誰も居ない、真夜中の城址公園。
天守から少し離れた鬱蒼と茂る林の間に、昭和になってから築かれた日本庭園がある。
池の水面に揺れる月影の下、まだ眠っていない鯉が一匹、緩慢な動きで泳いでいた。
鯉は池に注ぐ流れを目指し、尾ひれを向けた。
そんな無邪気に遊ぶ鯉を、石橋から見下ろす者がいた。
品のいい作りの草履が、サクリと芝生を踏みしめる。
水面に映り込んだ天狗の面に驚いたのか、鯉はパシャリと一跳ねすると、対岸へスイと泳ぎ去っていった。
「ほう…。芹沢一派を押さえ込むまでになったと…?」
「はい。にわかには、信じられません。短時間だったとはいえ、大将戦以外は全て互角と見て良いかと…」
天狗面の男は両手を後ろに組んだ格好で、背中越しに、後ろに控える藤堂の報告を聞いていた。
「ふむ…。君の見立てだ。間違はないでしょう」
「恐縮です。…ですが、あの…先生?」
「何だね?」
「あれは、『憑代』の力を彼らが引き出せている…という事なのでしょうか?」
「そう考えるのが、妥当であろうね」
「まさか…。この時代の人間に、私たちの『憑巫』になれる者がいたなんて…!」
「だが、ありえないとも断言出来ない。もし、このまま事が運べば…我々の出る幕はないかもしれないね」
「そんな…!?」
「それが一番良い形なのだよ。藤堂君」
「はぁ…。しかし、それでは我々…いえ。先生は何の為に今まで…!」
「良い」
穏やかな声が、藤堂の反論をそっとさえぎった。
一度は開きかけた口を閉じると、藤堂は心配げに師を見上げた。
「…良いのですよ。それで。それに越した事はないのだから」
面の下の表情はわからなかったが、天狗面の男の眼は、月よりも遥か遠くを見ているように藤堂には思えた。
(先生…!私は…私は…!)
一人取り残されそうな疎外感を覚えた藤堂は、すがるような眼差しで、師の凛とした背中を見つめていた。
卯月四月を向かえ、あちこちで桜が五分咲きになってきたというのに、冴えない花曇りの日が続いていた。
栄治が通う高校は春休みに入ったが、学校から生徒の姿が消える事はない。
教室はもちろん、体育館や校庭でいくつもの部活が練習に励んでいる。
準備運動に取り組む陸上部の中には、栄治の姿もあった。
彼は部員たちと駄弁る事もなく、一人黙々と走り込みの練習に没頭していた。
その様子を遠目に見ていた部員で同級生の竹市に、顧問の教師がふと話しかけてきた。
「何だ?松永の奴、今日もよくやるなぁ」
「はい。最近、急にマジになってきたみたいで…。前は、あんなにサボリまくってたってのに…」
「ほう…。何か、心境の変化でもあったのか?」
「さぁ…?」
ひたすらコースを行ったり来たりする栄治を眺めつつ、竹市と顧問の頭の中は疑問符でいっぱいになった。
当然、栄治が部活の基礎練習にいきなり奮起し出した理由など、彼らが知るはずもなかった。
知信命名の『幽霊戦士部隊』こと『幽士隊』が、対『回天狗党』戦に今度こそ勝つためという奇想天外な理由を…。
(凄い…!身体が軽い…!俺、こんなに動けたのか…?しかも、自分の動きが自分でわかる。だから、周りの動きも余裕で見れる。…これなら——!)
指先から爪先まで全身の神経が、「こう動きたい」と云う栄治自身の思考に、心地よく噛み合っていた。
あの戦いの場には、命懸けの恐怖にも勝る不思議な昂揚感があった。戦うほどに、栄治は自分のありとあらゆる感覚が冴え渡っていくのがわかった。
当然、急に体力や筋力が上がったわけではない。『鉢金』の意思と意識を共有するたびに、身体の『動き』が少しずつ変わっていくのを実感していた。
それはまるで、使わずにきた身体の動かし方を一つまた一つと取り戻していくかのようだった。
ふと一息ついた栄治の脳裏に、芹沢の不敵な台詞がフラッシュバックする。
『今のお前は、身の丈以上の力に振り回されているだけだ』
(振り回してやろうじゃないか!力をつけて…!こっちが『鉢金』を振り回してやる!)
