目の奥にどこか苦しげな表情を押し隠し、伊東は芹沢とは目を合わせずにぽつりとつぶやいた。
「…否定は、しません」 「『弟子』…?藤堂の事か?」 自分に係わりのある人間の名前を聞いて、栄治が会話に割って入った。
それを待っていたかのように、芹沢が意地悪くニヤついた。
「あの先生さんの頭のキレ様にゃ驚くぜ。藤堂が手前と一対一で決闘するつもりらしい事を聞き出したんだと。藤堂の奴、師匠を信じきってやがったんだろうなぁ。簡単にバラしちまって。で、だ。んな勝手な真似ぁ俺なら許さねぇんだが…先生さんは許した。何でか、わかるか?」 したり顔で謎かけをする芹沢に、栄治の胸中がざわついた。
「俺らとやり合ったばかりで、こそこそ警戒してやがるお前ぇらをおびき寄せる餌になってもらったんだよ」 栄治は愕然として絶句した。
芹沢の言った事が事実なら、藤堂はその武士道精神をていよく利用された事になる。 それも、よりにもよって一番信頼していた師匠に。
「お前ぇたちゃあ、どの道、決闘の誘いに乗って来る。そっちにも結構な知恵者が居るようだが、あの手の真っ正直さにゃあ甘ぇと見た」 知信の耳にも、芹沢の台詞は否が応でも入ってくる。
せせら笑う芹沢を前に、栄治は自分の血の気がみるみるうちに引いていくのを感じた。
「そうとも知らねぇで、師匠に都合よく使われたんじゃあ、つくづく藤堂も報われねぇな。…おっと、そうか。お前ぇが斬っちまったんだな?」 明らかな挑発。見え透いた心理作戦。そんな事は、誰の目にも明白だった。
だが、栄治は考えるより先に、頭に血が逆流していた。
藤堂と本気の剣を交えただけに、藤堂の真っ直ぐな思いを知っているだけに、栄治の中で火の玉のような怒りが燃え上がった。
「非情になれる事が…それほどまでに誇らしいかっ!?」 芹沢にこれ以上ない怒声を投げ付けると、栄治は伊東を射殺さんばかりに睨みつけ、その方向に身をひるがえした。
怒りに駆られる栄治の前に、またもや芹沢が立ち塞がった。
「そこをどけっ!」 「『どけ』…?ふんっ!俺に指図するたぁ、随分と身の程知らずじゃねぇか」 言い終わるが早いか、芹沢の右片手横薙ぎが栄治の胴を一閃した。 野太い風切音が、片手とは思えないほどの威力を物語っている。
太刀筋は全く見えなかったが、芹沢の足捌きに集中していた栄治は踏み込みを察知して間一髪で飛び退くことが出来た。 かすめた一撃は、羽織の衿元をいくらか切っていた。
「先生さんと戦いてぇなら、まずこの俺を倒してからにしな。…最も、『倒せれば』の話しだがな」 怒りに我を忘れた栄治は、芹沢自身とその圧倒的な力への恐れも忘れた。
彼は生まれて初めて『殺意』という(くら)い感情を知った。
一方、伊東は最後の戦いを出来るだけ近くで見るためか、知信たちから離れて歩き出していた。
もはや体力を使い果たした三人は、その背中をただ見送るしかない。
だが、さっきの芹沢の話しを聞いていた忠一は、握り締めた拳をわなわなと震わせていた。
「あんにゃろう…!んな卑怯な奴だったのかよ!ど畜生っ!許せねぇ!」 怒りを覚えて立ち上がった忠一は、思わず伊東を追いかけようとする。
「待つです!忠一さ…!」 彩が止めるのも聞かず、忠一は飛び出そうとした。それを知信の左手がすっと遮った。
「風山さん!?何で止めるんすか!?」 食ってかかる忠一を前に、知信は負傷した身で一歩も譲らない。
伊東と交えた剣には一点の淀みも歪みもなく、冷徹ではあっても冷酷ではなかった。 彼が自分の弟子を当て馬にするなど、にわかには信じがたい。
