第八幕

(仕留め…たんか?まぁ、えぇ。これでようやっと援護に…!) 監察方は、まだ自分の役目が残っている事を再確認し、天守広場へ向かうべく踵を返した。
ザクリと、右脇腹に衝撃が走った。
そろそろと手をやると、そこには鈍く黒光りする苦無が刺さっていた。
まさかと思って見れば、さっき倒したはずの新見が上体を起こしてこっちを睨んでいた。
「そ…んな…阿呆…な…!?」 監察方は力が抜けてバランスを崩し、今度こそ本当に幹から落下した。
落ちてきた監察方をいつの間にか立ち上がっていた新見が見下ろしていた。
「変わり身は…もう、なしか?」 新見は含んでいた黒い千本をべっと地面に吐き出した。
苦無で叩き込まれた瘴気に蝕まれる中、監察方の目が動揺に見開かれる。
「影千本とは、やってくれたな」 拾い集めた小石を千本に混ぜて矢玉を節約してまで手数を増やしていたのは、新見に残りの千本の数を錯覚させるため。
新見は今まで、千本が暗闇でも放つわずかな銀色の光を頼りに軌道を目視していた。
そうして目が慣れてきた最後になって、監察方は最後の一つに取っておいた黒塗りの千本を放ったのだ。
だが、起死回生に放った最後の千本をも捌かれ、監察方は絶体絶命の窮地に立たされた。
(今度こそ、千本は打ちつくしたはず…) 確信している新見は、反撃される心配もなく真っ直ぐ監察方に近づき、止めを刺すべく刀を振り上げた。
(勝った!) 無情に振り下ろされた刀が、監察方の胴を切り裂く——直前。
新見は急なめまいに襲われた。
平衡感覚が奪われ、振り上げていた刀の重みで大きく後ろに仰け反ってしまう。
「なっ…何、が…!?」 その上、呂律が回らない。
一方、監察方は体を引きずるように起こして後退すると、激しい痛みを堪えて脇腹から苦無を引き抜いた。
「…ぁあっ!!」 歯を食いしばっていた覆面の下から、負傷の苦痛を物語る悲鳴が漏れた。
傷口からは、どす黒い瘴気があふれ出る。
だが、それにも構わず、監察方はたった今脇腹から抜いた苦無を新見に向けて放った。
それは見事に、新見の左腿にザクリと命中した。
「ぐっ…!お、のれ…!」 「念には…念を…入れ…る…ものや…な…」 それまでふらついていた新見は、監察方の言葉の意味をはたと悟った。
監察方は、最初から風上に回る度に、気付かれない程度の微量の鱗粉を撒いていたのだ。
幽士隊を旧市街で逃がす時に使った煙玉のように、あからさまに薬を撒かれれば、新見が気付かないはずはなかった。
監察方はそれを見越して、時間をかけて細心の注意を払い、いざという時のための切り札としたのだった。
鱗粉を吸わされ、苦無で足を止められた新見に、監察方も満身創痍の体に鞭打って、右手に刀を持ち半身に構えた。
(頼む…!あと、少し…あと少しだけ、力を分けてくれ!) 監察方は、幽士隊を影ながらずっと見てきた。 その輪の中には入れなくても、自分に出来る事で彼らの助けになりたいと思うようになっていた。
繋げて欲しい——。 彼らの日常を。彼らの絆を。彼らの夢を。彼らの未来を。
奮い立つ監察方の心に呼応するように、腰に下げていた印籠が青白く強い光を放った。
「お…おおぉぉぉーっ!!」 新見も回天狗党の隠密としての意地で、監察方に右下段から斬りかかった。監察方は刀を下段に引いてこれをかわす。
続いて、新見が胴へ中段突きを繰り出すが、右足を軸に半回転してかわしつつ刀で受けた監察方は、刃を刃に滑らせて一気に新見の鍔元にまで行き着いた。
すかさず、薬で反応が遅れている新見の右腕を監察方は左手でつかみ、自分の刀で相手の刀を抑えつけながら新見の右小手を捻じ上げた。
「むっ…!」 一瞬怯んだ新見に、監察方はこの機を逃すまいとさらに大きく踏み込み、鳩尾を力一杯殴りつけた。
だが、新見が力任せに押えられていた刀を振りほどこうとしたため、監察方は相手を捻り倒すようにドンと突き放して間合いを取り直した。
(おのれ…おのれぇ…!こんな…こんな所で…こんな…腑抜けた時代の…子供ごときに…!) 憎憎しく目の前の未来人を睨む新見の脳裏に、かつて芹沢に切り捨てられた時の記憶がまざまざと蘇った。
土方歳三ら近藤派の罠にまんまと乗せられ、切腹に追い込まれた彼を主であるはずの芹沢が庇い立てする事はなかった。
弱肉強食。
芹沢に付いて行くと決めた時、新見が我が主に感じた言葉だった。
圧倒的な強さで口先だけの弱卒を何のためらいもなく薙ぎ倒していく芹沢は、かつての新見が新時代に求めた『強者』の権化とも言えた。
付いて来られない者は、捨てられて当然。
役に立たなくなった者も、切られて当然。
それが新見の、そして芹沢の体現した生き方だった。
新見にとって、ここで敗北するという事は幕末の時と同じく『弱者』にまた成り下がるという事を意味する。