『最も、仮に『憑代』を使いこなせた所で…お前らは、俺らにゃ勝てねぇ』
(勝つさ…!勝ってやろうじゃないか!)
栄治は芹沢に、ひいては回天狗党に本気で挑む決意を固めていた。
(じゃなきゃ…借金で首が回らなくなる!)
切実な事情も、栄治の決心に大いに影響していた。
部活を終えると、栄治はいつも通りに紫影館へと向かった。
壊された店は、当然しばらくの休業を余儀なくされた。
やっと、栄治と平山が割ったガラスが新調されると思ったら、今度は建物の外壁に大穴を空けられるという惨事に見舞われた。
店にとってはもちろんの事、栄治にとっても全くの災難だった。
どうもあいつらと係わってから、ろくな目に遭っていない。
(これ以上、あいつらに何か壊されて、俺たちのせいにされたら、たまったもんじゃない!)
ひとまず騒動が終わり、知信の運転と望の付き添いで、忠一が病院目指して送り出されたあと。
すっかり存在を忘れられていた鳥井さんの事を思い出した栄治と彩は、バリケードをどけて、勝手口は開いてるのにずっとドアを叩いていた鳥井さんを厨房から解放した。
店の惨状を目の当たりにした鳥井さんは、当然の如く大ショックを受け、右往左往してうろたえた末に、ガックリと力を落として思い切り落ち込んでいた。
知信は相変わらずのポーカーフェイスを装っていたが、副店長として彼が負わなければならない責任は相当に重いものだろうと、栄治は想像出来ていた。
(鳥井さんや風山さんにも、迷惑かけたし…。でも、今日は——)
そう。今日は、忠一は正式に退院して来る日だ。
最初は、三人で見舞いに行こうとか、退院する時は迎えに行こうとか、主に彩からの提案があった。
だが、
「患者の身内でもない部外者が病院に押しかけるのは、結果的に迷惑になるから控えようか」
という知信のシビア過ぎる意見で、全て却下された。
そういう訳で、傷も塞がり、すっかり回復したはずの忠一とは、紫影館の事務室で再会しようという運びになったのである。
到着した紫影館は、外観をブルーシートですっぽり覆われていた。
知信が頼んだ業者が作業をしていったようで、周りには必要な資材や機材が一通り置かれていた。あとは、本格的な改修工事を待つだけだ。
栄治は無事だった勝手口に回って厨房に入ったが、鳥井さんがいないだけで、決して広くはない部屋がやけにがらんとして見えた。
厨房とフロアをつなぐドアを出ると、破片と粉塵だらけだったフロアはとりあえずの掃除がされており、家具や調度品もすっかり撤去されていた。
(あーぁ…。あいつら、派手にやってくれたよな。まったく…!)
見るも無残な店内を一瞥すると、栄治はため息をつきながら事務室のドアノブに手をかけた。
「入院費が実費…!?どういう事だい?雪原君」
(この声…風山さん?)
