんなんだから、高校行けなかったんだよな。俺…」 『学生らしく、進路とか〜?』 そう言って栄治を茶化していた忠一だったが、普通に高校に通えている栄治をどこか羨んでたのかもしれない。
「施設はすぐ飛び出しちまった…。食わしてもらうためにお利口にしなきゃなんねぇ場所なんざ、俺の性に合わなくてよ…。そのうち、『裏番』の仲間になった…。さんざんワルぶって、バカやって…」 「『ウラバン』?」 聞きなれない単語に、栄治が反応した。
そうか。そうだよな。いつか話すつもりだった。その『いつか』が、今やって来た。それだけの事だ。
そう思いながら忠一は栄治を一瞥すると、ずっと隠してきた身の上を明かす覚悟を決めた。
「『東京裏番地』っつって、俺と同中で番はってた二コ上の奴らが作ったチーム。たまたま、そこの副総長が敵チームにフクロにされてたのを助けたら、俺も入らねぇかって誘われてよ。その頃、地元を仕切ってた『紅巾族』ってチームに対抗するために、俺のケンカの腕を見込んだんだと。特に居場所もなかったし、俺は話しにノッた…」 忠一のいう『チーム』が、スポーツやサブカルなどの平和的なそれではない事を栄治は察した。 (つまりは、『不運(ハードラック)』と『(ダンス)』っちまう人たちか) いわゆる『ヤンキー』『チーマー』『カラーギャング』などとと呼ばれる不良の集まりだ。
「最初は、気のいいヤツらでよ。俺に金がねぇからって、総長がお古の単車ゆずってくれたり、バイト先がバイク屋だったヤツが余ったパーツ分けてくれたりしてな。街道ぶっ飛ばしたり、祭に繰り出したり、仲間がボコられたらタイマン勝負挑んだり…いっつも、つるんでた。『紅巾族』を潰してからも抗争続きだったけど、勝てば勝つほど『裏番』はどこまでもデカくなってった。俺だって、こう見えても五番隊副隊長でケツ持ちだったんだぜ?けど…」 思い出を手繰るように語り続けていた忠一の目が、ふと曇った。
「その頃から、ヤツら何かおかしくなっちまった…」 「え?」 「タメも上も関係ねぇはずだったのが、急に序列とか掟とか決めて、チームの中の立場とか気にするようになってよ。『そんな大人のクソみてぇなルール、マネして何になるんだよ』って、俺一人で反発してた。けど、誰も聞きやしなかった。たぶん、俺、チームで浮いてたかんなぁ…」 「雪原が…?」 無遠慮で誰とでも打ち解けられる忠一がチームで浮いていたと聞いて、栄治は意外そうに目をそばめた。
「ケンカでも暴走でも、ほかはなんでもできたのによ…。タバコと酒だけぁ、どーにもなぁ…」 「…親父さんがそれで倒れたから、か?」 「『いまさら、マジメぶんな』『シャバい野郎だ』って、あとから入ってきた連中にまでバカにされてたよ…。けっ!わりぃかよ…」 「別に、悪くない…と思う」 「…あ?」 「俺も、さ…。実は、やった事あるんだ。…酒と、煙草。こっそり。一回だけ」 「…マジ意外。マジメなお前が…?」 「別に、まじめじゃないよ。父親が少しやってたから、好奇心っていうか、興味だよ。…でも、やめた」 「んでだよ…?」 「まずいから」 「あ?」 「アルコール臭いし、ヤニ臭いし、煙いし…。何で大人は、あんなまずい物やるんだろうな?」 「たはは…!だよなー…?」 忠一がくつくつと笑った。 それを見た栄治も、忠一にいつものペースが戻ってきたような気がしていた。
それでも忠一は相変わらず天井を見上げたまま、栄治を見ようとはしない。
「お前や、彩や、風山さん…鳥井さんに、花咲さんとも会えて、やっと荒れ放題の暮らしからオサラバできると思ったのによ…。ツイてねーぜ…。天罰か…?」 「『天罰』って…?」 「『紫影館』に来るちっと前から俺、『裏番』にツラ出すのやめたんだ…。そしたらよ。思ったとおり、連中がしつけーったら…」 「じゃあ…あの時、お前にからんできた連中が…!?」 栄治の中で合点がいった。
