「ぃよっしゃあっ!」
「やりました!栄治さんの勝ち——!」
「…いえ!まだです!」
喜びに沸き立つ忠一と彩の早合点を、知信が抑えた。
知信の察した通り、芹沢が片膝を着いてユラリと起き上がって来たのだ。
「うげぇーっ!?しつけぇー!マジかよー!?ゾンビ!このゾンビッ!」
「まだ、あんな力が残っていたなんて…!」
芹沢の驚異的な生命力にうろたえる外野を余所に、満身創痍の二人は互いをじっと見据えていた。
「肉を切らせて骨を断つ…か。なかなかやるじゃねぇか」
感じ入った口調で、芹沢は栄治に受けた左肩から胸部にかけての青く光る深手を示して見せた。
——が、にわかに口元をニヤリと歪めると
「だが、惜しかったな」
その言葉を合図に、栄治の左脇腹に黒い傷が露わになった。
叩き込まれた瘴気が、傷口から一挙にあふれ出す。
「…っ!?」
声にならない悲鳴を上げ、栄治は傷口を押えた格好で仰向けに倒れこんだ。
傷口から漏れ出した瘴気は、倒れた辺りの水をどす黒くじわりと染めていく。
「松永…君…!」
「栄治さん!栄治さん!?」
目の前の惨状に硬直する知信の隣で、彩が必死に叫ぶ。その呼びかけに、栄治はピクリとも反応しない。
忠一は未だ、何が起こったのかわからないという顔で棒立ちになっていた。
「マジ、かよ…?マジなのかよ…?」
夢遊病者のように、忠一がふらりと立ち上がった。
「は、はは…!栄治…お前、またノビてんのかよ…?根性ナシだな、おい…?補欠だけど、陸上部…なんだろ…?疲れて…休んでるだけ、なんだろ…?」
忠一の口元だけが、ぎこちなく笑っている。
「起きろよ、栄治…。もう、いーかげん起きろって…。まだ、決着はついてねーだろ…?勝負は、まだ…これからだろ…?」
栄治は答えない。
それを見た忠一の中で、何かが弾けた。
「起きろぉーっ!!栄治ぃーっ!!」
気が付けば、胸を押し潰しそうな感情を堰を切ったように吐き出していた。
「忠一さん…」
その悲痛な姿に、彩はかける言葉が見つからなかった。
知信は、焦って空回りしそうになる思考を理性で押し留めるのが精一杯だった。
(どうする…?このままでは、松永君が…!しかし、僕ら三人で一斉に挑んだとしても勝算は五分…。傀儡を失い、既に手下も倒されたとなれば、彼は相討ち覚悟で僕らを道連れにするでしょう…!ここに居る誰一人として、生き残る事が出来ない!)
これが試合なら、こうなる前に退く事も出来た。
己の力量の限界を認め、無用な痛手をこうむる事態を避けるのもまた立派な判断と言える。
だが、この戦いに逃げ道はない。実戦は、一旦始まれば無情な命の取り合いとなる。そして、どちらかが倒れるまで決して終わらない。
「お前ぇらみてぇな平和ボケした時代に、本物の剣客は育たねぇ。本気で殺し合う事でしか、死線を綱渡り出来る力は身に付かねぇからだ」
「…んだと、こらっ!?」
「何なら、残った手前ぇらでまとめてかかって来るか?…最も、全員お陀仏が関の山だろうがな」
思わず息巻いて噛み付いた忠一でさえも、そこで押し黙ってしまった。
人間がどんなに凄んだ所で、野獣が持つ剥き出しの迫力には敵わない。それまで平和な日常を重ねてきた幽士隊は、かつて命のやりとりを重ねてきた回天狗党には敵わない。
深傷を負った苦しい息の中でさえ、芹沢はそれを証明して見せた。
「さて…」
自らの勝利をものにするため、芹沢は瀕死の獲物に一歩また一歩と近づいて行った。
「然しもの"お前さん"も、そんな餓鬼が憑巫じゃあここまでが限界だったようだな」
ただ暗い水に浮いているだけになった栄治は、その意識が定かであるかどうかさえも判りかねた。
だが、右手には刀がしっかと握られており、まだ息がある事はうかがえる。
芹沢は刀を左逆手に持ち、右手を柄頭に添えて垂直に構えた。
そして、さざ波に揺られるままの栄治の心臓目掛けて、何のためらいもなく突き立てた。
「これで、終わりだ」
非情の剣が、その血を吸った強敵の命に喰らい付く。
忠一と彩が、飛び出していこうと身を乗り出すが間に合わない。
知信は叫ぶ事も忘れ、目の前が真っ暗になった。
「えぇ。終わりです」
突如として割って入った冷涼な声が、閉ざされかけた闇を晴らした。
その場に居た誰もが、戦いに魅入られるあまり今の今まで気付く事がなかった。
いつの間にか、天守側の堀端にいた伊東が、芹沢に刃を向けていたのだ。
伊東は堀に飛び込み、暗い月明かりの下で見極めておいた浅瀬を迷いなく進むと、あっという間に芹沢の間合いに迫った。
虚を突かれながらも、芹沢はすぐさま応戦すべく刀を右手に握り直してその場を離れた。