半開きのドアの向こうから、中の会話が耳に入る。
栄治は、話しの腰を折らないようにと静かにドアを開けた。
事務室では、折りたたみ椅子で腕組みする知信、その向かいの椅子に彩、ソファに忠一がそれぞれ腰かけていた。
「健康保険は?」
「…ねぇっス」
難しい顔をした知信に訊ねられ、忠一はぶすっとした膨れっ面でそっけなく答えた。
「What? 保険料、払っていなかっタのですカ?」
驚いて身を乗り出してきた彩に、忠一は彼なりに溜めに溜めてきた苛立ちをぶちまけていた。
「んなヨユー、あるワケねーだろ!こちとら、短期バイトの掛け持ちで、毎月ヒーコラいってんだぜ?ケータイだって、しょっちゅう止められてんだ。自分が食ってくだけで、精一杯だっつーの」
「それならいっそ、生活保護を受けた方がいいんじゃないかな?」
「その通りでス!意地張るのハ、よくないでス。これ、市民の権利。受けるべきでス」
冷静な知信の意見に、忠一を諌めて彩が同意する。忠一は荒げていた声を引っ込めると、また元の膨れっ面に戻った。
「意地なんか張っちゃいねーよ。家賃払えなくなって前のアパートおん出された時に、一度もらいに行ったけどよ。役所が出してくんねーんだよ」
それを聞いた知信が、しばし考え込む素振りを見せた。
「…成程。雪原君の場合、未就学の上に全くの無収入という訳じゃない。財政が苦しい行政側としては、受給者を一人でも減らしたいというのが本音だろうね」
「悪い冗談ですカ?何て事でス」
「ったくよー!働いてるより、もらってる方が金になるなんて、どーゆー仕組みなんだよ?今の世の中はー!」
グジャグジャと頭を掻き毟りながら、忠一はソファの背もたれにドッカと上体を投げ出した。
すっかりふてくされた空気の事務室にどう入り込もうかと様子見していた栄治は、完全にタイミングを逸してドアの手前に突っ立っていた。そんな栄治をふと視線を逸らした忠一が見つけた。
「おっ!」
忠一はガバッと上体を起こすと、さも楽しそうに右手をひらひらと振った。
「よっす!栄治!今度こそ、ちゃーんと退院して来たぜー」
それに続いて、彩と知信も後ろを振り向く。
「コンニチハ!栄治サン」
「やぁ、松永君。もう来ていたのかい?」
「あ、あぁ…」
見つけられては、仕方がない。
栄治は歩きながらを肩から外すと、忠一とは反対側のソファの端に座った。
「それより、雪原の入院費がどうかしたんですか?いや、何か生活保護がどうのこうのって聞こえたから…」
栄治のリアクションに、三人の表情に暗雲が垂れ込める。
最初に説明し出したのは、やはり知信だった。
ふんふんと何気なく説明を聞いていた栄治の顔が、事態の深刻さが実感となって湧き上がってくると共に、みるみるうちに強張っていった。
「ええぇぇ——っ!?」
思わず上げた栄治の叫び声に、店の屋根で羽を休めていた鳥たちが驚いて逃げていく。
「忠一サンのアドレスは、ワタシのアパートメントにしておきましたガ…」
「残りのガラス代、保健なしの入院費、そして店舗外壁の工事費用…。僕たち四人が折半した所で、かなりの金額だ」
知信が差し出した計算書を栄治は恐々と受け取った。
数字の一覧を目で追っていくと、最後に桁を間違えているとしか思えない金額がしっかりと記されていた。
「マジ、ですか…?」
やっぱり、災難だ。災難過ぎる。
学生と低所得者の若者三人の首を確実に絞める借金の山。
さらに、忠一と本音を言い合えるようになった矢先、さらなる金銭危機にまで見舞われ、金運が綿毛の如く飛散していったような気もする。
「ムリ…。ぜってー、かえせねー…」
「お前が言うな。誰のための割り勘だと思ってるんだよ」
「うぇ…。そーでしたぁ…」
「ですガ、生活保護が望めないとなるト、ヘヴィでス」
「…まぁ、この間の戦いで全員無事だった事を思えば、お金には代られない幸運を僕たちは手にしたのかもしれないね」