否定ではなく、確信だった。
「ここは、じっとしていてください」 「けどよ…っ!」 「負けた私が言えた義理ではありませんが、私たちはもうまともな『戦力』とは言えない」 「う…!そ、そりゃぁ…!」 「戦力外の人間が出来る事は、戦う者の邪魔にならないように身を処す事。…それだけです」 「風山さんの言う通りです。私たちがミスター天狗に返り討ちにでもあえば、栄治さんは戦いに集中できないです」 「むぐ…。わぁったよ…」 二人の理に適った説得に、忠一は渋々承諾した。
自分が戦っている時は、心地良くも感じる緊迫感と充実感で無我夢中になれた。 それに引き換え、人の戦いを見守るのはこんなにももどかしい。
知信が結果として敗れてしまった事に、忠一はもうこだわってはいなかった。 良くも悪くも、喧嘩という喧嘩を繰り返し経験してきた彼は、「強いヤツは強い」と認められる一種の潔さがあった。
だが、まだ未知数の勝負には、誰よりも勝利を渇望して止まない。 それが、認め合った『仲間』が挑んでいる戦いなら尚更だった。
「栄治…頼むぜ」 栄治の刃はまだ芹沢に届かないが、相手を射殺さんばかりの殺気をビシビシとぶつけていた。
芹沢はそんな栄治の気合に、臆するどころか水を得た魚のように目の輝きを増していた。
「どうした?俺を倒して、先生さんに仇討ちするんじゃなかったのか?」 「言われずとも、参る!」 早くも攻撃に転じようとした時、踏み出すはずの足が唐突に止まった。
ふと、知っている誰かに引き止められたような気がしたのだ。それは藤堂との決闘で垣間見た、『鉢金』の意思だとわかった。
(何で止めるんだ…!?) 栄治はその意思を振り払った。
(あんたは何とも思わないのか!?死力を尽くして戦った相手を嘲られて、それで何とも思わないのか!?) 『鉢金』の意思は一片の怒気もにじませる事なく、ただ静かに首を振ったようだった。
(…そうだよな。わかってる。一番はらわた煮えくり返ってるのは、あんただって事…。けど…俺は、あんたみたいに平常心でなんかいられない!) 『鉢金』の意思はそれ以上は何も言わずに、再び栄治と一体化した。
するとどういう訳か、鉢金の意思は栄治に左下段の構えを解かせて納刀させた。鯉口は切ってあり、柄には右手がそえてある。
明らかに格上の芹沢との真剣勝負で、中途半端な打ち合いを仕掛けるのは、わざわざこちらから隙を作るようなものだった。少しでも反応を遅らせるような、無駄な動きは出来ない。剣を左右に振り回すのではなく、最短最速の距離を一気に貫くしか勝利の道はない。
体格、腕力、持久力、どれを取っても劣る栄治が、重い得物をぶら提げたままで芹沢の攻撃を避け続けるのは難しい。
刀を鞘に納めた状態なら足腰全体で重みを支えられると共に、抜刀する際の鞘走りを利用すれば、速さと威力を持ち合わせた一撃が可能だ。
あとは、いつ、どこで使うかを見極められるかが鍵となる。
怒りにはやる栄治にあえて冷静さを必要とする戦法をとらせる事で、『鉢金』の意思は憑巫の頭を冷やそうとした。
もっとも、言葉なくしてどこまで栄治に伝わったのかはわからないが。
(居合…?いや、違うな。普通に斬り込んだ所で無駄だって事に、ようやっと気付いたみてぇだな) 芹沢も、栄治が納刀した意図を何となく察していた。
憑代の意思が憑巫に、憑巫が憑代の意思に、どこまで応えられるのか。 強い興味があった芹沢は、いよいよその答えを得るべく初めて自ら動き出した。
