旧市街の近く。足場とビニールシートで覆われた工事中のビルの上。 遠くには、旧市街の暗がりを挟んで、表通りから駅前までの眩しいネオンの道が見える。
そこに、捜索から戻ってきた回天狗党が一堂に会していた。
「…それで?奴らを逃がしておいて、お前ぇはのこのこ戻って来たってぇ訳か?」 仁王立ちした芹沢は、いつもように余裕の笑みを浮かべて言った。 だが、目は笑っていない。
新見は頭を垂れてひざまずき、じっと押し黙っている。
「何とか言ったらどうだ?えぇ?」 言葉だけで人が殺せるとしたら、芹沢が新見を糾弾する台詞はまさに首に振り下ろされる寸前の介錯刀だった。
不気味なまでに淡々とした非難は、芹沢が暴発寸前の態度である事を新見は熟知していた。
「…面目次第もありません」 「新見…。俺がお前の詫びを欲しがってるように聞こえたか?」 「……」 少し下がった場所では、平山と平間が冷や冷やしながら事の次第を見守っていた。 芹沢の性格からして、本当に新見を斬り捨てかねないからだ。
かつて新選組副長でもあった新見は、芹沢派の一掃を狙っていた土方歳三の策にはまり、法度破りとして一人切腹させられた。 唯一、新見を庇えるはずだった芹沢は、同志の助命をするどころかむしろその無策を非難し、長年の懐刀をいともあっさりと見捨てた。
今度の事にしてもそうだ。潜んでいた監察方の気配に気付かず、討ち取れたはずの幽士隊をみすみす逃したのは、新見にとって重大な失策だった。
「俺たちが欲しいのは、お前の詫びでも、ましてやそのそっ首でもねぇ。なくした憑代と、そいつの力で俺に逆らってきやがる青二才どもの敗北だ。…違うか?」 「…心得ております」 とりあえずは断罪が免れた事を察して、新見は勿論、平山と平間もホッと胸をなでおろした。
「さて…」 新見を叱責し終えた芹沢が、やおら振り向く。
回天狗党の立ち位置とは反対側の鉄骨の先に、天狗面の男とその脇に控える藤堂が立っていた。
「新見。連中を取り逃がしたのは、どの辺りだった?」 「は。木造の家屋群と異国風の家屋群の境目です」 「そこぁ確か…そちらさんの割り当てだったよなぁ?先生さんよ」 当て付けるような芹沢の態度に気圧されぬように、藤堂は顔を固くして必死に平静を装った。
「そうでしたね」 「他に、何か言う事があんじゃねぇのか?」 「貴方こそ、私の謝罪を求めているように聞こえますね」 「あんたに詫びられた所で、連中を仕留められる訳でもあんめぇ」 「では、当方から言うべき事は何一つありません。標的を見つけ損ねた私共の落ち度を、『偶然』割り当て範囲を越境した新見殿が補おうとされた…それだけの事」 天狗面の男は、『偶然』を殊更強調して言った。
当初の打ち合わせ通りに事を成さなかった事実を認めつつも、藤堂に割り当てられていた探索範囲に新見が入り込んでいた事実を示した。 それは即ち、『新見、ひいては芹沢派は、自分たち二人を疑っているのではないか?』という状況証拠だった。
芹沢は天狗面の男に鎌を掛けたつもりが、どこ吹く風と受け流され、あまつさえ回天狗党の内部分裂を示唆された格好となった。
相手は、かつて一門を率いた論客だ。さすがに手ごわい。
のらくらとした押し問答では埒が明かないと断じた芹沢は、天狗面の男に向けていた矛先を藤堂に変えた。
「てぇ事は、だ。万一、新見が気付かなけりゃあ、奴らはまんまと逃げおおせてた訳だが…。そん時、担当していた肝心のお弟子さんはどこにいたのかねぇ?…どうだ、新見?」 芹沢は藤堂に視線を移し、新見にとある可能性を示唆する。
探索を担当していた藤堂が、幽士隊を見逃すつもりだったのではないかという可能性を。
芹沢の意図を察した藤堂は身がすくむ思いがした。 ドクン…と、自分の脈拍が聞こえたような気がする。
当時の記憶を手繰る新見にじっと見据えられ、自分の命運を握られた恐ろしさに全身が総毛立つ。
早々に引き上げたつもりだった。 芹沢派は、割り当てを越えて探索には来ないと高をくくっていた。 幽士隊から立ち去る自分の姿は、見られていないはずだった。 しかし——
新見の返答如何では、敵を見逃した裏切り者として、さらに疑われれば内通者と断じられ、ここで最悪の結末を迎えかねない。
藤堂は己の精一杯の自制心を総動員して、激しく動揺する感情をぐっと押さえ込んだ。
動悸に息が詰まる。背筋に冷や汗が伝わる。