知信は極めてやさしく言ったが、他人が作った借金の山に迫られる彼らには、何の慰めにもならなかった。
結局、史上最大の借金を前にしてなすすべもなく、その日は解散となった。
忠一退院のお祝いムードも一気に萎んでしまい、歓迎会でタダ飯が食らえるものと期待していた忠一は、帰り道で終始愚痴りまくっていた。
その夜は、新月だった。
暗闇に紛れて、忍装束に身を包んだ監察方は、旧市街の路地裏に身を潜めていた。
時折、ジリジリと音を立てて点滅する古ぼけた街灯だけが、唯一の頼りない明かりだった。
監察方は待っていた。『彼ら』が姿を現す、その時を。
と、突如として街灯が消えた。
フィラメントが切れたわけでは、なかった。
『彼ら』が、旧市街にやって来たのだ。
監察方は、耳と皮膚感覚と第六感を研ぎ澄ませた。
降り立つ四つの気配。建て付けの悪い戸をガタガタと開ける音。室内に足を踏み入れる草鞋の音。
やがて、塀越しに『彼ら』の会話が聞こえてくる。
「よぅ。どうだ?」
「へい!やっと数が揃いました!いつでも、動かせますぜ!」
「ますぜ!」
「保管に抜かりは、ねぇだろうな?」
「勿論です!ここなら、雨風に濡れる事もありやせん。流石は、新見さんの見繕った場所です」
「場所です」
「よぉし…。下準備は整った。後ぁ、時間の帳尻合わせの問題だな。目標に変更はねぇ。例の赤い尖塔と、二本立てのごつい塔だ」
「いよいよですね、先生!」
「先生!」
「あぁ。いよいよ、『前夜祭』の始まりだ。…新見。あの先生さんに伝えて来い。『準備万端』ってな」
「御意」
新見が動く気配を監察方は追った。
その行く先は——自分が今、背を預けている塀の上だった。
新見は窓かどこかから音もなく外へ出て、細い塀の縁に立って、下の裏路地に目を落としていた。
そこには、無人の暗がりが、ただ横たわるばかり。
杞憂を払った新見は、主の命令に戻り、旧市街の屋根の向こうへ姿を消した。
やがて、無人の旧市街に、街灯の頼りない明かりが戻った。
空き地の草むらなどに散っていた虫や蛾が、また灯を求めて群がってきていた。
街が夜闇に包まれ、一日を終えた大人たちが華やぐネオンに吸い込まれていく頃。
都内にある一軒のオーセンティックバーのカウンターに、知信は静かに腰掛けていた。
薄暗がりを淡く照らす琥珀色のライトの下、チェイサーに出された水をテイスティンググラスのバランタインにそっと注ぐ。
その隣には、一人の女性が座っていた。
化粧っ気のない顔に、いかにも勝気そうな切れ長の目と剃り上げた眉。細身に黒いパンツスーツ姿で、ベリーショートを金髪に染め、耳元にはイヤーロブ・ピアスが赤く光る。
知信の手元に置かれた名刺には『弁護士 西兼文乃』の文字があった。
「お久しぶりです。西兼さん」
「相変わらず、おカタイね。同じ法学部の同期じゃないか」
いかにもがさつで、それでいて棘のないカラリとした声で文乃は言った。
「卒業以来にもかかわらず、今日はわざわざ来てくれて、ありがとうございます」
目を伏せて会釈する知信の前で、文乃はぎこちなくカクテルグラスを持ち上げ、サイレント・サードを一口含んだ。レモンの爽やかな酸味がつんと香った。
「にしても、懐かしいねぇ…。アタシらの学び舎の目と鼻の先なんだよね、ココ。学部の連中と店の前を通るたんびに、『大人になったら飲みにこよう』なんて憧れてたっけ…」
しみじみと語る文乃の話しを聞きつつ、知信はトワイス・アップにしたウィスキーをグラスの中で転がしながら、目線で文乃の方をちらちらとうかがっている。
いつもは会話にも卒がない知信だったが、この場ばかりは本題を切り出すタイミングをつかめずにいた。
同じキャンパスに通った同じ法学部同士とはいえ、経営者になる事を期待されていた知信は政治学科、弁護士を目指していた文乃は法律学科と畑違いだった。