それは、許されない。否、彼の士道が許さなかった。
「おおぉぉぉ…っ!!」 地獄の底から湧き上がって来るような気合を発し、ふらつく足元を辛うじて支えながら、新見は監察方の間合いに大きく踏み込んだ。
右足を踏ん張り、脳天を砕こうと面を狙う。
監察方はその一撃を中段で捌くと、下段から一気に間合いを詰めた。
顔面に迫る下段突きを受けようと、新見は斬り下ろす動作を一旦止め、三歩下がろうとする。
そこを監察方はさらに踏み込んで追いすがり、新見の右肘関節を左手で取って押し上げた。
片方が肘から押し上げられた事で、刀を握っていたもう片方の腕も上がる格好になり、新見は完全に防御姿勢を崩された。
(こんな…!?) 叫ぶ間もなく、監察方の右手による下段突きが、新見の喉笛を容赦なく潰した。
刀が引き抜かれた傷口から、青く光る皓氣が止めどなく溢れ出た。
「力…不足…か…!」 足りない。何もかもが、自分たちには足りなかった。
弱い者は強い者に負ける。それが、新見にとっての真実だった。
だが、弱い者だったはずの人間が、強い者に化けるというもう一つ奥の真実を彼は最後に見たのだった。
グラリと仰向けに倒れていく途中で、新見の幽体はみるみるうちに、崩壊していった。
あまりに古びて、何が掘り込んであったのかもわからなくなった根付が、失った主に取り遺されていた。
今度こそ、勝負は着いた。
監察方は背負った鞘に納刀した途端、ガクリと膝を着いてうずくまってしまった。
だが、力を使い尽くしてもなお、おぼつかない手で印籠の皓氣を脇腹の傷口に注ぐ事は忘れない。
「もう…あかん…。堪忍…や…」 絞り出すようにそう呟くと、監察方はバタリとその場に倒れ伏した。
幽士隊に対する、援軍になれなくなった事への詫びの言葉だった。
『今度は、こいつを探って来るようにとの命だ。…潜り込めるか?』 『監察方に必要なんは隠密性。正体が知れたら仕事になりまへん。いっそ、身体ごと別人になれるもんなら楽でっけどなぁ』 『はははっ!そいつはいい。それ以上の"変装"はない』 『ほな、冗談はさておき…。私に潜り込めない所などおまへん。当然、念には念を入れますさかい』 『わかった。抜かるなよ?』 『任せておくんなはれ』 奇妙な幻覚を見た。
修学旅行で訪れた大阪湾で、遊覧船から転落して溺れかけた時だった。
自分ではない『誰か』の記憶を覗き見たような、そんな夢を見たような感覚だった。
気が付くと救助隊員に囲まれており、手にはいつの間にか古ぼけた組紐が絡まっていた。
「京都では『おおきに』とか『おいでやす』とか言うんでしょ?」 「冗談言わんといて。今時、あんなもっさい言葉使いする人なんかおらんえ?」 何度繰り返したやりとりだろうか。冗談めかして返したものの、望は内心ため息をついていた。
望の父は、大学病院に勤める外科医だった。京都で鍼灸医院の跡取り娘だった母と出会い、結婚した。そうして望が生まれたが、物心ついた頃から母方の祖父母に預けられっ放しだった。
両親は、娘に無関心だった訳ではない。ただ、父も母も自分の仕事が誇りであり、仕事こそが生きがいと云う人だった。
すれ違いの生活が続き、やがて別居に至るのは当然の結末だったのかもしれない。
父は東京の大学病院に転勤が決まり、単身赴任。望は父に同行する形で、東京の高校を受験した。
しかし、望は間も無くその選択を後悔した。
祖父母に育てられた望の立ち振る舞いは、良く言えば品があり、悪く言えば前時代的で、殊に同世代の子供からは古くさく見えた。
最初は一挙手一投足を面白がっていた女子からは、やがて「気取っている」と煙たがられるようになった。
男子からは、『どすえ』などと幼稚なあだ名をつけられるばかりで会話が成立しない。あるいは何を勘違いしたのか、「僕だけは君の味方だよ」などと告白して来る生徒もいて、やはり会話が成立しなかった。
彼ら彼女らにとって、自分は好奇の対象でしかない。遠巻きに眺めては好き勝手な言葉を投げつけて来るだけのクラスメイトを『友達』と思う気にはなれなかった。
教師も教師で、面倒事を避けたがるあまり、生徒同士の人間関係には知らぬ存ぜぬを装った。
クラスどころか部活動を含めた学校のどこにも、望の居場所は無かった。
大阪湾で手に絡みついていた古ぼけた組紐は、どうにも手放す気になれず、何となく持ち続けていた。
すっかり薄汚れてはいたが、紫色と思しき組紐には薄紅色をした姫珊瑚の玉が付いていた。祖母に聞いたところ、江戸時代の印籠に付ける『緒締玉』と云う代物らしかった。
そんな物がどうして?長年海に沈んでいたのが、偶然海底の泥が巻き上げられでもして、海面近くに浮かんできたのだろうか?