隣に居る師にまで累が及ぶ可能性にも思いが至った時、藤堂の緊張は頂点に達した。
しばらくして、新見が藤堂からふいっと視線を外した。
「…いえ。居合わせなかったものと存じます」 新見は、芹沢に言った。
窮地を脱した藤堂は、誰にも気付かれないうちにホッと息を吐いていた。
あてが外れた芹沢は、自嘲気味に肩をすくめた。
「…だ、そうだ。が…おたくの弟子ぁ、とんだ頓馬だな。なぁ、先生さんよぉ?」 「私からも、よく申し付けておきましょう」 「ふん…っ!」 最後のあがきに投げ付けた嫌味も涼やかにかわされ、芹沢はそれ以上の追求を諦めざるを得なかった。
芹沢派の門下たちに振り返ると、袖から腕を外して悠然と歩み寄る。
「今日の所ぁ、引き上げだ。かなり予定が狂っちまった。…作戦を練り直すぞ」 「は」 「「へいっ!」」 新見に続き、平山と平間が声を揃えて応えた。
「つー訳で、いつもの場所で軍議だ。先生さん」 「後ほど、伺いましょう」 天狗面の男の返事を聞くと、芹沢は手下たちを従えて夜の闇に消えていった。
「先せ…」 「場所を移そう。付いて来なさい」 「は…はい」 こうして、天狗面の男と藤堂は、消灯時間も差し迫った中央病院の貯水タンクの上にやって来た。
藤堂は、気が気でなかった。
あの場では自分を庇ってくれた師だったが、事の真相を察して叱り付けるつもりなのかもしれない。
そうなって当然と自分に言い聞かせつつも、尊敬する師に非難されるのは耐え難い心痛だった。
いつものように一歩前に立ち、背を向ける師に、藤堂は恐る恐る声を掛けた。
「せ、先生…あの…」 「ここには、星がない」 藤堂の問い掛けを遮るように、天狗面の男が唐突に切り出した。
師に倣って、藤堂も漆黒の夜空を見上げる。 見上げれば、一際明るい一等星がポツリポツリとわずかに瞬いているだけだった。
「はい…。本当に…」 「我々が生きていた頃など、晴れた夜には満点の星が見られたものだったが…」 「そうですね…」 幕末の頃には、想像も出来なかった光景だった。
町は光の洪水のように輝いているのに、夜空がこんなに暗くなっているとは信じられなかった。 かつて頭上を照らしていたあの星々は、遠い遠い時を経て地に落ちてしまったかのようにも思えた。
「何故、我々はこんな遠い世に黄泉がえってしまったのだろうね…」 「先生…?」 「この世で起こる事全てに何か意味があるのだとしたら…我々がここに現れた意味は、一体何なのだろう?」 「そ、それは…」 藤堂が答えあぐねていると、天狗面の男は面の下で溜息をついた。
「…意味など、始めからないのかもしれない。しかし、人は謂れなきものを無条件に受け入れられる程、出来た生き物ではない。故に、為さんとする理想、降りかかる出来事、そして己の人生にも、何らかの意味を見出そうとするのだろう」 「はぁ…」 「何でも良い。『意味がある』と思えば、無気力になりかけた心を奮い立たせ、前を向いて生きようと思える。人がこの世に意味を求め続けるのは、他ならぬ、人が人として生きんが為の足掻きなのかもしれないね」 師の言葉からは、人の世を儚む無常観が感じられた。
藤堂が新選組との暗殺劇に散ってのち百三十年の間に、日本は別の国のように大きく様変わりしていた。
それを見た時、幕末に生きていた頃は命に代えられる程かたくなに信じてきたものは、所詮は砂上の楼閣だったと知った。
「…だとしたら、悲しいですね。この世の意味は、人が勝手に付けたものに過ぎない。最初から、この世に…人生に意味なんてないのだとしたら…その『意味』を作ってでも生きようとするのが『人』だとしたら…悲しいさがですよね」 眠っている間に、跡形もなく変貌を遂げていた故国。
見知った時代の面影は、小さな石碑や記録の中に押し込められ、もはやどこにも見つけられなかった。
その目で見たものは、かつて命懸けで変えようとした国が今は平和と享楽に満ちているという事実だけだった。
確かなものなど、何一つない。変わらぬものなど、何一つない。
亡霊としての仮初めの生を受け、藤堂はそう思い知らされた。
「それでも…君は諦めたくないのだろう?」 「え…っ!?」 師の思わぬ返答に、藤堂はうなだれていた頭を上げた。
「たとえ私に咎められ、芹沢殿に処断されたとしても…仮初めのこの生に見出した『意味』に忠実に動いた。君はそういう男だ」 見透かされている…?