一般教養課程の人文科学科でたまたま一緒になり、何となく馬が合っただけの仲だ。花が咲くほど思い出話がある訳でもない。
とはいえ、わざわざ呼び出しておいて、時間ばかり浪費している訳にはいかなかった。
「で?卒業以来、音信不通だったヤツが何の用かと思ったら…」
会話のきっかけを文乃の方から作ってくれた事に、知信は図らずも救われた。
「まさか、アンタが頼み事してくるなんてね」
知信は手持ち無沙汰で手にしていたグラスをカウンターに置くと、彼女の方に向き直った。
「…多額の借金を抱え込んでいる知人がいます。まだ十六歳です。身寄りはなく、日雇いで食べ繋いでいる未就学児で、生活保護を受ける事も出来ません」
「へーえ…。そりゃ、深刻」
「その借金も、不可抗力で起きた事故の破損修理費と、彼自身が負った怪我の治療費としてこうむったものです。だから、何とか必要最小限の返済で済ませてあげたいのですが…」
「ふーん…。ナルホドねぇ…」
事の深刻さが伝わるようにと、知信は出来るだけ声のトーンを落として切々と話したのだが、文乃にはさも事も無げに返された。
「意地でも人脈使わないアンタが泣きついて来たのは、その十六のダチのためかい?あの『独歩生』『孤島生』なんてアダ名されてた風山が、赤の他人にそこまでこだわるワケないからね」
本音を見透かしたような文乃の鋭い指摘には答えず、知信は内心ではすがる思いで本題のみを切り出した。
「すぐに用意できる金額は、十万円。これで着手金と報酬金に収めてもらえないでしょうか?正直、今はそれで精一杯です」
栄治や彩とカンパした金を担保に、知信は頼み込んだ。
「不足とは思いますが、どうかお願いします」
知信は藁をもつかむ思いで、文乃に深々と頭を下げた。
「…アンタのダチに生活ってモンがあるように、アタシにも生活があるんだ。そんな二束三文の依頼料で引き受けられると思ってんのかい?」
十万円といえば、若者にとっては結構な金額かもしれない。しかし、法曹界では示談交渉などの民事における最低着手金額に過ぎない。言うなれば、はした金だ。
「わかっています…。ですから、こうして西兼さんにお願いしているんです…」
しばらく黙っていた文乃だったが、ややあって知信を試すようにこう言った。
「足りない分くらい、いっそ親父さんに頼めば?条件次第じゃ、出してくれるんじゃない?」
降って来た思わぬ言葉に、知信の表情がさっと曇る。
動揺を表に出すまいとした知信だったが、無意識に奥歯を噛みしめ、拳をぐっと握っていた。
「…僕がそういう事が嫌いなのは、知っているはずです」
絞り出すように言った知信に
「風山」
と、溜息にも似た口調で文乃が重々しく口を開いた。
「つまんない意地張ってんじゃないよ。誰だって、生まれ育ちは選べない。…アンタが御曹司で、アタシが貧乏人の子だって事実は変えられないようにさ」
そう言われて、知信は初めて顔を上げた。
そこには、学生時代と同じく、変えられない出自と向き合う文乃の姿があった。
「けど、与えられたモンを否定したって何も始まりゃしない。大事なのは、どう生まれたかじゃなくて、どう生きたかでしょうが?ダチのために親父さんに借りが増えたからって、それがどうしたっていうんだい?自分の弱みを出す事と、ダチのために金を作る事と、アンタにとって大事なのはどっちなんだ?って話しさ」
噛みしめるような一言一言は、もしかしたら文乃が自身に言い聞かせてきたものだったのかもしれない。
『どう生まれたかじゃなくて、どう生きたか』——
挫折の実感がこもった言葉に、知信は自分が温室育ちである事を責められているような気分になっていた。
「…少し、失礼します」
動揺を抑え切れなくなった知信は、心にもない事を口走ってしまう前にと一旦席を立つ事にした。