「来ぇんなら…こっちから行くぜぇ!」 叫ぶやいなや、芹沢はその巨体からは想像も出来ない速さで、みるみるうちに間合いを詰めて来る。
(来る!) ずっと臨戦態勢をとっていた栄治は弾みを付けるために一度その場でトンと跳ね、その反動を加速に変えた。
芹沢の攻撃を正面から迎え撃つのは不利。 だとすれば、右か左か、相手の側面に移動しつつ死角を突くのが確実。
栄治は、未だ刀を右に提げている芹沢に対し、その左脇をとるべく前方に跳んだ。 着地するまでに、飛び違いざまの左中段で首狩りを放とうとした。
だが、芹沢が膝を深く沈めるのを察し、自分の攻撃は紙一重でかわされると判断。 相手の首を狙った分、栄治は高く跳びすぎていたのだ。
タイミングを外され、栄治は抜刀し損ねた。 「ならば…」と栄治は着地と同時に、芹沢が振り返流より早く背中から左袈裟斬りを狙うべく踏み込んだ。
今度こそ、刀の抜き時——かと思われた。 が、芹沢が消えた。
今の今まで目前にしていたはずの相手の姿が、忽然と失せた——かのようにも見えた。
「何っ!?」 背後に気配を感じた時、栄治は、芹沢が移動の勢いを止める事なく、最速で右脇をすり抜けていた事を悟った。
やはり速い。あっという間に後ろを取られた。
栄治が振り向くのを待たず、芹沢が突きを繰り出す。
「遅ぇっ!」 「くっ…!」 足を捌くのも、身をかわすのも、間に合わない。
栄治は咄嗟に右足を軸に身を反転させつつ、右前方に倒れこむように転がってかわした。
だが、逃がすものかと芹沢は空振りした刀をすぐさま戻し、土埃の中へなおも突きかかる。
栄治は芹沢の正面に向ってゴロリと身を転がし、その回転と抜刀の勢いを加味して芹沢の鋭い突きをバチンと弾き返した。
速さと重さを持ち合わせた芹沢の一撃に、栄治は全身の撥条(ばね)と鞘走りの力を使って対抗したのだった。
羽織や袴が、地面にこすれて土まみれになっていた。
「甘ぇっ!」 芹沢は弾かれた刀をすぐさま反し、中段へ右横薙ぎを放った。 丸太棒を切り倒す斧のような一撃。迂闊に受け止めようとすれば、刀身ごと断ち切られるだろう。
(止められぬなら…!) 栄治の爪先が、タンッと地面を垂直に蹴った。
(避けるまで!) 芹沢の鋭い斬撃が栄治の右足首をかすり、袴の裾の端を切った。
栄治は先ほどよりもさらに高く跳び上がり、空中へ退避した。
芹沢は空振りした刀をすぐさま左中段に構え直し、動きが止まる着地の瞬間、左横薙ぎを喰らわせようと待ち受けた。
栄治の落下が始まり、地に足が着く。
だが、相手の落下地点を予測して繰り出された芹沢の左横薙ぎは、タイミングがわずかに早過ぎた。 栄治は着地するままに膝を深く沈め、立てておかねばならないはずの上体を伏せる格好でこれをかわした。 そして、頭をかすめて斬られた髪の毛も気に留めず、芹沢が刀を完全に振り切る直前、全身の撥条(ばね)を最大限に活かして芹沢の懐に飛び込んだ。
芹沢が一連の動作を終えたのと、栄治が自身の左手で相手の左腕をとったのとは、ほぼ同時だった。
栄治の足は、地面から離れたままだ。 右上腕部を取った左腕に全体重を預ける事で、ほんの一瞬だが芹沢の巨体を押さえ込んだ。
この機を逃さず、栄治は相手の肝臓目掛けて右手に持っていた刃を勢いよく突き立てた。
鳩尾の上にある腹直筋と違って、肝臓の上にある脇腹は鍛えにくいため、恵まれた体躯の者にも凄まじい激痛と大量出血をもたらす。 たとえ、長身巨躯の芹沢でも、まともに喰らえば一撃で形勢が逆転しかねない。