藤堂は言葉に詰まった。白を切ろうか、認めてしまおうか、迷った。
師の言葉は、藤堂が幽士隊を見逃した事に気付いているとも気付いてないとも取れる、曖昧なものだった。
「それを…『信念』というのかもしれない」 藤堂の返事を待たずに、天狗面の男は静かに振り向いた。 春の夜風に、黒羽二重の羽織がフワリとひるがえる。
「やりなさい、藤堂君。それが、君の生きる意味であるのなら。誰にも…たとえ師である私にも折れない、揺るがぬ信念であるのなら」 やはり、私の考えなどお見通しなのだ。先生は、私の私闘を許して下さるのだ。
師の真っ直ぐな助言と面越しの眼差しに見据えられ、藤堂は感極まった。
「…はい!」 ようやく絞り出した返事は、涙声にむせんでいた。
今の藤堂には、込み上げて来る感情を押さえ込むだけで精一杯だった。
(…ん?朝…か) 目が覚めた栄治は、寝ぼけ眼のまま、のそのそとベッドから起き上がると、軽く手足を動かしてみた。
まだ、全身が重く、関節という関節が軋む。
寝起きのせいだけではない。遅くまで続いた、夕べの激闘の結果だった。
それでも、前に平山と平間二人を相手にした後に比べれば、疲労はわずかに軽かった。
勿論、体調は完全とはいえない。
それでも、今日は行かなくてはならない——。
夜も深まる午前零時——約束の子の刻。
藤堂が指定した場所は『天守』——城址公園に復元された城の事だった。
深夜の剣崎町は人気も少なく、通る車もまばらだ。
静まり返った城址公園に、栄治はこっそり入っていった。
以前に傀儡に追われた時のように、フェンスを乗り越え、竹林を突っ切り、御堀前の広場に出る。
忠一や彩たちは、事前に知信が提案した作戦通り、距離を置いて後を付いて来る手筈になっていた。
大勢で目立つ訳にはいかない。 栄治が一人で来る事が藤堂からの条件である以上、それを破ったと向こうに知られれば今夜の会合はなしになってしまうだろう。
か細い三日月に弱弱しく照らし出された天守の前に、栄治は一人立った。 ポケットの中に忍ばせた『鉢金』は、いつでも取り出せるように右手でしっかりと握っている。
ふと左腕にした腕時計を見た。デジタル時計が、液晶画面に十二時丁度の時を刻んだ。
「来たか」 不意に、藤堂の凛と澄んだ声が降ってきた。
発せられた方をよくよく見れば、天守の一階の窓からこちらを見ている藤堂の顔があった。
始まった。また長い長い一夜が。
亡霊たちの意志と意志とがぶつかり合えば、そこはひと時の戦場となる。 この先に、どんな罠が待っていようと、どんな危機が訪れようとも、引き返す事は叶わない。 また昼間の日常に戻りたければ、力を以て切り抜けるしかないのだ。
栄治は、手の中にある『憑代』をぐっと強く握り締めた。
「来たよ。約束どおり」 藤堂は、窓の外を探るように慎重に身を乗り出してきた。
「一人か?」 「一人だ。約束どおり」 藤堂は、刀の鞘を窓枠に引っ掛けないよう注意しながら、石垣の上にヒラリと出た。
「『憑代』は?」 「ここだ。約束どおり」 栄治はポケットから『鉢金』を出してみせると、それを藤堂に向かって高く掲げた。
「…よし」 待ち合わせの条件に相違がない事を確信した藤堂は、不意に踵を返した。
「上がって来い。こっちだ」 そう言って、石垣上の細い道を城の裏側へと回っていく。
一度取り出した『鉢金』をポケットに戻しながら、栄治は小走りで藤堂の後を追った。
広場から御堀を半周すると、城の反対側には御堀を渡る橋と天守の中への通じる門があった。
栄治が入り口を知った事を確かめると、藤堂は近くの窓からさっさと中に入っていった。
「あっ…!」 置いていかれては見失いそうな気がして、栄治は慌てて走り出した。
橋を渡り、門をくぐった栄治は、『順路』の案内板に従って階段を上っていく。 階段はそれなりに急だったが、栄治は息を切らさずに登っていけた。 仮にも陸上部として人並みよりは鍛えている自負はある。ましてや、ここ最近は特にだ。
四階まで来ると、次の上への入り口は階段ではなく、一本の梯子だった。 その梯子の上から、かすかな月明かりが漏れ出ている。 木製の梯子は、足をかける度にギシギシと音を立てた。
梯子を登り切った栄治は、淡い月光が降り注ぐ狭い一室に辿り着いた。
見回すと、もう階段や梯子など上へ通じるものはなかった。
(ここが…てっぺん?) 最上階は下の階に展示しきれない物や、貴重な年代物が硝子ケースに収められた特別室のようだった。