「あぁ。頭冷やしといで。待っててやるから」
奥のトイレに向かった知信を送り出しながら、文乃はグラスに残ったカクテルをぐいと飲み干した。
「…いや。頭冷やすのは、アタシも…か」
ガラにもなく少し言い過ぎたかと、文乃が思いを巡らせていた時だった。
不意に、出入り口の扉が開いた。
しかし、バーテンダーから「いらっしゃいませ」の声がけは出なかった。その招かれざる客二人が、あからさまに『その筋』の人間でしかあり得ない暴力的な出立ちだったからだ。
二人の男は、一人で空のグラスを前にする文乃の席へとまっすぐ向かって来た。
「よぉ。姐さん。探したぜ」
真っ黒なサングラスを掛けた方の男が、文乃に低く囁いた。
明らかに難色を示すバーテンダーに気付いたもう一人の頬に傷のある男が、扉を親指で指差しながら言った。
「ここじゃ何だ。ちょっと表で話そうか」
鏡に映った自分を見直し、気を落ち着かせた知信が席に戻って来ると、そこに文乃の姿はなかった。
「西兼さん…?」
まさか帰ってしまったのかとも思ったが、名刺もコートもそのままで、中座しているだけなのはすぐにわかった。
「あの…?」
困った知信は、様子を見ていたはずのバーテンダーに視線を向けた。
「お連れのお客様でしたら、つい先程席を外されました。その…随分と厳しいお二人連れに、お呼び出しされて…」
『カタギ』とは言えない人間も闊歩する繁華街にも程近いバー。文乃の職業は弁護士で、しかも女一人。
嫌な予感がした知信は、慌てて出入り口に走りながらバーテンダーに言った。
「念の為、警察に!」
「はい!既に」
流石は海千山千の客商売。卒のないバーテンダーの返事を背中越しに聞きながら、知信は外の道路に飛び出した。
文乃の姿は、すぐに視界に入った。店の脇にある雑居ビルに挟まれた路地の前で、二人の厳つい男と何やら話し込んでいた。
「西兼さん!」
「風山?何だ、早かったね」
文乃はいつもの通りに振る舞っているが、側に立つ二人は明らかに一般人ではない事が殺気立った目付きと派手派手しい出立ちでわかる。
知信はふうと息を吐くと、あくまで落ち着き払った態度でこう言った。
「困りますね。その方は今、私との『商談中』です。お引き取り下さい」
知信は自分の鼻先に衝撃が走ると同時に、掛けていた眼鏡が弾き飛ばされるのが視界の隅に見えた。
栄治は気が重くなりながらも、今後の事を相談し合うために、その日も試衛館にやって来た。
ところが、先に来ていた忠一と彩から、開口一番知らされたのは——
「風山さんが行方不明!?いつから!?」
「一昨日の夜からでス。メールにも通話にも出ないのでス」
「ちょ、ちょっと待て…!」
栄治は自分の携帯電話で、知信の番号にかけてみるが
《…お客様のおかけになった電話は、現在電波の届かない所にいるか、電源が切られています…》
案の定、決まりきった自動音声が返ってくるだけだった。
栄治は「やっぱり…」という顔で電話を切った。
「どーだ?」
「…駄目だ。向こうの電源切れてる」
「いったい、どうしたのでショウ?何か、アクシデントがあったのでしょうカ?」
この状況で一番の頼みの綱である知信の突然の不在に、三人は正直うろたえた。
やがて、忠一が何かを思いついたように呟いた。
「まーさかなぁ…」
それを聞いた栄治と彩が、そろって忠一を見る。
「Huh? どうしましタ?忠一サン」
「何だよ?雪原」
忠一は右手の人差し指をピッと立て、いかにも神妙そうな面持ちで低く話し出した。
「風山さん…あの借金の山にビビって、一人だけ夜逃げしたんじゃねーだろうなぁ?」
「そんな、まさか…」
あの真面目な知信に限ってありえない。
栄治も彩も、忠一の推測を一蹴しようとした。
だが、時折垣間見てきた知信の腹黒い笑顔を思い出した途端、三人は思わず声を合わせてた。
「「「ありえなくもない…!」」」
——その時。