いずれにしても、打ち捨てられ、忘れられた骨董品に、望はどこかで自分自身を重ね合わせていた。
それは、突然に訪れた。
母の実家を継ぐ事を期待されていた望は、鍼灸師の資格を取るべく専門学校生になっていた。
部屋に差し込む月明かりの下で、何気なくあの組紐を眺めていた時。組紐から月光を集めたような青白い光が放たれ、望を包み込んだ。
ほんの数秒で光は晴れたが、望は時代劇に出て来るような忍装束を纏った姿に『変身』していた。
自分の奇妙な格好に戸惑う暇もなく、心境とは無関係に望の手足は"動かされていた"。窓から屋根を伝い、夜の街を眼下にビルからビルへと軽やかに飛び移っていく運動能力は、とても彼女自身のものではなかった。
心と体が別々に動いている。望はそう感じていた。
頭の整理がつかず、半ば混乱している自分の傍に誰かが——歴戦の(つわもの)が付いているかのような感覚がしていた。
その組紐に宿る(つわもの)兵の意思は、言語化出来ない『声』で望の心に直接語りかけてきた。
無念の死を遂げ、恨みを持った亡霊が現代に蘇った事。自分と同類の存在——即ち、亡霊の力を宿す『憑代』と同調した『憑巫』を見つけ出す事。彼らを陰ながら助けて、亡霊を討ち祓う事。
望は、白昼夢を見ている気分だった。
突然の不可思議な出来事に混乱しつつも、不思議と気分は悪くなかった。
(何やろねぇ…。女の子を『変身』さすなら、可愛らしい魔法少女とかと違うん?よりによって、忍者?くのいち?どう考えても、おっちゃんの趣味やないの。ありえへんわ) これは、両親にも友達にも望まれず、勉強するしかなかった自分の寂しい心が作り出した妄想なのかもしれない。それでもいいと望は思った。
打ち捨てられ、忘れられた骨董品に自分が望まれた事、見知らぬ誰かが自分を望んでくれるかもしれない事が、心のどこかで無性に嬉しかった。
ただ、それだけだった——。
知信は、雑木林の前から動けずに居た。
対峙する天狗面の男は隙らしい隙を全く見せず、正眼に構えたまま微動だにしない。
天狗面の男とは初めて相見えた知信だったが、立ち振る舞いや構えから相手の実力は推して知る事は出来た。
(完璧な構えだ…!変幻自在…こちらがどう斬り込もうと、瞬時に対応可能な攻防一体の体勢…) 対する天狗面の男も、同じく正眼に構える知信の全体を大きく捉えていた。
(素晴らしい…!この時代の人間を憑巫にしているとは思えぬ程、一部の無駄もない動きだ) だが、知信は相手の秘められた強さは認めても、それに敵わないとは思えなかった。
気圧されてはいない。気は昂ってはいるが、充実していた。
という事は、天狗面の男と憑代の意思の力は、おそらくほぼ互角だろうと知信は推察した。
実力が拮抗しているとなれば、相手もこちらの出方を読んでくる。となれば、余計な小細工は無駄であり無用だ。
勝負は、一瞬で決まる。
そう感じ取った知信は、まばたきさえためらった。 いつも浮かべていた笑みは、既に消えている。
仰々しい面に覆い隠され、表情が読めない事が、相手を余計に大きく思わせてならない。
動悸が跳ね上がる。息が詰まる。
(とらわれるな…!落ち着いて…相手をよく見るんだ…!) 知信は自分に言い聞かせると、ゆっくりと肩の力を抜き、詰めていた息を吐いた。
天狗面の男の一挙一動を余す事なく捉えようと、全神経を集中させた。
ピクリとも動かないように見えて、天狗面の男の構えは柔軟さを持っていた。
本当にわずかだか、よくよく目を凝らせば、切っ先がゆっくりと上下に振れている。
手から腕、そして爪先と踵をリズミカルに動かしておく事で、相手が攻撃して来るタイミングを計っているのだ。
それは、知信も同じだった。
すり足で半歩間合いを詰めつつ、少しでも剣先を上げれば、向こうもそれに反応して、ほんの少し剣先を下げて対応する。
知信が上段から来るなら、中段から突き上げて反撃しようという訳だ。 「ならば」と、知信は右袈裟を狙って、わずかに手元を右に傾けた。
それを察知した天狗面の男は、同じ向きにわずかに手元を傾け、受ける構えをとった。
(やはり、これも読まれている…!) 今度は、相手の斬り込みを誘うふりをして、攻撃に転じるべく体重を移動させた。
天狗面の男は、知信のわずかな足捌きからそれを察し、正眼の刀をすっと前に突き出して牽制した。
相手に攻撃させて後の先を取ろうとしたのだが、さらに防御を固められて知信は気勢を削がれた。

派手さは、まるでない。 この場所だけ、一切が静止しているようにも見える。
だが、両者の間に漂う空気は、迂闊に触れれば斬られそうな程にピンと張り詰めていた。
剣と剣が触れ合うには互いの距離は遠く、まだ一太刀も出してはいない。 にもかかわらず、目には見えない無数の太刀筋が間合いの中で乱舞していた。