(あいつ、どこに…?) 藤堂の姿を探して、栄治は部屋の奥へと歩みを進める。
すると、前方の窓の外——天守の屋根の上に、藤堂は悠然と立っていた。
「心配するな。落ちはしないし、罠もない」 藤堂の言葉に従って、栄治は窓から外に出ようとした。 だが、昔の建物とはいえ、かなりの高さがある。吹き付けてくる夜風も強い。
一瞬、栄治は『鉢金』の力を借りるべきか迷った——が、やめた。
なぜだか、ここは自分の力で藤堂と向き合いたかった。
栄治は窓枠に手足をかけて乗り出すと、慎重に屋根の上に下りた。
屋根の傾斜は思ったよりも緩やかで、しかも落下防止用のネットまで組まれていた。 城の保存会か、あるいは剣崎市が、観光客の安全の為に設けたのだろう。
少し安心した栄治はつかまっていた窓枠から手を離すと、慎重な足取りで藤堂との直線上に並び立った。
藤堂は険しい目で栄治をじっと見据えたまま、沈黙を保っている。 「喋る気がないなら…」と、開口一番、栄治の口をついて出たのは
「どうして、俺たちを見逃したんだ…?」 という最大の疑問だった。
全員が弱っていたあの時、なぜ確実に止めを刺さなかったのか。
知信は、一人ずつ確実に葬る為の策ではないかと推測した。 だが、栄治にはどこか引っかかるものがあった。
その疑念は、この場で藤堂がすぐに斬りかかって来ない事から尚更が強くなった。
こんな回りくどい事をして、藤堂は一体どういうつもりなのか。 本人からその真意を聞き出したいと、栄治は淡い期待をしていた。
やがて、藤堂がゆっくりと口を開いた。
「借りを…」 瞑目して続く言葉に、栄治は耳をそばだてた。
「『あの時』の借りを…返しただです」 「『借り』…?」 伏目がちな表情で、藤堂はさらに続けた。
「貴方は、私を二度も逃がしてくれた」 「『二度』…?」 『藤堂』を『逃がす』というキーワードを聞いて、栄治の脳裏に閃くものがあった。
『…待ち伏せ部隊の一人だった永倉新八が、局長の密命で藤堂平助だけは助けようとしたっていう話しもあるけど…』 幕末に生きていた頃の藤堂と御陵衛士について、知信が教えてくれた情報だった。
「そりゃあ、あの時は怒りましたよ。怨みましたよ。尊敬していた師を、同志を殺されて…。しかし、我々は武士です。戦いの中で死ぬのなら、それもまた宿命。大儀の為に命を捨てる覚悟はありました。でも、あんな…暗殺という卑怯な手段で陥れられた事だけは、どうしても許せなかった!」 次第に激情を帯びていく藤堂の訴えに、知信からもらった知識が重なる。
『…伊東甲子太郎を単身近藤勇との会見に呼び出し、お酒を勧めて千鳥足で帰ろうとした所を大勢で待ち伏せて殺害。その遺体を七条油小路という通りに放置して、残りの衛士たちが師の亡骸を引き取りに来た所を、やはり大勢で待ち伏せたんだ。駆けつけた衛士七人のうち、三人が斬り殺された…』 「その上…」 藤堂が発した次の言葉に、栄治は現実に引き戻された。
「その上、貴方が私一人を逃がそうとした事が、尚更腹立たしかった!私は一人前の武士として…『敵』としてすら認められていないのかと!」 『…藤堂平助だけは助けようとした…』 藤堂が語っているのは七条油小路の暗殺劇だと栄治が思い至った——その時。
ドクン!…と、今までにないくらい強い鼓動を『鉢金』が発した。
(えっ…?) 突然の出来事に驚きながらも、栄治は藤堂の話しに今一度意識を集中させた。
「でも、それは…」 「…解っています。貴方は隊を抜けてもなお、私を試衛館の同志として見てくれた。だから私を生かそうとしてくれた。 …その心にだけは、応えるべきかと」 栄治は、何となくわかった。
藤堂は自分を通して、自分ではない、別の『誰か』に話しているのだと。 その『誰か』とは多分——この『鉢金』の本当の持ち主なのだろうと。
そう考えれば、栄治一人を呼び出した事も、わざわざ『憑代』を持って来させた事も、全て辻褄が合う。
さっきに続いて、『鉢金』が脈を打ち続けているのも、藤堂の話しに反応しているように栄治には思えてならなかった。
藤堂は『鉢金』の主に、生前に続いて死後にも助けられた借りを返したかったのだ。
「じゃあ、俺も…その人に助けられた事になるのかな。その人が昔あんたを助けたから、俺たちは今あんたに助けられた」 栄治の予想を否定するでも肯定するでもなく、藤堂は堰を切ったように感情的に語り続けた。