知信ははっと我に返って、自分が今最優先にすべき事を思い出した。
「月島さん!雪原君!私の事より、早く松永君を…!急いで!」
「は、はいですっ!」
「お、おうっ!行くぞ、彩!」
そう促されて、忠一と彩が堀に降りていく最中。
知信はカランという音を不意に聞き、音源をたどって目線を移した。
すると見覚えのある印籠が、手を伸ばせば届く場所に転がっている事に気付いた。
伊東は芹沢との間合いを疾風の如く一気に縮めていく。
「手負いが同士討ちか?今更だなぁ、先生さんよぉ」
芹沢の軽口も無視し、伊東は上段から面打ちを振り下ろした。
だが、芹沢は伊東の立ち位置からでは、あと一歩間合いが足りない事を見切った。
内心ほくそ笑んだ芹沢は、伊東が空振りした所を斬り返そうとその場で待ち受けた。
「ふんっ!そいつぁ届かねぇ…ぜ!?」
言い終わる前に、芹沢は異変に気付いた。
届かなかったはずの伊東の刀が、直前でグンッと伸びたのだ。
先の知信との戦いで、伊東の右手は既に使い物にならなくなっていた。つまり、右手はあくまでフェイクとして柄に置いていたにすぎなかった。
両手で面を打つ振りをして、通常よりも一歩手前の位置で刀を振り下ろす。その途中で右手は離し、左半身を大きく突き出して踏み込む。
攻撃範囲を飛躍的に伸ばし、相手に間合いを錯覚させる技。左片手側面打ちだった。
「へっ!左手一本で、俺に勝てるつもりか?」
芹沢は、右こめかみに食い込みかけた一撃を紙一重で刀ごと弾いた。
片手での打ち込みは、間合いと引き換えに腕一本分の威力が落ちる。豪腕を誇る芹沢は、いとも容易く返してみせた。
伊東とは、一時の利害の一致で手を組んでいたに過ぎない。
大人しくするつもりがないとわかった今、芹沢にためらう理由はなかった。
同盟相手といえども葬る。
面打ちを弾かれて得物を失い、胴ががら空きになった伊東が下がる瞬間を狙い、芹沢は右袈裟斬りで切り返そうとした。
が、伊東は下がるどころか、さらに間合いを詰めて来る。
(ちぃ!また死にてぇのか!?)
動揺を振り切るように、芹沢はかまわず伊東の左肩をザクリと切り裂いた。
「がっ…は…っ!」
「ぐ…ごふっ!」
次の瞬間——やや間を置いて聞こえてきたのは、芹沢と伊東、双方の断末魔だった。
芹沢の刃は伊東の左肩から心臓までを砕き、伊東は脇差でもって当て身と同時に芹沢の心臓を貫いていた。
「へっ…。どういうつもりだ…?先生さん…よぉ…?」
「言ったはずです…。『終わりです』…と。私も…貴方も!」
苦しい息の中、二人は文字通り血を吐きながら末期の言葉を絞り出した。
「く…くくくく…!」
出し抜けに、芹沢の口から笑いが漏れる。
青い光の粒が、芹沢と伊東から立ち上り始めた。
「最期の最後まで…くくっ…思い通りにならねぇ人生だったぜ…!はっはははは…!はーっはははははははっ!!」
芹沢の高笑いが、夜の闇にこだまする。
皆が呆然と見ている中。時代に背かれ背いて生きた水戸天狗は、己の不器用で破滅的な人生を自嘲しながら、あるべき場所へと還っていった。
魔王のような高笑いが残響する中、主たる怨念を失った血で錆びた鉄扇が暗い水底にへと沈んでいった。
続いて、芹沢にもたれかかるように捨て身の攻撃を当てた伊東が、支えを失って水面に倒れ込んだ。
その水音で、幽士隊は我に返った。
「月島さん、雪原君!これを!」
知信が、堀端から何かを放った。
かすかな月明かりにキラリと光ったそれは、弧を描いて彩の手の中にポトリと落ちた。
いつも彼らの負傷を治癒してくれた、監察方の印籠だった。
「それを松永君に!早く!」
「はいっ!…えっ!?」
指示通り、栄治の瘴気を取り除こうとした彩は、ある事に気付いて驚いた。
つられて彩の視線の先を追った忠一も、同じような反応をする事になった。
「のわっ!?栄治、お前ぇ…起きてたのかよ…!?」
知信にも、二人の反応は見て取れた。
栄治がうっすらとだが、目を開けていたのだ。
満身創痍となった身体は、もう言う事を聞かなくなっていた。
しかし、かすかに押し上げられたその眼には、弱弱しくも確かな光が宿っている。
一番心配された仲間の無事に、幽士隊は安堵のあまり感極まりそうになった。
栄治は、辛うじて保っていた意識の中、事の一部始終を見届けていた。
そして、今ここで聞いておかなければならない疑問があった。
「っ…ぅ…!」
身体を動かそうとしても、神経が麻痺したかのように云う事を聞かない。
それを察した彩と忠一に支え起こされた栄治は、仰向けに夜空と向き合う伊東の方を向いた。
「なぜ…だ?」
栄治は、伊東への疑問を投げかけた。