実際には刃を交えなくとも、互いの頭の中では、予想出来うるあらゆる動きが想定されていた。
知信と天狗面の男。二人の気合と気合が宙でせめぎ合い、先の先を取り合っているのだ。

相手は、なおも正眼の構えを崩さない。
その切っ先は、まるで飢えた獣のように、知信の喉笛に噛み付かんばかりの殺気を帯びている。
そのまま押し込まれそうになる所を知信は何とか踏み止まった。
(一歩でも退けば、追い込まれる…!だが、間合いに一歩でも踏み込めば、たちまちのうちに刃の餌食となる…!) 天狗面の男の間合いは、剣の結界とも言える領域だった。迂闊に飛び込めば、即、死に繋がる。
知信は、想念の中で試しに一歩踏み出してみた。
刀を打ち合わせるべく、一足飛びに中段から斬りかかる。 次の瞬間、天狗面の男の上体がしなやかに伸びて知信の中段面を左に捌くと、あっという間にガラ空きの右肩を切り裂いた。
再び状況を巻き戻し、今度は相手の左側面から斬り込んでみた。
天狗面の男は当然の如く、刀を立てて左側への斬撃を防ぐ。 すぐさま刀を戻した知信は最短距離を貫くべく、相手の喉元に突きを放った。
だが、天狗面の男も驚異的な反応速度で知信の胸部に突きを繰り出し、両者は相討ちとなった。
いっそ、小手を狙って得物を取り落とさせようとも考えたが、これも後退して避けられた挙句、伸びきった両腕を切り裂かれるという結果が出た。
実際、何度予測しても、知信は自分が斬られる以外の未来を導き出せないでいた。
一方で天狗面の男も、知信の力量を警戒して無理に勝敗を決しようとはしてこない。
(ここで時間を取られる訳には…!もし、雪原君と月島さんが苦戦しているとしたら、僕が手助けする必要も出て来る…!監察方さんも、相手は明らかに格上…!何より一刻も早く、松永君の応援に回らなければならないというのに…!) 戦いの全体を見る立場ゆえに、焦りを感じた知信だったが、すぐにハッと我に返った。
(…落ち着け、落ち着くんだ。今ここで勝負にはやれば、確実に負ける。それこそ失策だ) 改めて、目の前の相手に、意識の全てを集中させる。
(不本意な形にはなったが、おそらくこれが最後の決戦になるでしょう…!何としても、勝たなければならない…!だからこそ、集中するんだ…!) 膠着が、続く。
互いの間合いの(きわ)は、既に接していた。 そこから先へは、両者共になかなか踏み出さない。 藪内から獲物を狙う狩人のように、虎視眈々と相手に隙が出来るその時を待ち続けていた。
その間に、夜空では雲が流れ、地上に落ちる影がそれを追いかける。
状況を打破すべく、知信は軽快な足捌きで立ち位置を変えようと走った。
だが、天狗面の男は決して正面以外を見せる事はせず、二人は間合いの際を軸にぐるぐると回り続けるだけだった。
(このままでは、埒があかない…。事ここに至っては…!) 知信は腹をくくった。
このまま睨みあっていても、集中力を磨り減らされていくだけだった。 持久戦がこちらに不利な事は百も承知。
安全な道はない。全ての道で、剣という牙が獲物を待ち構えている。
亡霊同士の実力が伯仲しているなら、その可能性に賭けてみるしかない。
(自分が苦しい時は、相手も苦しい…。危険を冒さずして…結果は出ない!) 知信が父から教わり、実際に見せられて来た哲学だった。
確率は、五分五分。
それでも、ここで自分一人だけが敵の戦力の一端でも減らせなくては、幽士隊の仲間に会わせる顔がない。
知信の双眸に、強い決意の光が宿った。
天狗面の男がそれに気付いた時、知信はもう動いていた。
剣と剣が噛み合う、凄まじい音が響き渡った。
あろう事か、よりにもよって知信は、天狗面の男に真正面から仕掛けていた。
相手は逆に面食らったようで、知信の中段からの面をそのまま中段で受けていた。 あまりにも芸のない攻撃に、相手も思わず芸を忘れてしまった。
すかさず、知信は連撃を仕掛けるべく、打ち合わせていた刀を解いた。
もう正面には斬り込まず、軽快な足捌きで右側面、左袈裟斬りと左右交互に斬り込む。
どの一撃も的確に捌いていった天狗面の男だったが、このまま押される事を避けようと飛び退いて間合いを取り直した。
今度の知信は、無理に追いすがろうとはせず、両者は再びススッと正眼に構えて対峙した。
二人の流れるような太刀筋は、流麗にして鋭敏。 思わず、見惚れてしまいそうな淀みのない剣だった。
知信は剣を握るその手に、小さな手応えを感じていた。
標的は逃した。 だが、戦いの場は知信のペースに支配されるようになった。 たとえ、一太刀も浴びせられなくても、この強敵相手にならそれだけで充分な収穫だった。
三日月が、雲に消え入るように翳った。
知信は再び仕掛ける。 一直線に突進し、一気に間合いを詰めにかかった。
(また正面…?ならば!) 天狗面の男は正面に繰り出される刀を絡め取るように捌いて、伸びきった胴に横薙ぎを見舞おうと待ち受けた。