「伊東先生も、服部さんも、毛内さんも、私の大切な同志でした。その同志を殺した事は、絶対に許せません!」 『壬生浪士組で近藤派が芹沢派を粛清して、新選組を会津藩から拝命した事は、この前話したよね?…新選組に伊東甲子太郎という人物が、門下生を伴って入隊して来るんだ』 栄治が聞きなれない二名の名前は、知信が言っていた、伊東門下のうち、犠牲になった二人なのだろう。
「…ですが、近藤先生や貴方方も紛れもなく私の同志でした。だから…」 ここに来て、藤堂の口調がふっと静かになった。
「だから私には、どちらか一方を選ぶ事など出来ませんでした。私にとって、同じ『同志』を天秤に掛けるなど…」 『…伊東甲子太郎の寄弟子だったのが、藤堂平助。伊東道場から近藤勇の道場『試衛館』に移って、浪士組として上洛後、近藤派の主要メンバーとして隊の幹部の一人になった…』 二つの違う『仲間』の間を行き来し、その両方ともが拠り所であったが故の苦悩だった。 藤堂は二つの『仲間』の間で引き裂かれ、悲運な結末を迎えたのだろうと栄治は察した。
「…あんたを助けた『その人』は、あんたの味方だった。けど、仲間を殺した敵でもあったんだ?」 事実を確かめようとする栄治に、藤堂は答えない。
「…でも、やっぱり『その人』は、あんたの仲間だったんだろう?」 やはり、藤堂は答えない。
夜の闇と月の逆光で隠れてはいるが、藤堂が今にも張り裂けそうな顔をしている事を、何となく栄治はわかっていた。
「…俺が『その人』ならともかく、そういうことは本人に言った方がいいと思う」 もはや叶わない事とは知りつつも、栄治はそう言わずにはいられなかった。 自分が、かつての藤堂の仲間でもなく、『鉢金』の主だった『その人』でもない以上は。
「そう…だな…」 そこで初めて、藤堂は『栄治に』返答した。
再び訪れた、長い沈黙。
それを破ったのは、やはり栄治の方だった。
「あんたの仲間だった『その人』は…この『鉢金』の前の持ち主は、どんな人だったんだろう?これだけじゃない。雪原の『槍』や、彩の『籠手』や、風山さんの『刀』も…どんな人たちのものだったんだろう?」 『どんな人たちだったんだろう?』 栄治の言葉が、藤堂の中で反芻される。
(私の仲間は…どんな人たちだったのだろう?) 藤堂の脳裏に、不意に懐かしい記憶がまざまざと甦ってきた。 あの時代、あの場所で、剣の腕を磨き合い、夢を語り合い、全力で奔り続けた仲間たちとの思い出が駆け巡った。
「…きっと、あんたみたいな人たちだったのかな?」 弾かれたように、藤堂は目を見張った。
「あんたみたいな侍だったんじゃないのかな?…って、違った?」 素面に戻った栄治の問いかけを藤堂は無言で肯定していた。
(そう…そうだ。私の…私の仲間は…)武士(もののふ)』だった。いや、『武士』になろうとしていた。 周りの人間が、後世の人間が、何と言おうと何と見ようと。彼らは、『武士』になったと信じていた。
そのために戦った。そのために生き抜いた。それが彼らにとっての全てだった。だから、悔いはない。
だから、たった一つの心残りは——
「松永栄治殿」 意を決した藤堂が、栄治の前に進み出る。
「折入って、御願い申し上げたき義が御座る」 「えっ?」 「今ここで…貴殿に、太刀合いを申し込み致す!」 藤堂の突然の申し入れに、栄治は呆気に取られた。
「あの時の決着をつけなければ、私は…私は、一歩も前に進めぬのだ!」 藤堂の言い分は、栄治にも何となくわかるような気がした。
だが、藤堂が本当に望んでいた太刀合い相手は、既にこの世にはない。 自分は、亡霊本人ではない。 『憑代』に遺された力と人格の一部を宿せる、ただの器に過ぎないのだ。
「でも、俺は…」 「わかっている!貴殿とではなく、その『憑代』に力を宿していった『その人』と!」 しかし、藤堂は一歩も引かない。
目の前に居る少年が、かつての仲間本人でない事はわかっている。 それでもいい。自分の背中を押して欲しい。それは『鉢金』の宿主にしか出来ない。藤堂の双眸に宿った光は、彼の言葉以上に雄弁だった。
栄治は、思わずためらった。
一対一の真剣勝負。
決闘が熱を帯びてくれば、互いに無傷で済むとは、到底思えない。下手をすれば、『鉢金』の力を宿している栄治自身にも危険が及ぶ。 来たるべく芹沢一派との決戦に備えて少しでも余力を残しておくようにと、知信に釘を刺されたばかりだ。
芹沢とは、また戦わなくてはならない。
かといって、藤堂の決意を無碍にはしたくない。
どうするのが、一番いいのか?