なぜ、倒れた自分に代わって、芹沢を討ち果たしてくれたのか…と。
「始めから、こうするつもりでした。貴方方が力及ばず、倒されてしまった時は…自らの手で、事を終わらせようと」
「だが、貴方は回天狗党に…」
「それも一つの方法でした。彼らと行動を共にすれば、彼らが暴走をきたした時に真っ先に対処する事が出来る…。そう考えての判断です」
やはり、知信の推測は当たっていた。
と、いう事は
「では、まさか…始めから、我々に回天狗党を倒させるつもりで…?」
「それもまた、一つの方法でした」
全ては、知信が言い当てていた形になった。
だとすれば、逆に新たな疑問が生じてくる。
「ならば、もし…もし、我々が独力で回天狗党を倒せていたら…その時、貴方はどうするつもりだったのだ?」
さっき目にした、片腕にも係わらず見せたあの剣の腕前。
あれほどの力量があるなら、策次第では藤堂との二人だけでも回天狗党と差し違える事は不可能ではなかったはずだ。
しかし、よしんば手段を選ばず相討ち覚悟で挑み、目的を果たしたとしても、取り残されては一体どうするつもりだったのか。
栄治には、そこが解せなかった。
やがて、伊東がポツリと答えを口にする。
「…人知れず、還った事でしょう」
それは、栄治たちが予想していたものとはまるで違っていた。
「私の未練は、もうこの世にはない…。あるとすれば、居てはならない存在をあるべき場所へ全て戻す事。ただ一つ」
恥じ入るでもなく、誇示するでもなく、ただ淡々と語ることが出来るほど確固たる使命感。
期せずして仮初めの生を受けた伊東が、彼なりに考えた末、己に課した役目だったのだ。
「…かたじけない」
栄治は、そして憑代の意思も、ただ一言そうとしか言えなかった。
「礼など無用。我々が生きていた時代につけるべきはずだった決着を、今つけただけです。形は随分と違ってしまいましたが…」
「その思いに報いるためにも、我々は、少しでもこの時代をより良くしていかなければなりませんね。貴方たちの代わりに」
そう言ったのは、知信だ。
彼は彼なりに死力を尽くして戦った相手の最期をしっかりと見届けようと、負傷を押して堀に降りて来ていた。
既に幽体の崩壊が始まっている伊東は、青い光の中で顎を左右に振った。
いや。本人は首を振ったつもりだった。
もう思うように動く事が出来ないのだ。
「貴方方は、我々の代わりではない。人の人生はその人にしか生きる事は出来ず、誰にも代わる事など出来はしない…。貴方方の時代は、貴方方の意志と力で築き上げていくべきでしょう」
またしても、伊東は栄治たちの予想を上回る答えを口にした。
四人は、鳩が豆鉄砲でも食らったような顔になった。
そのような価値観は初めてか、今まではっきりと自覚した事のなかった、どこか新鮮なものだった。
「…これは、一本取られた」
頭を叩かれたような気がした栄治が
「しかし、一理ありますね。誰もが誰もの代わりにはなれない。だからこそ、人は…他者を必要とするのかもしれません」
感じ入った知信が
「はい。だからこそ、新しい人間は新しい時代を作れるです」
それを受け取った彩が
「んじゃ、訂正ー。時代をどうにかするってのは、俺らにゃやっぱムリ。つーわけで、俺は俺の人生を全力で生き切る!もちろん、死ぬまでな」
身の丈に合った決意を忠一が、それぞれ今の自分に出せる答えを伝えた。
それ以上、伊東は問答には応じなかったが、どこか肯定的な表情を浮かべていた。
その頃には伊東の幽体のほとんどは宙に溶け出し、頭のあたりの輪郭しか残っていなかった。
心臓にまで達していた肩口の傷も、いつしか皓氣に満たされ、瘴気を浄化していった。
彼にも、最期の時が来た。
幽士隊は、自分たちが止め切れなかった戦いに命を賭して終止符を打ってくれた一人の剣客の旅立ちをじっと見送る。
そして、最後まで残っていた端正な顔が月光に消え入る寸前。
その双眸が、真っ直ぐに栄治へと向けられた。
「私の弟子の為に、本気で怒ってくれた事…。師として、礼を申しておく」
光が弾けた後には、一本の刀の鞘が残されていた。
それは、これ以上人目に触れるのを拒むかのように、すぐさま静かに沈んでいった。
伊東の魂は、解放された。
栄治は、伊東の末期の言葉にどうしても返事をしたかった。
もう聞こえないとしても。もう届かないとしても。
これほどまでに、大切で辛い感情を呑み込んでしまいたくなかった。
「こちらこそ…、この戦いの…幕引き…を…」
そこまで言った所で、栄治の意識は途切れた。
そして、何もかもを手放した安堵の眠りへと溶け込んでいった。
戦いは、終わった。
そして、日常が戻ってきた。