知信の刀が、天狗面の男の顔面目がけて振り下ろされる。
が、知信は相手の目の前に迫りながら直前になって素早く足を反し、その左脇へ駆け抜けていった。
(何…!?) そのまま、両者は飛び違い、立ち位置を入れ替える——その刹那。
天狗面の男が振り返りきるより半拍子早く、知信の唐竹割りがバキリと額を激しく打った。
「む…っ!」 頭蓋骨への衝撃に、天狗面の男は思わずうめいた。
面をして顔を覆っている状態では、自ずと視野は狭くなる。 さらに月が翳った薄暗がりの中、限定された視界では標的を正確には捉えにくい。
正面からの面打ちには一歩も引かずに受け止めた相手が、左右交互に斬り込まれると一旦下がった。 それを見た知信は、相手の視界は左右の振りに弱いと確信した。
正面から二度も仕掛けるという危険を冒したかいあって、三度目の外し技を読まれずに済んだ。 そのため、飛び違いざまに通常よりも早く振り返り、左回転の勢いで相手の面を打ち据える事に成功したのだった。
(入った!) 知信は剣を握るその手に、今度は大きな手応えを感じていた。
だが、知信の一撃は浅かった。
さすがに相手も咄嗟に身を引いていたようで、脳天を叩き割るには至らなかった。 事実、天狗面の男は一度はふらついたものの、すぐに体勢を立て直していた。
知信と天狗面の男は、再び間合いの際を軸に一本筋が通った正眼の構えで対峙していた。
「私に正面から一太刀入れるとは…お強い」 これまで沈黙を保っていた天狗面の男が、初めて口を開いた。
同時に、知信の一撃で砕かれた仮面がビシリと音を立てて真ん中から二つに割れる。
天狗の顔を形作っていた赤い破片は、一つ残らパラパラと地面に落ちていく。
その下から露われた白い涼やかな顔に、知信は見覚えがあった。
「やはり、貴方でしたか…。禁裏御陵衛士盟主・伊東甲子太郎!」 切れ長の目と鼻筋が通った整った面立ち。 いつか資料で見た肖像画の通りの素顔が、月明かりのもとにさらされた。
「なぜです…?なぜ、御陵衛士であった貴方が、回天狗党に与するのですか?」 知信の問い掛けに、伊東は口をつぐんだ。
その額に、先ほど受けた傷から青く光る皓氣がつうと一筋流れ落ちていく。
「同じ尊皇派とはいえ、首都を襲撃する計画に加担するなど、この時代を混乱させるだけ無意味というものです」 なおも真相を引き出そうとする知信に、伊東は只々沈黙を守った。
(答えるつもりはない、という事ですか…) そして同時に、相手は退くつもりも当然ない。
話し合いが通じないからこそ、こうして戦いになっているとはいえ、知信はどこかで「伊東甲子太郎ならば、もしや…」と思っていた。
「我ながら優柔不断ですね」と知信は自嘲したが、刃を交えず解決出来るならそうしたいという彼のやさしさと粘り強さの表れでもあった。
「…いた!彩、彩!こっち、こっち!」 「忠一さん。風山さんは!?」 戦い終わった忠一と彩が、綿のように疲れきりながらも駆けつけて来た。
「…って、誰だあいつ?」 初めて伊東の素顔を目にした忠一が、知信の対戦相手を見て言った。
彩は、地面に散らばっていた天狗面の破片を見つけて
「天狗のマスクをしていたサムライではないでしょうか?ほら、あそこに壊れたお面が落ちてます」 「マジ?もっと、すっげー鬼みてーなヤツかと思ってたのに、生っ白いツラした優男じゃん」 「しかし…彼は強いです。立ち姿に、まるで隙がないです」 「…よ、弱いなんて言ってねーし」 知信は振り向かなかった。
勿論、二人が近くの木陰にいた事は気付いていた。 そして、心から安堵していた。
(よかった…!僕の取り越し苦労で…本当によかった…!) 紫影館砲撃の時に続き、いい方向に予測が外れた。知信は、困難に打ち勝つ人間の力に内心歓喜していた。
一方の忠一と彩は、声援も忘れて知信をじっと見守った。
「風山さん…かなり消耗してるようです。大丈夫でしょうか…?」 伊東との長い対峙の間に、知信が神経をすり減らしている事を彩は察した。
本当はここで助けに飛び出したい所だが、戦い疲れた今の自分たちではかえって足手まといになりかねない。
「なーに、つまんねーこと言ってんだよ、彩」 知信に視点を合わせたまま、忠一が自信たっぷりに言った。
「『あの』風山さんだぜ?勝つに決まってんだろ?」 幽士隊の頭脳として、いつも的確な戦術でメンバーを引っ張ってきた知信の頼もしい姿が、忠一の中にはあった。
それを感じ取った彩は肯定的に微笑むと、知信の戦いをしかと見届けるべく目をやった。
自分を信じてくれる仲間に見守られているのは、何と心強い事だろう。 そこから、大きな安心感と前へ踏み出す勇気を知信は受け取ったような気がした。