栄治の刀が、芹沢の脇腹に吸い込まれる。
「ぅお…っ!」 物打ちまで刺さりきる前に、芹沢は力任せに両腕を突き出し、栄治の姿勢を重心から崩して振りほどいた。
「…った!」 さすがに体重の軽い栄治は、したたかに吹っ飛ばされた。
それが間合いの取り直しにも繋がった。 空中で一回転して着地の体勢を整え、地に足が着くと片手片膝を着いて素早く起き上がった。
「ふぅー…。危ねぇ危ねぇ」 深々と息を吐いた芹沢を見れば、何事もなかったかのように悠然と立っている。
(無傷…?浅手とはいえ、完全に入っていたはず…!?) 栄治の動揺を察したのか、芹沢はもったいぶるようにくつくつと笑った。
「くくく…!お天道様も、ようやく俺に味方する気になったみてぇだな」 そう言って、懐から見せ付けるように取り出したのは、片方の親骨に大きな亀裂が入った鉄扇だった。
「鉄扇が盾代わりに…!」 先ほどの、芹沢に一撃入れた瞬間がフラッシュバックする。
(あの堅い妙な手応え…。正体はそれか…!) と栄治は合点がいった。
『運』としか呼べないような偶然や突発的事態さえも、戦局を大きく変えていく。
戦場(いくさば)には、魔物が棲むという。 戦いという極限状態の底知れなさに、栄治はかすかな戦慄を覚えた。
栄治の軽業師のような身のこなしに、芹沢は橋上での戦いの光景がふとよぎっていた。
(ほう…。新見の動きを取り入れやがったか) あえて危険な空中戦を挑み、剣術としてのペースを乱すのは新見得意の戦法だ。 知ってか知らずか、栄治と憑代の意思は一度戦った相手の動きを自分の技としていた。
芹沢は、ますます剣客としての好奇心をかき立てられた。
(いきなり必殺を狙った出方といい、小手先の技は封じたか。本当の戦いってもんが、わかってきたみてぇだな) ともあれ、勝負はまた振り出しに戻った。
否。体力の消耗を強いられる栄治の方が、形勢不利と見るべきか。 事実、背中と右足首の二箇所にかすり傷とはいえ負傷させられている。
(芹沢鴨…。やはり、そう容易くは決めさせてくれぬか) これで勝負を着けようと全力で出した技は不発に終わり、栄治はさらに追い詰められた。
そして、ここが決断の時と悟った。
(こうなれば…是非もない…!) 栄治は、最後の手段に出る事を決意した。
しかし、考え付いたそれは、一瞬たりとも集中力が途切れれば、あまりにも危険が大きい作戦だった。 それでも、他に手がない以上、栄治には迷う余地すらない。
意を決した栄治は、再びあざやかな動作で納刀した。 左手は鯉口を切り、右手は地面に着けて低い体勢を支える格好をとった。
すうっと腰を浮かせた途端、彼は一気に前へと飛び出した。 日頃慣れ親んだ陸上のクラウチングスタートの要領だった。
「はぁぁっ!」 猛烈な掛け声と共に、栄治は猛然と芹沢に斬り込んだ。 栄治の上段からの一撃を芹沢は軽くいなした。
「へっ!何だぁ、その腰の引けた打ち込みは?」 それもそのはず。間合いを警戒してか、やや遠巻きに繰り出したため、充分な力が込もっていない。
「松永君…?」 固唾を呑んで見守っていた知信も、栄治のあまりに不用意な出方が解せなかった。
(藤堂…お主の技、借り受ける!) そこから栄治は、絶え間ない連撃をこれでもかと打ち続けた。 左面、右面、右小手、左袈裟、右逆袈裟、中段突き…。 一足飛びに間合いを詰めては、また離脱するを繰り返していく。
たとえ攻撃を全て捌かれても、芹沢に斬り返す暇は与えない。 反応速度にものをいわせた軽快なフットワークでの連続技は、確かに藤堂のものだった。