その時、栄治はまた『鉢金』の『声』を聞いた。いや、聞こえたような気がした。
いずれにしても、『鉢金』が声にならない声で、何かを強く訴えかけている事だけはわかった。
その鼓動は、藤堂の申し出に応えると——否、今こそ応えなければならないと主張しているように栄治には聞こえた。
(…すみません。風山さん) 近くに潜んでいるであろう知信に、栄治は申し訳程度の侘びを呟いた。
顔をこわばらせたまま返事を待つ藤堂を、栄治は真っ直ぐに見据えて言った。
「…わかった」 ポケットから取り出した鉢金を額に巻きつける。
今まで厄介にしか思って来なかった(つわもの)の意思の欠片に、栄治は初めて自ら語りかけていた。
(いくぞ…!力を、貸してくれ!) 月光を集めたような、否、それ以上に眩い青白い光が栄治を包み込んだ。 光が晴れると、栄治は颯爽とした幽霊戦士に成り変っていた。
それを見た藤堂は、満足気に破顔すると同時に武者震いを覚えた。 忘れかけていた、百三十年ぶりの充実感だった。
藤堂は数歩下がって間合いを取り、鯉口を切ってスラリと刀を抜いた。
「手加減は無用です。本気でぶつかり合えなければ、この太刀合いに意味はない」 構えは、正眼。 藤堂が教えを受けた、北辰一刀流の基本型だ。
「それで、良いのか?」 栄治は——否、『鉢金』の意思が栄治の口を借りて聞いた。
「はい」 勝てるかどうかわからない決闘を前にして、藤堂は笑みさえ浮かべていた。
「ならば…」 『鉢金』が栄治に抜刀させた。
「もはや何も言うまい」 藤堂の決意の固さを確信した栄治は、自ら『鉢金』に全てを明け渡した。
(さあ…存分に、戦え!) 栄治の意気に応えるように、『鉢金』の意思は刀を八双に構えさせた。
二人の間を一陣の風が吹きぬけた。
「…参る!」 最初に仕掛けたのは、藤堂だった。
上体をやや前かかりにして、猛然と打ちかかって来る。
栄治も同時に、爪先で屋根瓦を蹴った。
突進する途中で、藤堂が刀を振り上げた。
(上段か…!) 藤堂の上段に対して、栄治も上段で応じた。
双方の刀が激しく打ち合わさる。
その刹那、栄治は藤堂との間合いのあまりの近さにハッとした。
(踏み込みすぎだぞ!…まさか!?) 栄治が相手の狙いに気付いたのと、藤堂が刀を打ち乗せたのとは、ほぼ同時だった。
面を狙った頭上への打ち被せに、栄治は咄嗟に刀と身を引いて右へ飛び退いた。 紙一重でかわした栄治は中段に構え、打ち抜いた藤堂はすぐにまた正眼に構え直す。
浅葱色の花弁が、一片舞っていた。
栄治の段だら羽織の左の袖口と裾が、バッサリと斬られている。
藤堂が、初太刀からいきなり額を割りにかかる大技を繰り出していた事がわかる。
(相打ちも辞さぬか…ならば!) 栄治が仕掛けようとするが、藤堂はそれに動きを合わせ、間合いを保った。
二人は構えを解かぬまま、狭い屋根の上でジリジリと先の先を取り合った。
対峙している間にも、藤堂からはむき出しの闘志がビシビシと伝わってくる。 『鉢金』を拾ったあの日。放った気迫で傀儡を居竦ませた場面が、栄治の脳裏にフラッシュバックした。 あの時、傀儡に放った気合を、今度は外側から見せられているようだった。
(これが、本物の気合ってやつか…!?すごい…!) そう思ったのは『栄治』だ。
藤堂の激しくも真っ直ぐな気にあてられるたびに、神経は研ぎ澄まされて、身が引き締まる思いがした。
ついに、痺れを切らした藤堂が再び仕掛けてきた。
相手を勢いづかせまいと栄治も突進し、文字通り二振りの刀が火花を散らせた。
渾身の一撃から、二人は互いに一歩も退かなかった。
力任せの鍔迫り合いは、体格と体力からして栄治には不利だ。 そう判断した『鉢金』の意思は、藤堂に押し切られる前に、栄治に打ち合わせを解かせた。 両腕両肩の撥条(ばね)を使って刀を弾き返し、後方に飛び退った栄治と藤堂は、今度は動きを止める事なく再びぶつかり合った。
上段、右胴、小手、袈裟斬り、突き、と絶え間ない連撃が続く。 立ち位置を振り代わりながら、栄治も藤堂も一歩も引かない技の応酬を繰り広げた。
やがて、足場の狭さに辟易したのか、屋根の端に到達していた藤堂は大きく跳躍して屋根から一気に飛び降りた。