(僕には、憑代の意思が憑いている…信じてくれている仲間がいる…力を貸してくれる盟友がいる…恐れるものは——何もない!) 自分の全てを相手にぶつける。 それが出来なくて、どうして命懸けで向かってくる相手に勝てようか。
(今、ここ…。今、ここだけを見るんだ…!先を見るな…!先を…) 全身の隅々まで意識を行き渡らせ、刀さえも我が身の一部とすべく、知信は雑念という雑念を意識の外へと押しやった。
「いざ…尋常に勝負!」 もともと争いを好まなかった知信が、そう叫ばずにはいられなかった。
他人と深く係わらず、いつも距離を置いてきた彼が、初めて経験する高揚感。 それは、他人の命に斬り込み、自分の命にも斬り込まれるという究極の緊張感だった。
やや間を空けて、伊東は知信の闘志に応えるように口を開いた。
「…参られよ!」 幕は切って落とされた。
知信は意を決して正眼の構えを解き、刀を右手に提げた無形の位をとった。
(これは…?) 頑なに基本形を崩さなかった知信の予想外の行動に、伊東の表情がわずかだが反応した。
その間に知信は、伊東の出方を警戒しつつ、歩み寄るように間合いを詰めた。
無防備ともとれる知信の接近方法に、伊東は間合いを目算されにくい左中段に構えを変えた。
何もなければ、間合いに足を踏み入れた瞬間に斬るだけだが、もし何か秘策でもあるとしたら——。
両者の距離はさらに縮まった。
抜刀して一歩踏み込まれれば、確実に斬られる範囲である。

その瞬間、知信は素早く左足を一歩後ろに引き、相手の目線に向かって鋭い突きを放った。
伊東は知信の切っ先がわずかに届かないのを見切った。下がる事なく右足を大きく踏み出して、伸びきった胴に横薙ぎを繰り出した。
その攻撃を読んでいたかのように、知信は瞬時に突き出していた刀を引き、タ、タッと大きく二歩下がった。
それを後退と見た伊東が、反撃に転じる。 正眼から面を狙い、知信を追いかける形で斬りかかった。 勢いに乗った伊東の刃が、知信の額に吸い込まれていく。
が、まさに紙一重。
知信は、額の正面に刀をかざし、柄を握る手の甲を額に密着させる事で伊東の面打ちを右手一本で受け止めた。
すかさず、知信は空いた左手で伊東の右手首を締めにかかった。
(…いかん!) このままでは、手首を締め上げられ、膝後ろに膝当てを見舞われた上に引き倒されて刀を奪われる。
知信の狙いを読んだ伊東は、つかまれていない左手を柄から離し、対抗するように知信の右手を取りに行った。
(…いけない!) 間合いのない密着状態で得物を奪い合うのは、脇差で取られる可能性もあり、あまりにも危険すぎる。
知信は、一旦離れざるを得なかった。
相手の右手首から離した左手を自身の得物の柄頭に戻し、腕から肩までを使った反動で突き放すように数歩下がった。
伊東の左手も、取りに行った知信の右手首をかすめてまた自身の柄頭に戻った。

真剣勝負に『次』はない。
だが、分かれになった事で『次』が出来ているうちは、一撃必殺を繰り出し続ける。
何度でも、何度でも。
敗北を免れたと、胸をなでおろしている暇はない。 戦いは、まだ終わっていない。
終わっていない以上、生死の際から戻った者は再びそこへ飛び込まなくてはならない。 敗北と勝利とが混在する(みぎわ)へと。
(これ以上の膠着はさせない!) 知信は、再び勝負に出た。
中段に構え直した刀の切っ先は、相手の顔にぴたりと標準を合わせている。
天狗の面を割られた時と同様、顔面に迫り来る刃の出鼻を挫こうと、伊東はやや高めの左横薙ぎを放った。
だが、知信は間合いぎりぎりで急停止し、その一撃を外した。
知信の刀を弾くはずだった伊東の刀は、宙を斬ると八双の構えに納まった。
伊東は取り戻した勢いを殺す事なく知信の体勢を崩そうと、続けて右袈裟に斬りかかった。
知信はト、トッと軽快な拍子で後方に飛び退り、これも外した。
そのまま、知信は大きく上段に振りかぶり、右袈裟をかわされた伊東が刀を打ち下ろした所へ一直線に振り下ろした。
知信は、この状況を待っていた。
攻撃を繰り出したあと、防御に戻るまでのわずかなタイムラグを狙って、一番威力の大きい上段斬り下ろしを見舞おうと誘導していたのだ。
が、伊東もさすがに知信の狙いを見抜き、半歩身を引きつつも冷静にこれをかわした。
凄まじい風圧が、顔の皮膚の上を滑って行った。
互いに攻撃を外されて刀を打ち下ろした格好にはなったが、両者はすぐに相手に向かって斬りかかった。 知信はやや下がり気味の右中段、対する伊東は手堅く正眼から。
(これが——!) (——最後!) 伊東が放った鋭くも伸びやかな突きを、知信は下方から面を受け止めて、外側に思い切り弾き出した。
同時に大きく一歩踏み込みつつ、素早く刀を戻して右袈裟に首筋から胸部までを一気に斬ろうとした。
だが、伊東は一度弾かれた刀を怯む事なく反し、後退して間合いをあけつつ知信の左肩目掛けて振り下ろす。
どちらが先に、相手を穿つか——?