だが、芹沢が気迫だけで勝てるレベルの相手ではないだけに、彩も忠一も強い危機感を感じていた。
「あれは上手くないです!我武者羅に攻めても消耗するだけです!」 「どうした、栄治ー!?キレちまったのかー!?」 知信たちの心配を裏付けるように、攻撃し続けているはずの栄治が、受け続けるだけの芹沢に押され始めていた。
前後と上下に飛び続けた足は重くなり、縦横無尽に剣を振るい続けた腕や手は痺れてきた。
(頼む!今少し…今少しだけ保ってくれ!) ジリジリと後退を余儀なくされていく中、栄治はとうとう堀の(へり)にまで追い込まれていた。
「だーっ!あんの馬鹿!何やってんだよー!?」 「駄目です!もう退けないです!」 「松永君…」 忠一と彩が頭を抱えてうろたえる隣で、知信は一寸先に起こり得る『最悪の事態』が思い浮かび、背筋がゾッと冷たくなった。
「へっ!随分とお粗末な最期だな。興醒めだぜ」 全ての攻撃を捌ききった芹沢は、ゼエゼエと息を切らしている栄治を見下ろした。
栄治の攻撃のいくつかは芹沢に入っていたものの、いずれも浅く、致命傷には及ばなかった。
「もう少しばかり、楽しませてくれると思ったんだがなぁ」 肩で息をする栄治の眼前に、芹沢は切っ先を突きつけて一歩踏み込んだ。
目線が下に泳いだままの栄治もグラリと後退し、堀を囲う柵が足に触れる位置にまでいた。 柵は腰下ほどの高さしかなく、一押しされれば確実に水中へ落下するしかない。
「この俺とここまで渡り合えたんだ。冥土でいい自慢になるぜ。…あばよ」 芹沢が栄治の喉元に、容赦なく刀を突き立てる。
知信たちが、もう駄目だと息を呑む。
——だが、栄治と憑代の意思は、まだあきらめていなかった。
その『動き』は、その場に居た誰一人として見えていなかった。
タ、タ、タッと軽やかな足音が響く。
全員が虚をつかれた。
突然、栄治が大きく跳躍し、あろう事か芹沢の頭上を飛び越えていた。 追い詰められて接した木組みの柵を踏み台にし、下部の丸太に左足を、続いて上部の丸太に右足を淀みなくかける事で跳躍したのだ。
芹沢の突きが宙を突き、右腕が伸びきった瞬間。 栄治はその背後に着地し、膝を着いた体勢のまま、水平に足払いを放った。
「ちぃっ…!」 紙一重で、芹沢は反射的に飛び退いた。
が、文字通り足元をすくわれた芹沢は、勢い余って柵にぶつかった。 刀を提げた右手を柵にもたれかけ、相手に半身を向けた格好になる。
そこへ栄治は、右八双の構えで再び跳躍した。
「無駄な足掻きだ…!往生しなぁっ!」 芹沢は驚異的な反応速度で身をひるがえすと、左肩への袈裟斬りを狙って降って来るであろう栄治に上段突きで迎え撃った。
鋭い突きが、栄治の左耳の下をかすめたその時。 栄治の左足が、芹沢の胸部を目掛けてぐんっと伸びてきた。
(何ぃっ!?) 栄治の渾身の蹴りが、芹沢の胸骨に命中した。
刀を振りかぶったのを見て、芹沢は斬撃が来るものと思い込んでいた。
完全にバランスを崩した二人は、堀に張られた水の上へ真っ逆さまに落ちて行った。
派手な水柱が上がる。
一部始終を見ていた知信たちは、栄治の予想外の反撃方法に肝を潰した。
「うげっ!マジかよ!?」 「松永君!?」 「風山さん、行きましょう!」 重傷の知信には彩が手を貸し、三人は仲間の安否と勝負の行方を確かめるために急ぎ堀端へと駆けつけた。
水底に尻餅をついた芹沢はさも不愉快そうに、落下したはずみで飲んでしまった水を吐き出した。