栄治もそれに続く。下からの逆風に、羽織や袴の裾がバタバタとはためいた。
地面に着地して御堀を飛び越えた二人は、天守前に広がる広場で再び対峙した。
藤堂は間髪居れず上段に構えると身軽く飛び上がり、猪突猛進の勢いで斬り込んで来た。
栄治は咄嗟に刀を水平にして左に引き気味に構え、藤堂の一撃を受け止めた。
が、これは猛撃の始まりに過ぎなかった。
再び刀が離れたかと思いきや、藤堂は体当たりするように、絶え間なく上段から斬り込み続けた。
左面をかわせば、次は右面が来る。
交互に面を狙って来るだけなら、ガラ空きの胴に斬りこめば栄治の反撃は可能だった。
が、その手を封じるように、藤堂の刃は胴や小手にも所構わず斬り付けて来る。
一寸の隙も与えない怒涛の攻めに、栄治は防戦一方となった。
(いかん…!) 藤堂の連撃をさばきながら、栄治は息切れを感じ始めた。
廃屋での戦いの疲労が残っていた分、息が切れる時間が早い。 手が痺れ、腕が軋み、足取りが重くなっていくのがわかる。
対する藤堂は、膝を高く上げて左右の足を交互に使いながら、ポンポンと身軽に飛び続けていた。
一瞬でも気が散れば負ける。
だが、藤堂とてこんな激しい動きが長時間続けられるはずはない。
持久戦を避けたいばかりに焦って反撃しようとすれば、逆に返り討ちに遭いかねない。
今は、この猛攻をしのぎ切るしかなかった。

芹沢との決戦に備えるなら、知信の言う通りにここで勝負を捨てなければならない。
だが、栄治は一点の迷いもなく、その判断を退けた。
今この時、この場所で、この身で、幕末を戦った二人の剣士の真剣勝負を一番間近で見届けられるのだ。
ここから先は、見たことがない——いや、見る事も叶わなかった、魂と魂のぶつかり合いになる。
それを見てみたい、という危険で本能的な好奇心が、栄治を崖っぷちで踏み止まらせていた。

こめかみが、チリチリと熱い。戦い続ける者の身を焼け焦がす、阿修羅の劫火がまた燃え上がっていた。
それは、藤堂も同じだった。
全身が爆発しそうな高熱、内側から五臓六腑を爛れさせるような闘気の焔が燃え上がっていた。
藤堂の魂にも、阿修羅の劫火がともったのだった。
(退かない…!私にあるのは、前進のみ!) 栄治は、無我夢中で戦っていた。 先の傀儡との激闘の時のように、思考は既に飛んでいた。 考えるよりも先に、手足の方が対応を知っていた。 かつて『鉢金』の主が修練したであろう動きを借りて、己が身に迫り来る刃を次々と捌いていった。
栄治の疲労は、極限にまで達していた。
その時だった。

…ドクン…と、栄治の中で『何か』が臨界点を超えた。
全身を焼き尽くさんばかりだった灼熱が、潮が引くように急速に冷めていく。
いつの間にか、音という音が消えていた。その静寂の中に、藤堂とは別の存在を感じた。
似ているが、どこか違う。
この世のものではない、一点の曇りもない澄み切った気配だった。
(この感じ…どこかで…?) 自分の傍に誰かが——そう。歴戦の(つわもの)が付いてくれているような感覚だ。
栄治は、そこに自分を突き動かしてきた力の源を垣間見た。
(そうか…!あんただったのか…!) 初めて『憑代』の力を借りた時に見た、あの幻覚。 『鉢金』に意思と力の欠片を遺していったかつての幕末の剣士が、同志だった藤堂の思いを受け止める為に、栄治を通して現れたのだ。
栄治が戦う者の感覚を知り、かつての『鉢金』の主と意識が一体になった今——
息をもつかせぬ攻撃を繰り広げる藤堂の動きに意識を向ける。
ついさっきまでは捉え切れなかったその一撃一撃が、軌跡を描いてはっきりと見えている。
明らかに、最初の頃より太刀筋が粗く、斬り込みが浅くなっている。
それを自覚している藤堂も、負けじと切れかけた集中力に鞭打って、再び全神経を刀に集めていた。
鬼気迫る藤堂の一撃一撃に込められた、痛々しいまでの無念と激情。 『鉢金』の意思は、呑まれるでもなく、拒絶するでもなく、水が低い所に流れ落ちるように、ただ全てを受け止めていた。
(藤堂…!) 栄治は真っ白になった頭で、二人の剣士の魂が対峙する様を見ていた。