時が、引き伸ばされた。
二つの太刀がひどく緩慢に、しかし確実に定めた標的に吸いつけられていく。 それぞれの持ち手の思いを込めた最後の一撃が、一瞬で過ぎ去ってしまうのを惜しむかのようだった。
手練れ同士だからこそ、全力でぶつかり合える。 自分の全てを解き放てるほどの勝負は、なかなかに得難い。
剣は、凶器。極限にまで研ぎ澄まされた、命を傷つけるための刃物。 その剣を通して、二つの魂は刹那の対話を持った。
——嗚呼、そうか… ——貴方も… ——戦いを哀しんでいたのか—— 二人の心の声が重なり合った時。
ズシャリ…と肉を激しく断つ音が鳴り、時の流れを元に戻した。
終局が、そこにあった。
「ぐっ…!」 伊東は刀を取り落とし、反射的に左手で右手を押えた。
そして
「…く…っ!」 知信は、ガクリと膝を着いた。
(あと一歩…届かなかったか…) 左肩には、深々と刻まれた傷口。そこから不気味に立ち上る瘴気と共に、力が抜けていく。右手の刀を辛うじて握っているだけで精一杯だった。
しかし、知信は相手の右小手にも相当の深手を負わせていた。 その証拠に、伊東の右手からは青く光る皓氣がどくどくと溢れ出ている。あれでは、とても剣は握れないだろう。
それでも、最後の最後で競り負けた事には、何ら変わりなかった。
(やはり…誰かの運命を左右する役目には、向いていませんね…) 敗北した知信の脳裏に、唐突に蘇る出来事があった——。
『知ってるか?升木さん…自殺したらしいな?』 『それ、本当!?…でも、悪いけどあんまり同情出来ないわ』 『全くだな…。あの人がデタラメやってくれる度に、余計な仕事増やしてくれたんだからなぁ。こっちはいい迷惑だったよ』 『その所為で派遣の子が精神病んで三人も辞めたんだから、自分もそうなるのは当然と言えば当然だったのかしらねぇ…』 『いい加減、誰かが何とかしてくれないかって、ずっと思ってたんだ…。ま、風山君のおかけで助かったよ』 『…まぁね。こうなってくれて、ほっとしたっていうのが正直な所かしらね』 社員同士の冷たい会話が、容赦無く心を抉る。
人知れずその場を去った知信は、やはり人知れずその会社を去った。
——一人の『男』が、自ら命を絶った。
『男』は、どこにでもいる風采の上がらない勤め人だった。若い頃から調子良く立ち振る舞い、調子良く入った会社で、調子良く二つ返事をしては仕事をこなしている振りをし続けた。
『男』は経理担当だったが、その仕事振りは壊滅的で、会計システムをわざとと思われるくらい何度も壊しては、他の社員がその修復と本来の業務のやり直しに追われた。
こんな調子だから、同僚も部下も『男』を心底煙たがった。だが、『男』がクビにされる気配は一向になかった。上司が同じ大学サークルの先輩後輩だからだとか、役員の遠縁がどうにも使えないのでグループ会社からたらい回しにされてきたとか、社内では噂されていた。
そんなある日、『男』は突然の解雇を宣告された。理由は、長年の職務怠慢と、それを隠蓑に行われてきた不正会計の発覚だった。
経理上の不正に気付き、男の罪を役員会に告発したのは、ある一人の新入社員——当時、入社して間もない知信だった。
最後の居場所を逐われた『男』は呆気なく自暴自棄に陥った末、かつて通勤していた電車に衝動的に飛び込んだ。
『男』が約束を守った所を知る者は皆無で、その所為か『男』は妻にも子供にも見限られ、友人らしい友人も居なかった。
そんな『男』の死に心を痛めていたのは、皮肉にも『男』の罪を問うた張本人である知信だけだった。一人の人間が誰にも同情されないまま死んだ事に、知信だけが心から同情していた。
迷い抜いた末に、知信は退職届を出した。他の社員との心に生じた温度差の中で、とても平常心で働ける自信がなかったからだった。
知信の退職は、いともあっさりと受理された。
会社側としては、願ったり叶ったりだった。不正会計に関わった者を軒並み処分出来た上、その原因は扱いに困っていた長年の厄介者。さらに、告発者の新人を英雄視する社員が出る中、その本人が自ら辞めてくれるという。新たな派閥が生まれる事で社内の勢力図が複雑化する懸念も無くなったと、会社側は受け止めていた。