唐突に事務室のドアが開いて、三人は肝を潰して飛び退いた。
「うわっ!?」
「だだだだ誰ぇっ!?」
「It's a poltergeist!?」
「ひどいなぁ。幽霊じゃないよ?」
そこには、三人の過剰反応を面白がっているようにも見える表情で知信が立っていた。
「風山サン!?」
「今まで、どこにいたんですか!?」
「つーか、なにしてたんスか!?」
矢継ぎ早の質問攻めにもうろたえず、知信はいつものようにニッコリ笑った。
「敵情視察」
「へ…?」
二日も留守にしていた理由をたった一言で片付けられて、三人は呆気に取られた。
「しいて言うなら、そんな所かな」
「『敵』って…!じゃあ、もしかして…?」
栄治が遠まわしに探りを入れる。
知信は、その疑問を笑顔で肯定した。
「そう。やっと、彼ら回天狗党の根城に目星を付けたんだ。こちらの基地だけ知られているっていうのは、フェアじゃないからね」
なんと、芹沢たちのアジトを調べてきたと言うのだ。
そんな重要な事をいともあっさりと語った知信に、三人は驚くのも忘れてまたもや呆気に取られた。
「それで…?ケータイも切って雲隠れしてたんですか?」
「何で教えてくんなかったんスかー!?」
「そうでス!ワタシたち、心配しタでス!」
栄治は呆れ顔になり、忠一と彩は蚊帳の外に置かれていた恨み言を知信にぶつけた。
しかし知信は、そんな三人の反応などどこ吹く風といった調子だった。
「『敵を欺くには、まず味方から』だよ」
「「「いらん偽装工作しなくていいですっ!!」」」
三人はぴったりの息で、猛烈な突っ込みを入れた。
当然、そんな事で鉄壁の笑顔を崩すような知信ではなかったが。
「全く…!俺たちの借金問題も片付いてないんですよ?なのに、そんな…」
「あぁ。それなら大丈夫。大学の同期に、多重債務者救済を引き受けてくれる弁護士がいてね。格安で相談に乗ってもらえる事になったんだ。だから、ひとまずは安心していいよ」
知信にこれ以上ない解決策で苦言を遮られた栄治は
「…あ、はい」
としか返事が出来なかった。
忠一と彩は、もう段取りは知信に全部任せてしまえ!と心に決めていた。
その空気を察したのか、知信は満面の笑みでこう締め括った。
「まぁ、とにかく。これ以上、後手に回るわけにはいかない。今度は、こちらから攻めようと思うんだよ」
そう話す知信の頭に、先日の夜の顛末がふと浮かんだ。
「何やってんだい!この頓痴気!」
呆れ気味の文乃に咎められて、大の男が二人揃って恐縮していた。
「すんません…。てっきり、訴訟絡みで姐さんを追って来た、どっかの組のインテリだとばっかり…」
「『商談』なんて言うから、姐さんを脅して示談にしたがってる野郎か何かだと…」
どこかの『組』のインテリヤクザか、雇われ弁護士と勘違いされていたようだ。
そうと知った知信は、心外だと言わんばかりにひきつった笑みを浮かべていた。
「私がそんな風に見えましたか?あぁ。夜の暗闇で、よく見えていなかったという事ですね?わかります」
「へぇ…。コイツがそんなに腹黒く見えたのかい?風山も『大人』になったって事かね?」
「何ですか?まるで人を子供だったみたいに」
「アダ名に国木田独歩をもらってた時点で、理想をこじらせた『子供』だったってコトだよ」
むっとする知信に、文乃はくっくっと笑った。
「コイツらは今、アタシが世話してやっててね。…『ヤメ暴』って言ったら、わかるかい?」
知信の表情がふと引き締まる。
『ヤメ暴』とは、暴力団をやめた人間を意味する隠語だ。
文乃は弁護士として、更生を望む彼らの身元引き受け人になっているらしい。
「…成程。無傷で『足抜け』しようとするなら、法律に頼るしかない訳ですか」
「そう言う事。たかが一構成員っていっても、そうカンタンにいかなくてね。ま、法律を気にしてくれるだけ、チーマーや半グレよりはマシな相手だよ」