(このままでは埒が明かない…!仕掛け直す!) 栄治の防御を突き崩せない様子に、さすがに限界を感じた藤堂は一瞬攻撃の流れを止めた。
すかさず、栄治は反撃に転じた。
あれほど重く感じていた手足が、重石が取れたように軽やかに動く。
下段に構え直した栄治は、すぐさま刃を中段に競り上げた。
(来るか!) 『あの人』の流派には、下段から相手の刀を打ち上げておき、腕が伸びきった所を喉元への突きや袈裟斬りで仕留める技がある。 それが来ると読んで警戒した藤堂は、技を出させる前に先手必勝を狙い、大きく上段に振りかぶった。
予想外の動きにひるんだのか、わずかに動きが鈍った栄治に向かって渾身の斬り下ろしを振り下ろした。
「たぁっ!」 栄治は一瞬早く体を右斜め後方へと下がってかわしていた。
「まだまだぁ!」 打ち下ろした隙を埋めるように、藤堂は続けて上段から袈裟斬りを狙った。
栄治は、今度は右斜め前方へ体を捌いき、刀を八双に構え直した。
藤堂の袈裟斬りが、栄治の左脇へ空振りする。
時を同じくして、栄治の刀が藤堂の左胴へと吸い込まれていった。
「ぐっ…!?」 藤堂が呻いた。
が、栄治は一分の妥協もする事なく、膝をつく格好で胴を引き斬った。
そして、すぐさま後方へ退いて間合いを取り、刀を中段に構え直す。
実戦での残心は禁物。致命傷を負わせたとしても、すぐに敵が事切れるとは限らない。
藤堂を斬った時——栄治の手には、何とも言えない手応えが残った。
傀儡を斬った時。手元に伝わってきたのは、袋が破れればたちまち形を失う砂袋のような乾いた感触だった。
だが、さっきはそれだけではない。無機質な傀儡にはない、何か人の体温のようなものを感じような気がした。
「ぅ…く…っ!」 栄治が凝視する前で、藤堂は左脇腹を押えながらぎこちなくくずおれた。
その指の間から、青く光る皓氣が止めどなく吹き出している。
藤堂は震える手で刀を杖代わりに地面に突き立てるが、もう立ち上がる事が出来ない。
勝負あった。
「やっぱり、敵わないか…」 藤堂はうずくまったまま声を絞り出した。
音が戻った。五感が外界との繋がりを取り戻していく。
その言葉を聞いて初めて、『鉢金』は栄治に構えを解かせた。そして、ついさっきまで死闘を演じていた相手へと歩み寄らせた。
「藤堂…」 うずくまるその横顔には、悔しさと共に、安心したような穏やかな笑みがにじみ出ていた。
淡い月の光がにわかに強まり、藤堂を照らし出した。
栄治には、最初そう見えた。
(…これは!?) だが、違った。
よくよく見れば、光源は月ではなく藤堂自身だった。
栄治が斬った傷口から溢れ出た皓氣が、だんだんと藤堂を包み込んでいく。
藤堂のこの世への未練は、栄治を通した形とはいえ、『鉢金』の主との決闘を終えた事でなくなった。
もうこの世に留まる理由がなくなり、幽体の崩壊が始まったのだ。
「これで、よかったのだな…?」 本人の気が済んだかどうか。それだけが『鉢金』の気がかりだった。
幽体は皓氣と共に宙に溶け出し、もう輪郭ぐらいしか原型を留めていない。
「最後まで…」 藤堂が呟いた静かな声音に、栄治は耳を傾けた。
「最後まで、全力で戦ってくれて…有難う…御座い…まし…た」 光が弾けた。
青く輝いていた幽体は、月光に溶け込んだかのように跡形もなく消えた。 危なっかしいくらい純粋で一途な若武者の姿は、もうそこにはなかった。
残ったのは、古びてこびり付いた血が黒く変色した刀の鍔ただ一つ。藤堂の幽体の本体だった『憑代』だ。
長年の劣化か、それとも仮初めの生に別れを告げた本人の意思なのか。地面に落ちた衝撃で、それは粉々に砕け散った。
一人立ち尽す栄治は、『鉢金』の意思が静か過ぎる事が気がかりで、すぐに変身を解けなかった。
「…これで、よかったんだよな?」 物言わぬ『鉢金』に、栄治は呼びかけた。
ふと夜風が止んだ。
よく見れば、城址公園や街の至る所で見事な桜が花開いていた。その景色が、不意にじわりとにじんで見えた。
「…そうか」 『鉢金』の『答え』を受け取った栄治は、宙に向かって呟いた。
美しい夜桜が舞う中。
男泣きに泣く『鉢金』の意思に変わって、栄治は静かに落涙していた。