自分の行動が、正しいと思って成した事が、人一人の命運を文字通り変えたこの出来事は、知信の中で埋み火のように燻り続けた。
心に澱を溜め込んだ甥っ子を心配した叔母夫婦が、紫影館の副店長をやってみないかと持ち掛けてきたのは、それから間も無くの事だった。
戦いの行方を見守っていた忠一と彩は、言葉を忘れたように、ただただ目の前の光景を凝視していた。
どちらが勝ってもおかしくない互角の局面だっただけに、これは一つの結果に過ぎないとも思えた。
だが、知信を信じてその勝利を願って止まない『仲間』としては、とても受け入れがたい結果だった。
相反する感情が忠一と彩の仲で錯綜し、言葉として、表情として、上手く表す事が出来ないでいた。
伊東は、どこか微笑んだようにも見える澄んだ表情で知信を見た。
「見事…」 そう感慨深げにつぶやくと、彼は落とした刀を取りに行くべく、ゆらりと背を向けた。
(憑代の力が、劣っている訳ではない。足りないのは、憑巫である僕自身の経験と…覚悟) 知信は、実戦経験などあるはずのない時代と立場に生まれた。
対する相手は、幕末の動乱の只中で殺し殺され合った経験を持つ。
いくら憑代の意思が力を与えてくれようと、実際にそれを体現する知信の心が付いて来れなくては意味がない。
栄治や忠一は、年若い分だけ思考が純粋で単純だ。命を奪い合うという事への実感がわかないからこそ、憑代の意思に全てを預ける事も出来た。
だが、人一倍の自我と自制心を持つ知信にはそれが出来なかった。
見えない者は、身の程も知らぬまま、闇雲に立ち向かっていける。
見えている者だからこそ(いだ)く恐れが、知信と憑代の同調を妨げていた。
知信と憑代の意思は、確かに一体となっていた。
だが、向かい合う二つの魂の間には、生者と死者とを別つ千尋の谷が横たわっている。 その向こう岸で、憑代の意思は「私はここにいる」と憑巫を手招く。
距離にすれば、最後の一歩。
その一歩が、知信には大きな障害となった。 飛び越えて行きたくても、最後の一歩がどうしても踏み出せない。 千尋の谷の深さを推し量れるだけに、どうしてもためらってしまうのだ。
谷の深さは、飛んだあとにわかればいい。 だが、一度知ってしまった事を知らなかった事には出来ない。
たった一つ——それだけの事が、この勝敗を分けた。
互いの力が拮抗している場合。どちらかが勝つには、予想外の力を出すか、相手がミスするのを待つしかない。 それほどに、ほんの些細な隙が命取りになりかねない。
知信の心は憑代の意思に、放った一撃は伊東の力量に、あと少し届かなかった。
だが、悔しがってはいられない。
これは、ある意味「実戦」なのだ。たとえ勝負には敗れようと、最後の最後まで絶対にあきらめるわけにはいかない。
全員で生きて『日常』に帰るために——!
瘴気を叩き込まれた左肩を右手で押さえながら、知信は既に刀を納めた伊東になおも立ち向かおうとした。
「くっ…!待ちなさい!」 伊東は、勝ち誇るでも蔑むでもなく、なおも我が身に鞭打って立ち向かって来る敵に静かに告げた。
「戦えなくなった者に、剣は向けぬ」 知信は、ぐっと押し黙った。
それは図星だった。 知信は勿論、忠一も彩も、既に変身を維持する体力しか残っていない。
残るは、栄治ただ一人。
敵の最後の砦である芹沢との勝負は、栄治を信じて任せるしかなかった。
「よう。勝負は着いたみてぇだな?先生さん」 天守前の広場から、芹沢が声をかけてきた。
「えぇ。一先ずは…」 「あんたにしちゃあ、随分梃子摺ったんじゃねぇのか?」 「そちらの方こそ、これといった進展はないようにお見受けしますが?」 「おーおー。耳が痛ぇなぁ」 芹沢は刀を右手に提げた無形の位のまま、栄治と共に一歩も動いていない。
とはいえ、敵を目の前にして別の相手と堂々と会話出来る余裕が、その優勢を充分すぎるほど物語っている。
「勝つ為には、手段を選ばない…のではなかったのですか?」 「あんた程じゃあねぇさ」 伊東は答えない。
芹沢は煽るように続けた。
「とぼけなさんなよ。自分の弟子を利用するたぁ、涼しい顔してあんたも悪だな。先生さんよ」