暴力団は、構成員を簡単にやめさせない事も多い。組の内情を知り過ぎていたり、資金源である『シノギ』のルートを警察に漏らすかもしれないと警戒するからだ。強引に飛び出したりすれば、どんなひどい嫌がらせをされるかわからない。
そこで、警察が『足抜け』させた彼らが出戻らないようサポートするのが、文乃のような弁護士だった。
もし組側が彼らに危害を加えようものなら、法律のプロとして犯罪行為の証拠を即警察に上げる事が出来る。そうやって組側を牽制する事で、彼らに嫌がらせをさせない盾になるのだ。
むしろ、そういった組織的な制御を受けない『チーマー』や『半グレ』のようなストリートギャング気取りの集団の方が、度を知らない分、よりしつこくてタチが悪いとも文乃は言った。
「そうですか」
冷たくため息混じりに呟いた知信に、文乃は念を押すように言った。
「風山の言いたい事はわかるよ?どんな理由があったにしろ、その筋に足を突っ込んだのは結局自分の意志なんだ。自業自得かもしれないけどさ。今からでも真人間になりたいってんなら、アタシが手助けしてやるのもやぶかさじゃあないんだよ。この社会に真っ当な人間が一人でも増えるってんなら、そりゃイイコトじゃないか」
どこか晴れやかにも思える調子で、文乃はにっと笑った。
「そういう所ですよ。私は、西兼さんのそんな『誰も見捨てない』姿勢を見込んでいるつもりです」
今度は知信が、柔らかに微笑みながらも強い意志がこもった目を文乃に向けた。
「さっきの話しの続きかい?蒸し返してくれるね」
すると、その後ろで縮こまっていた男の一人がおずおずと声を上げた。
「あの…姐さん?兄さんのメガネだけどよ…」
「アタシを通すんじゃないよ。本人に直接言ってやんな」
文乃に言われてはたと気付いた男は、知信を正面に据えて向き合った。
「なぁ、兄さん。さっきは勘違いして悪かった。その曲がっちまったメガネ、弁償させてくれや」
「少しフレームが歪んだだけです。修理に出せば事足りるでしょう。お気づかいなく」
知信は極めて丁重に、それでいてどこか冷たく断った。
知信は、彼らのような人間が嫌いだった。世間に背を向けておきながら、世間に懸命に留まって暮らす人々を時に脅かす存在。そんな相手と貸し借りをすると考えただけでもぞっとする。その嫌悪感が、どうやっても言動のそこかしこに出てしまう。
それでも、男は怯まなかった。
「いや!それじゃ、俺の気が済まねぇ!俺だって、まっとうに生きられるって証明してぇんだ。だから、ケジメつけさせてくれ」
物の言い方はいちいち物騒だが、やり直したいと云う男の気持ちは本物のようだった。
さて、いかにしてこの場を治めたものだろうか?
自分の返事をじっと待っている男を見据えて、知信はこう切り出した。
「そこまで仰るなら、貴方の"恩人"の力を私にも分けていただきたい」
次に文乃の方を見ながら、知信は続けた。
「いかがでしょう?西兼さん。先程の私からの依頼を引き受けていただく代わりに、彼の過失を不問にする…と云うのは?」
虚を突かれてきょとんとする男に対して、文乃は少しだけ驚きに目を見開いたようだった。
「…ホント。アンタも『大人』になったもんだね」
文乃は「降参だ」とばかりに、笑って両手を上げてみせた。
「あーぁ…。辛いトコだけど、及第点だね。その交渉力で、さっさと商談の一つや二つでもまとめて、親父さんを安心させてやればいいのにさ」
やがて、バーテンダーの通報で警察官が駆け付けた。
その警察官も勤務の場所柄、こう言った騒ぎには慣れっこのようで
「あぁ。ちょっとした行き違いでしたか。じゃあ、また何かあったら通報してください」
と言うや、あっさり帰って行った。
上機嫌で帰宅した知信が自室の壁に監察方からの『矢文』を見つけたのは、既に深夜になろうかという時刻だった。