平山と平間を迎え撃って『紫影館』のガラスを割ってしまった日。 忠一を取り囲んでいた人相の悪い三人は、つるんでいた『裏番』の仲間だったのだ。
「俺ぁ、当然『もどる気ねぇ』っつたんだぜ。で、よ…。そいつらが『印』置いてけっつーもんだから…」 「『印』?」 「総長が言うには『"裏番"の絆は"血"の絆』ってな…。ぬける時にゃあ、指一本切ってくっつーのがルールなんだよ」 「な…っ!?」 栄治は思わず息を呑んだ。
マフィアやヤクザ映画の真似事にしても、性質(たち)が悪過ぎる。
数日前の夜。
栄治と彩を見送った駅で、忠一は例の三人に呼び出された。三人は、忠一が副隊長をしていた『東京裏番地』五番隊のメンバーだった。
壊れかけた街灯が照らす薄暗い路地裏の、そのさらに奥。そこが彼らの『集会場』だった。
忠一はそこに集まっていた総長以下全員の前で、脱退宣言をした。
「俺ぁ、『裏番』をぬける。ここはもう俺の居場所じゃねぇ。『裏番』との縁も、今日かぎりだ」 人垣の奥に陣取った総長と副総長に、忠一は迷いなく言い切った。
「…じゃあ、俺らのルールだ。『印』を置いてってもらうぜ。わかってんだろうな?」 例の三人の一人が、忠一の『度胸』を試すようにバタフライナイフをこれ見よがしにちらつかせた。
彼は、自分より年下にもかかわらず、副総長に恩を売り、喧嘩の強さと度胸の良さで副隊長を任されていた忠一の存在がずっと面白くなかった。その忠一が怖気付く様見たさに、ここぞのばかりに挑発していた。
「指詰めだ…?けっ!んなセコイ『印』ですます気ねぇよ!」 忠一は相手の手からナイフをひったくっると、ためらいを振り切るように勢いづけて自分に突き立てた。
鮮血が、ほとばしった。
「俺ぁ、んなチャチイもんですます気ねぇって言ってやったんだ。んでよ…」 自分の腹をパンパンと叩いて顔を歪めた忠一に、栄治は忠一がした無謀な行動が何だったかを悟った。
「な…何考えてんるんだ、雪原!お前…そんな理由で、自分から腹かっさばいたのか!?」 忠一は肯定して、ニッと笑った。
栄治は、自分の血の気が引いていくのを感じた。
「信じ、られねぇ…!」 「言ったじゃんか。『腹痛』で休むってよ…」 そういう意味で言ったのか。
引いていた栄治の血の気が、今度は一気に頭に上った。 馬鹿だとは思っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
「そんな大怪我、普通は入院ものだろ!っていうか、入院しろ!ちゃんと治せ!」 「病院入る金がねぇ…」 「一円もないってわけじゃないだろ!?素人判断で放ったらかして、治るもんも治らなかったらどうするつもりだ!」 「全部かき集めちまったら、食ってく分がなくなんじゃねーかよ…」 「なら、俺も出してやる!バイト代と小遣い、全部かき集めて…!彩と風山さんだって、本当の事言って頭下げれば、きっと協力してくれるさ!」 「栄治…」 「医者が信用出来ないんなら、花咲さんがいる!あの人に立ち会ってもらって、ヤブじゃないかどうか見ててもらえばいい!」 そこまで言って、栄治は夢中で叫んでいた自分にはっとした。
(…って!何、一人で熱くなってるんだ!?くそ…!) 「は、はは…」 唐突に漏れ出た忠一の笑いが、栄治の気まずさをかき消した。
「いいじゃん、それ…。ナイスアイデア…」 そう言いながら、忠一はあの『槍』を右手で遊ばせていた。 ずっと枕元にでも置いておいたのだろうか。
「これで、今度こそ足を洗えりゃあ…俺も晴れて、正義の味方のお仲間入り…できるかもな」 そういえば、度重なる回天狗党の襲撃の中、忠一だけが『憑巫』にならなかった。 忠一にとって、それは単なる『仲間外れ』や『除け者』という意味に留まらなかったのだろう。 入りたい輪の中に入れないのは、悪行を重ねた自分にその資格はないのだと突きつけられたような気分だったのではあるまいか。 それが『天罰』という言葉になって出てきたのかもしれない。