「…っぶぇ!っつー…!やってくれたな、小僧」 まだ光を失っていない双眸を栄治は芹沢にキッと向けた。
両者は、水を吸って重みを増した着物を引きずるように起き上がった。
その様子を上から見ていた忠一が疑問を抱く。
「おいおい!何だって水の上に立ってられんだ、あの二人?」 「どういう事でしょう、風山さん?」 「この剣崎城の内堀は、城攻めを想定して深さが場所ごとに違っていてね。浅い所では、丁度大人のすねあたりまでの水位しかないのです」 「うっへー…!マジっすか」 「では、もし浅瀬から深みに踏み外したら…!」 「体勢は崩れて、そこで勝負は終わる。浅瀬はそれほど広く作られていないはずだから、いわば両側は絶壁…。進むも退くも、道は只一本」 これが、栄治と憑代の意思が考えていた『最後の手段』。
堀の中に誘い込み、弱点である水の上で戦う。 傀儡ほどの効果は望めなくとも、同じく実体を持つ亡霊である以上、それなりの効果は望めるはずと踏んだのだ。 事実、芹沢の動きがほんの少しだが鈍っている。
ただ、水圧に足を取られて、自分自身の動きもまた鈍ってしまう。
いわば、大きな賭けだ。
片や死中に活を見出すべく、片や相手の底力を見んとすべく、二人はどちらともなく動き出していた。
水面に映る月が、水飛沫に激しく揺らいで像を崩れていく。
両者の間合いが接した時。 栄治が下段から右、左と横薙ぎの連撃で水面を叩き斬り、大量の水をザバザバとすくい上げた。
水飛沫の幕が行く手と視界を遮り、周りを無数の水滴が飛び散る。
「ふん…!目くらましのつもりか?しゃらくせぇっ!」 芹沢は構わず強引に刃を繰り出した。
栄治も当初の考え通り、波の向こう側に揺れる芹沢の影に向かって刀を向けた。
水の幕越しに、互いの切っ先がカチリと触れ合った。
ここで栄治は、合わせた刀を離さず、相手の刃を裏鎬ですり上げて鍔元まで一気に自分の刃を滑り込ませた。
しかし、このまま鍔迫り合いに持ち込めば、力で押し戻されかねない。
栄治は刃を大きく上方に向け、まとわり付く水の重さを振り切るように勢いよく爪先を蹴った。
栄治の全体重をかけた押し切りに、さしもの芹沢も両腕がぐんと伸び切る。
競り合っている鍔を支点に、栄治は芹沢の右足目掛けて自身の右足を踏み込んだ。
片足を踏まれた芹沢の動きは、一瞬封じられた。
栄治は素早く左膝を着き、姿勢を低くして相手の懐に入り込んだ。
ここだ。ここが際の際。
栄治は、最後の力を振り絞る。 何もかもをかなぐり捨てた、剥き出しの闘志が迸った。
「はあぁぁっ!!」 身長差を逆手に取った技に、芹沢は上から斬り付ける体勢を取れなかった。
栄治は柄頭を芹沢の喉に突き当て、さらに続けて顎を打ち上げた。
「ぐぶ…っ!」 蛙が潰されたような声が、芹沢の口から漏れ出た。
上段に振りかぶる格好になった栄治は一歩飛び退きながら刀をすぐさま反し、とどめの左袈裟斬りを放った。
だが、芹沢の目はまた死んでいなかった。
左手を柄頭から離して右手一本に持ち替えると、不恰好ながら右胴を繰り出したのだ。
互いの剣が、相手の命を貫くべく、それぞれに襲い掛かる。

そして——、一閃。

両者は後方にそれぞれ吹っ飛ばされ、水月の揺れる水面(みなも)に激しく倒れ伏した。
「相討ち!?」 「そんな…!」 「栄治っ!?」 知信、彩、忠一が驚愕する。
しばらくの間、双方の身を波が洗う音だけが微かに鳴っていた。
やがて、栄治が鉛のように重くなった体を辛うじて起こした。