栄治は唐突に『今必要な事』を思い付いた。携帯電話を取り出すと、かけた先は119番だった。
「もしもし…。はい、救急です」 「きゅ…!?おいおい、栄治…!」 「えーと…ナイフで腹を切って…えぇ、多分。傷口はまだふさがってないと思います。…様子、ですか?落ち着いてる…事は落ち着いてるんですけど、かなり痛がってる…と思います」 「んな、オーゲサなコトしねーでいいっつーの!」 「うるさい!…あ、剣崎市甲良四丁目八番地です。…はい、はい。お願いします」 半ば強引に救急車を呼び終えた栄治は、通話を切った。
「お前ぇ…。んなゴーインな…」 「今、俺はタクシー呼べるだけの金はないし、病院までお前の図体担いで行くのは無理だ。それに、応急処置とか必要かもしれないだろう?それは、俺にはさっぱりだからな。プロに任せた方が安全だ」 「けどよぉ…」 「うだうだ言うな!文句があるなら、自力で病院まで歩いて行け!」 有無を言わさず、栄治は忠一の抗議をさえぎった。 聞き分けの悪い弟分を叱り飛ばす年長者の気持ちそのままだった。
「…ひっでーな、おい」 口を尖らせながらも、忠一の口調はどこか安堵の色が感じられた。
その時、忠一の手の中で『槍』がほのかな光を帯びた事には誰も気付かなかった。
夕闇の中、アパートの前まで駆けつけた救急車に忠一が運び込まれる。
救急隊員の一人に、案の定「何でこんなになるまで放っておいたの?すぐに助けを呼ばないと駄目でしょう?」と叱られるというおまけもついた。
「じゃあな。早く治して、早く戻って来い。彩も風山さんも鳥井さんも、待ってるから」 「おう!」 届かない拳を突き出して、二人は別れの挨拶とした。
サイレンを鳴らし、赤色灯を光らせて、忠一を乗せた救急車は病院に向けて走り去っていった。
それを見送った栄治の中に、彩のある言葉が甦った。
『ワタシ、何の取り柄もない。だかラ、何の役にも立たない。だかラ、誰も必要としてくれなイ。…もしも、今のワタシにしか出来ないコトあるなら、喜んでやりまス。たとえソレが、どんなにRidiculous...馬鹿げたコトでもでス』 (自分は何のとりえもないし、何の役にも立たないから、誰も必要としてくれない。だから自分にしか出来ない事があるなら、喜んでやりたい。たとえそれが、どんなにバカげた事でも…か) 次に浮かんだのは、忠一の言葉だった。
『俺も晴れて、正義の味方のお仲間入り…できるかもな』 (『正義の味方のお仲間』とやらも…まぁ、悪くないかな?) 西の空には一番星が瞬いている。
家路に着こうとして、栄治はある事を思い出した。
「…おっと。忘れる所だった」 「えっ?食べなかったんですか?」 「そうなんです。すみません。せっかく鳥井さんが作ってくれたっていうのに…」 閉店を迎えた『紫影館』に、栄治はまた戻ってきていた。 彩と知信は、すでに帰ったあとだった。
結局、鳥井さんが持たせてくれた差し入れは、忠一の胃袋に入る機会を逸してしまった。 あのまま、あの空家に置いておいても、腐ってしまうかゴキブリの餌になるだけでもったいない。 そう考えると、厨房の冷蔵庫に閉まっておいてもらい、明日のまかないにでもしてれた方がよほど有効利用というものだった。
鳥井さんは残念そうに、返された風呂敷包みを受け取った。
「そうですか。仕方ないですねぇ。…それで、雪原君は?」 「え?」 「雪原君は、どんな様子でしたか?食事もしないで、大丈夫なんですか?」 「あ、いや…。その…俺が行ったら、何か腹痛がひどくなってきて。それで、救急車を呼んで入院させたんですけど…」 「入院!?」 「あっ!でも、すぐによくなるって、救急隊の人も言ってましたよ?」 「なら、良いのですが…。早く元気になってくれるといいですねぇ」 「そう、ですね…」 「これ以上の人手不足は、正直お店が回らなくなってしまいますよ」 「はは…。ですよねー」 珍しくおどけた鳥井さんに、栄治は思わず吹き出して笑っていた。